精選版 日本国語大辞典 「タンザニア」の意味・読み・例文・類語
タンザニア
- ( Tanzania ) アフリカ東部の連合共和国。大陸部のタンガニーカと、ザンジバル島・ペンバ島などからなるザンジバルとで構成される。首都はダルエスサラーム。一九六四年四月に成立したタンガニーカ‐ザンジバル連合共和国が、同年一〇月にタンザニア連合共和国と改称した。チョウジ、綿花、コーヒー、サイザル麻などを輸出する。
翻訳|Tanzania
基本情報
正式名称=タンザニア連合共和国United Republic of Tanzania
面積=94万5087km2
人口(2010)=4484万人
首都=ダル・エス・サラームDar es Salaam(日本との時差=-6時間),法律上はドドマDodoma
主要言語=スワヒリ語,バントゥー諸語,英語
通貨=タンザニア・シリングTanzania Shilling
アフリカ大陸の東部にあり,インド洋に面した連合共和国。以前タンガニーカTanganyikaと呼ばれた本土部と,ザンジバルZanzibarと呼ばれる島嶼部よりなる。1964年4月27日に両者の合邦が成立したのち,タンガニーカとザンジバルの両方の名を合わせ,タンザニア連合共和国と国名を改めた。
執筆者:吉田 昌夫
国土の大部分は先カンブリア界の結晶質諸岩石を基盤とする。南東部では,上部古生代から中生代にわたるカルー系堆積岩がこれらを覆い,その一部はさらに新第三系堆積岩をのせている。これらは何回かの激しい浸食期を経て平たん化され,同時に紅海からモザンビークにわたるアフリカ大地溝帯の活動に関連して,国内に2系列の陥没帯が形成された。一つはケニアから続く東部帯で,連続性はあまりよくないが,国内北部には弱線に沿って多量の火山岩が噴出し,溶岩台地や火山体を形成した。北東国境部のキリマンジャロ山(5895m)はアフリカ最高峰で,その西にはメルー山(4567m),ヌゴロンゴロの大カルデラ,東アフリカ唯一の活火山オル・ドイニョ・レンガイ山(2878m)などが並ぶ。もう一つの陥没帯は西の国境部に沿う西部帯で,大きな地溝湖群がめだつが,火山活動は南部のルングウェ山(2959m)付近に限られている。これら二つの陥没帯はマラウィ湖北部で会合する。インド洋に面する部分は,離水サンゴ礁とこれを刻む沈水谷を特徴とする。北半では標高5~10mの海食崖がめだち,沈水谷も深いが,南半では砂浜や泥浜が多くなり,沈水谷も浅い。大陸棚は北部と中部で幅50~100kmと発達し,ペンバ,ザンジバル,マフィアなどの大島をのせているが,南部では幅20km以下となる。
国土は南緯1°~11°46′にわたり,大観すれば赤道型気候に支配されるが,地形の影響や海岸からの距離がかなりの変化を与えている。気温の年較差は一般に3~6℃で,内陸および南部で大きくなる傾向を示すが,ビクトリア湖岸では1.5℃程度にすぎない。年平均気温はインド洋岸で約27℃(最高は1~2月,最低は7~8月),内陸の標高1200mで約23℃,1700mで約19℃である。降水は4月を中心とする雨季と9月を中心とする乾季に分かれるが,インド洋岸やビクトリア湖岸部では乾季はめだたない。年降水量は,西部と南東部では農耕可能とされる750mm以上の信頼度80%以上であり,とくに山地の南東斜面では1200mmを超える。中央部ではその2/3の地域が,牧畜可能といわれる500mm以上の信頼度80%以上となっている(ただし,ツェツェバエ分布域が広いのが悩み)。このような気候条件を反映して,植生は広義のサバンナが卓越する。比較的湿潤な南西半部ではミョンボmiomboと呼ばれる季節林地がめだち,北東半部では有木草原と低木林(ブッシュランド)がモザイクを描いている。
ビクトリア湖の南半はこの国の領域に含まれ,また陥没帯には地溝湖がめだち,西系列にはタンガニーカ湖,ルクワ湖,マラウィ湖,東系列にはナトロン湖,マニャラ湖,エヤシ湖が並ぶ。後者のグループ周辺とルクワ湖付近は内陸流域となり,海への排水河をもたないが,国土の南東半は北からパンガニ,ワミ,ルフィジ,ムベンクル,ルブマなどの川によってインド洋に排水される。北西部のカゲラ川,マラ川は白ナイル川水系に属するビクトリア湖に注ぎ,西部のマラガラシ川はコンゴ川水系のタンガニーカ湖に流入する。
執筆者:戸谷 洋
