日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボツワナ」の意味・わかりやすい解説
ボツワナ
ぼつわな
Botswana
アフリカ南部にある内陸国。正称はボツワナ共和国Republic of Botswana。旧称ベチュアナランドBechuanaland。西から北にかけてナミビア、北の一部でザンビア、東はジンバブエ、南は南アフリカ共和国と国境を接する。面積58万2000平方キロメートル(2020)、その大部分がカラハリ砂漠で人口は少なく165万1296(2000)、202万4904(2011センサス)。首都はハボローネ。
[林 晃史]
自然・地誌
国土の東部はサバナ地帯で人口の80%が住み、農業と牧畜を生業としている。リンポポ川が東側国境を流れる。中央部および南部はカラハリ砂漠からなる。サハラ砂漠と違い低木・草地があるが、雨期以外には地表水がない。ここではサン人が狩猟と植物採集によって生活している。北西部はオコバンゴ川が流れ、面積約1.8万平方キロメートルのオコバンゴ沼沢地を形成、雨期にはヌガミ湖、マカリカリ塩湖が満水となる。乾燥度の高い亜熱帯性気候に属し、夏は高温だが冬には降霜もみる。降雨は夏型(12~3月)で、年降水量は全国平均で250ミリメートル、しばしば干魃(かんばつ)にみまわれる。
[林 晃史]
歴史
ボツワナの先住民は北から移動してきたサン人であるが、17世紀中ごろバントゥー語系のツワナ人が移住し、サン人はカラハリ砂漠に移動した。1820年代南アフリカのズールー人、1840年代以降はたびたびトランスバール共和国のブーア人の侵入を受けた。そのためツワナ人のカーマ3世(1837?―1923)は、1882年イギリスに保護を求め、1885年イギリス保護領ベチュアナランドが成立した。1894年イギリス南アフリカ特許会社の支配下に置かれそうになったが、住民の嘆願により1895年ケープ植民地に編入され、1910年南アフリカ連邦が成立するとその属領となった。以後ボツワナはイギリスの南アフリカ連邦駐在高等弁務官であるマフェキングの管轄下に入った。イギリスは間接統治を行い、アフリカ人の首長制支配を温存し、近代政治制度が導入されたのは1920年のヨーロッパ人諮問審議会と翌年のアフリカ人諮問審議会が置かれてからである。1960年憲法制定により立法審議会、行政審議会、アフリカ人評議会がつくられた。バマングワト人の首長カーマはイギリス留学中に結婚した白人女性を伴い帰国したが、人種差別を主張する南アフリカ政府の反対にあい再度イギリスに追放された。1956年王位を捨てて帰国したカーマは1962年ベチュアナランド民主党(BDP、現ボツワナ民主党)を結成して独立を要求した。1965年総選挙でBDPは圧勝し、カーマは首相となり、翌1966年2月のロンドン制憲会議を経て、同年9月30日ボツワナ共和国として独立、カーマは初代大統領に就任した。
[林 晃史]
政治・外交
行政府の長である大統領(任期5年)の下に内閣を構成し、立法府として議会と、八つの主要部族の首長からなる首長会議をもつ。議会の総選挙は5年ごとに実施され、いずれもBDPが圧勝している。政党活動が自由な数少ないアフリカの国の一つで、野党にはボツワナ人民党(BPP)、ボツワナ国民戦線(BNF)、ボツワナ議会党(BCP)などがある。独立後ただちに国連、アフリカ統一機構(現アフリカ連合)、イギリス連邦に加盟した。しかし、1969年の大統領カーマの国連総会での演説以降、南部アフリカの黒人解放闘争支援の態度を明らかにし、1974年にはタンザニア、ザンビア、モザンビーク、アンゴラとともにフロントライン諸国を結成し、ジンバブエ解放闘争を支援するとともに、政治的難民に対し避難所を提供している。1980年7月カーマは病死し、かわって副大統領Q・マシレが大統領に就任したが、その政策は変わっていない。1998年マシレは引退し、副大統領モハエが後を継ぎ、1999年の選挙でモハエは再選された。軍隊は、陸軍が8500人、空軍が500人、その他1000人である。
[林 晃史]
経済・産業
従来ボツワナの主要産業は牧畜であり、主要輸出品の肉類およびウシを南アフリカ共和国に輸出し、かわりに工業製品、生活必需品の大半を同国から輸入していた。しかし1960年代末に鉱産資源が発見され、1970年代初めから開発が進んで、現在は鉱業立国となっている。中部のオラパにあるダイヤモンド鉱山は南アフリカ共和国系デビアース社が、東部のセレビ・ピクウェの銅、ニッケル鉱山は南アフリカ共和国系アングロ・アメリカン社(株式保有30%)、アメリカ系ローン・セレクション・トラスト社(同30%)、政府(同40%)の三者からなるバマングワト・コンセッション社が採掘している。牧畜も依然重要であり、1979年のEC(ヨーロッパ共同体)との第二次ロメ協定の調印によって、肉の輸出先は南アフリカ共和国からEC(のちEU)にかわった。工業は未発達で、ロバツェのと畜工場以外みるべきものはない。主要輸出品はダイヤモンド、銅、ニッケルの鉱産物のほか肉類、ウシで、工業製品、食糧、生活必需品のほとんどを輸入している。主要貿易相手国はイギリスと南アフリカ共和国であるが、1979年以降ECの比重が増した。港をもたない内陸国であるボツワナは、南アフリカ共和国、レソト、スワジランド(現、エスワティニ)との間で関税同盟を結成し、南アフリカ共和国の港湾を利用している。また毎年約4万人以上のボツワナ人が南アフリカ共和国の鉱山などに出稼ぎに出ている。このような南アフリカ共和国への経済的依存から脱却するため、1979年フロントライン諸国が集まり、翌1980年にはジンバブエ、スワジランド、マラウイ、レソトを加えた9か国が南部アフリカ調整開発会議(1992年、南部アフリカ開発共同体へ移行)を結成した。その結果、先進国の援助を受けて、輸送と電気通信網の復旧・新設のほか、食糧確保、工業開発、エネルギー確保など地域レベルでの開発が推進されており、ボツワナは家畜口蹄疫(こうていえき)の撲滅、干魃(かんばつ)対策の計画を担当している。経済開発については第七次国家開発計画(1991~1997)が実施され、ダイヤモンドへの依存を減らし、経済の多角化を目ざしている。
[林 晃史]
社会・文化
主要民族グループにはバマングワト人、バクガトラ人、バクウェナ人、バングワケツェ人、バタワナ人、バマレテ人、バトロクワ人、バロロング人のバントゥー語系8部族のほか、少数のサン人がカラハリ砂漠に住んでいる。主要都市は首都も含め大部分が東部国境沿いの鉄道沿線にある。公用語は英語とツワナ語。鉱業開発以前は後発発展途上国(LLDC)の一つであったが、現在は1人当りの国民総所得が3300ドル(2000)となり、最貧国から脱した。しかし国内産業の未発達のため雇用人口は少なく、労働人口の48.5%は農業(牧畜)に従事し、南アフリカ共和国の鉱山への出稼ぎ労働者も多い。独立後教育が重視され、1986年から無料の教育制度(10年)が実施され、就学率は83%(1990)に達している。また学生数4466人(1993)の国立ボツワナ大学がある。医療施設は遅れており、病院、ベッド数ともに不足し、医師も外国人に依存している。舗装道路キロ数は約4200キロメートル(1995)で、車台数も10万台強(1994)にすぎない。新聞は政府系1紙、民間紙5紙が発行されている。
[林 晃史]