タンザニアには約120にもおよぶ部族が居住するというが,言語のうえではそのほとんどはバントゥー諸語に分類される言語を話す人々が占めており,そのほか少数の部族の言語がナイロート語群,クシ語派,コイサン語族に属する。これらの部族の人口についての最新の資料はないが,1969年の資料によると,バントゥー系の部族のなかでもビクトリア湖の南の地域に居住するスクマ族が最大で,その人口は100万を超えている。次いで,ニャムウェジ,マコンデ,ハヤ,チャガが30万以上の人口を抱えている。さらに,ゴゴ,ハ,ヘヘ,ニャキューサ,ルグルが20万台,ベナ,ニャトゥル,シャンバラ,ザラモ,イランバ,ヤオ,ムウェラ,ジグア,パレ,マクア,ニイカ,ランギなどが10万台の人口をもつ,比較的大きな部族である。一方,ジジ,ソンジョ,ビンザなどのように,言語人口が5000を下回る小さな部族も存在している。
非バントゥー系諸族はおもに北中央部の大地溝帯付近に住んでいるが,ナイロート語群に属する言語を話すのは,マサイ(6万),ダトーガ(3万)のほか,ここ100年の間にケニアから移住してきたルオ(8万)などの部族で,いずれも牧畜民として伝統的な生活様式を残している。クシ語派に属する言語を話すのは農牧民のイラク(14万)が大きく,次いでムブグ(1万)などである。またコイサン語を話す部族にはサンダウェ族(3万)やハッツァ族Hadzaがいる。ハッツァは南アフリカのサン(ブッシュマン)と近縁で,狩猟採集生活を営んでいた。そのほか,東部のインド洋岸にはスワヒリSwahiliと称される人々がいるが,彼らはダル・エス・サラームやタンガなどの都市に住み,アラブなどと混血したバントゥー系で,イスラムを信仰し,スワヒリ語を母語とする人々である。ザンジバル島には初期に移住してきたハディム,トゥンバトゥなどのバントゥー系の人々が,今日では漁業に従事している。さらに,アラブ,インド人などがいて,アラビア語も用いられている。ペンバ島にはペルシア起源と自称しているシラジShiraziがいる。またタンザニアの各地では,インド,パキスタンなどのアジア人や,ケニア,ソマリア出身のソマリ族などが,商業を握っている。
人口密度はかなり低く,海岸を除くと人口集中地域はチャガ族の住むキリマンジャロ山ろくや,ビクトリア湖南岸のスクマランドなどに限られている。住民のほとんどは自給的な農業に従事し,散村に分散して居住していた。1967年から導入されたウジャマー村政策は,当初共同農場形式を取り入れ,独特の共同体的村落を新たに形成する計画で,70年代の終りには全国で7373のウジャマー村が建設され,1350万人がそれに組み入れられた。この政策により,農耕民のみならず,牧畜民や狩猟民も村落に定住することを強いられ,部族の伝統的文化は失われつつある。こうした政府の農村開発政策にもかかわらず,農村部から都市への若年層の移住が進行中で,それに伴う失業の増大や都市生活の環境悪化などの社会問題が出現している。タンザニアの諸部族は,ハ,フィパ,ヘヘなどを除いては中央集権的な政治組織をもたなかった。ニエレレ初代大統領も小部族のザナキ出身であり,特定の部族が支配的地位を保つことなく,むしろ国家建設のため部族意識を捨てることを目ざしている。
言語政策においてもスワヒリ語を国語として定め,初等学校教育はもちろん,議会や裁判所などの公的機関や,ラジオ放送,商店の看板標示まで,すべてスワヒリ語が用いられており,現在は科学技術用語などの画定作業を急いでいる。そのほか英語も中等高等教育用語として通用している。宗教については,イスラム教徒が住民の30%を超え,次いでキリスト教徒が25%を占めている。また,アジア人の間にはヒンドゥー教徒,ゾロアスター教徒も含まれている。
執筆者:赤阪 賢
タンザニア北部のオルドバイ渓谷で,約200万年前後の猿人の骨が1959年に発見されてから,タンザニアを含めた東アフリカ地域は〈人類のゆりかご〉の地であったとみなされるようになった。その後,石器時代を経て,紀元1000年までには西方より鉄器文化をもったバントゥー系諸族が進出,森林部に住居を定め,15世紀ころから再び乾燥地域にも移動を開始した。また北部からナイロート系遊牧民の侵入が始まり,インド洋沿岸部にはペルシア人,アラブがキルワなどの商業都市を建設した。
19世紀初めには内陸部において多くの小国家が成立しようとしていた。ビクトリア湖南岸地域にはムテミという称号の首長に率いられた部族の連合が成立しつつあり,スクマとニャムウェジがその代表的なものであった。湖西地域のハヤ族は,北隣のブガンダ王国の王制に似た社会組織をつくりつつあった。北東部の山岳地域のシャンバラ族はキリンディ王朝のもとで行政組織を整え,チャガ族も統一への動きがあった。南部アフリカからヌゴニ族が強力な軍隊組織をもって侵攻して来たとき,これに対抗して軍団組織を備えたのがニャムウェジ族やヘヘ族であった。
1840年にアラビア半島マスカットのアラブのスルタン,サイイド・サイードがザンジバルに本拠を移したことにより,大陸沿岸部から内陸部へキャラバン通商路が開かれて,内陸部の小国家群は大変動にさらされ,勢力が弱まった。84年にドイツ植民会社がこの地域に進出し,86年のイギリス,ドイツ間の境界線協定で内陸部はドイツの勢力範囲と定められ,90年ドイツ帝国植民地となった。一方,ザンジバルは同年イギリス保護領となった。
広大なドイツ領東アフリカを開発するため,沿岸地方にサイザル麻や綿が導入され,内陸部と結ぶ鉄道建設のためにドイツ政府は多額の投資を行った。しかし開発を急ぐための強引な政策は住民の不満を強め,1905-07年にはマジ・マジの反乱が起こった。その後ドイツの統治方式は小農重視に変更され,綿作はビクトリア湖南岸地方に広まり,北部ではコーヒー生産が始まった。
第1次大戦中にドイツ領東アフリカは戦場となり,ドイツ敗戦後は分割されて,ルアンダ(現,ルワンダ共和国)とウルンディ(現,ブルンジ共和国)地方がベルギーの,残りの全土がイギリスの,それぞれ国際連盟の委任統治領となることが決まった。イギリスの統治は20年7月に正式に発効し,この統治領はタンガニーカと呼ばれることになった。イギリスの統治下に,サイザル麻プランテーションの発達と,アフリカ人小農によるコーヒーや綿の生産の進展があり,ヨーロッパ人の入植は抑制された。
第2次大戦後,タンガニーカは国際連合の信託統治領となった。50年代に入ると民族運動が高まり,54年7月にタンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)が結成された。党首のニエレレの指導のもとにTANUは急速に全国的な組織となり,独立を目ざして国連への提訴などを行った。その結果,イギリスも独立に同意して61年3月に制憲会議を開き,同年12月9日にタンガニーカは独立を達成した。翌62年12月9日には共和制をとり,ニエレレが大統領に就任した。
一方,ザンジバルはタンガニーカ独立2年後の63年12月10日,アラブ主導の内閣のもとにスルタンを国王としてイギリスからの独立を達成した。翌64年1月12日,アフリカ人を主体とするクーデタが起き,スルタンをはじめアラブの要人は国外へ脱出,アフロ・シラジ党(ASP)の党首カルメが大統領となった。64年4月27日,タンガニーカ大統領ニエレレとザンジバル大統領カルメの合意のもとに,国会の批准を得て両国の合邦が成立,タンガニーカ・ザンジバル連合共和国が発足した。同年10月29日,タンザニア連合共和国と国名を改めた。
1965年にタンザニアは暫定憲法により民主的一党制の確立を図り,67年2月5日TANU中央執行委員会はアルーシャ宣言を採択して社会主義化路線をとることを明確にした。同宣言による社会主義はウジャマーと呼ばれ,ニエレレ大統領の思想を色濃く反映しており,アフリカの伝統を重んじた共同体的社会主義という性格が強い。同時に非同盟主義を反映した自立の精神の強調と,政府や党の指導者資格を厳重に定めたことが特徴であった。また72年2月にはTANUガイドライン(指針)が採択され,大衆参加が強調された。
77年2月5日,アルーシャ宣言10周年目にTANUとASPは合併して,本土部とザンジバルの政党を合わせた〈革命党Chama Cha Mapinduzi(CCM)〉が成立,4月25日にはそのうえに立って新憲法が制定された。
77年憲法は一党制を受け継ぎ,一院制の国民議会をもち,CCMによって推薦された1選挙区当り2名以下の候補者に対して住民投票を行うことにより選出議員を決める方式を持っていた。選出議員数は本土部,ザンジバルを合わせて169で,全議員数の69%に当たり,このほか種々の方法で選ばれる議員(計75名)のいることがタンザニア国会の大きな特徴であった。
85年10月の大統領を選ぶ国民投票では,引退を表明したニエレレに代わって,ザンジバル出身のハッサン・ムウィニAli Hassan Mwinyi(1925- )が大統領に選ばれた。第1副大統領には首相に指名されたJ.ワリオバ,第2副大統領にはザンジバル大統領のJ.A.ワキルが指名された。
アフリカに民主化の波が押し寄せた1990年代初め,タンザニアは一党制を廃止し複数政党制に移行するため,92年に憲法を改正し,CCM以外の政党活動を認めることとなった。この間本土部とザンジバルの関係が紛争にまで高まり,ザンジバルとの連合は保ちながらも本土部にもザンジバルと並んで独自の政府を設置する案が国会議員によって決議されたりしたが,この方式は政府のとるところとはならず,タンザニア全体を統治する連合政府と,ザンジバル独自の自治政府の並列というこれまでの方式は継続された。大統領と副大統領の選出の方法は変更され,各政党は,両者をセットにした立候補者を立て国民投票によって選ばれることになった。大統領と副大統領は,一方が本土部出身であれば一方はザンジバル出身でなければならないと規定され,副大統領は閣僚の1人と位置づけられた。国会議員数は274名と定められ,うち232名は全国からの選出議員で,ほかにザンジバル議会によって任命される5名,全国の比例代表女性議員として36名,連合政府の司法長官が加えられる。任期は大統領と同じ5年である。
この憲法改正に基づく複数政党制の総選挙は95年10月に行われ,大統領にはCCMのB.ムカパBenjamin Mkapaが選ばれた。議員選挙は約60%の得票率で,第2位の約22%の得票率を得た〈建設と改革のための国民会議(NCCR)〉を抑えた。しかし同じCCMが〈市民統一戦線(CUF)〉に僅差で勝ったとされるザンジバルでは,この選挙結果に疑問を持つ者が多いといわれる。
タンザニアは外交の上ではアフリカ統一機構(OAU)およびイギリス連邦の一員として,めざましい活躍をみせてきた。とくに南部アフリカ解放の問題について中枢的役割を果たし,隣国モザンビーク独立運動を支援し,ジンバブウェ独立問題を解決するために,ザンビア,モザンビークとしばしば連携して独立闘争を助けた。
タンザニア経済は農業に大きく依存している。国内総生産(GDP)に占める農・牧畜・水産業の比重は,1995年において58%にのぼり,また総労働力人口の85%は同部門に従事していると推定されている。農業生産のほとんどが小規模自営農民によってなされており,プランテーション農業は,サイザル麻,サトウキビ,茶の生産にみられるくらいである。輸出商品についても,農産物が大部分を占め,95年においてコーヒーが全輸出額の20%,綿花が18%にのぼり,次いで茶,タバコ,クローブがおのおの4%,カシューナッツが9%で,一時は最大の輸出額を誇っていたサイザル麻は1%に低落している。鉱産物としてはわずかにダイヤモンドと金が重要であるが,全輸出額の7%程度にすぎない。製造品は16%にのぼってきている。主食は場所によって異なるが,最も重要な作物はトウモロコシで,次いでキャッサバ,米,プランテンバナナ,トウジンビエなどである。
農業以外の面ではアルーシャ宣言によって,銀行,保険業,製粉業,セメント製造,ビール製造,製靴などの主要企業を国有化した結果,経済活動に占める公共部門の比重は高まった。またタンザン鉄道の建設,東アフリカ共同体(1967年ケニア,ウガンダとともに結成)が1977年に分解したことに伴う運輸施設への投資など,新規投資も外国援助を得て活発に行ったが,1973-74年の大干ばつ,78-79年のウガンダのアミン政権との戦争,79-80年の第2次オイル・ショックの大きな影響を受け,経済危機に陥った。
80年代の経済危機は,主として国際収支の悪化により引き起こされた。原油の輸入額が輸出額の50%以上にのぼり,外貨獲得の半分を費やすようになった。価格統制を固守,平価切下げ政策に反対していた政府も,86年になってムウィニ政権がIMF勧告を受け入れて経済自由化に踏み切り,3ヵ年の経済復興計画を開始した。この結果インフレは進んだが,物資は市場に出まわるようになった。
さらに89年からは第2次経済復興計画が実施され,IMF,世界銀行から構造改革融資を導入して,さらに経済自由化を推進した。対外為替レートの自由化,輸入の自由化,などの政策もあずかって,1990年代には国内総生産の成長率は年間5%をこすほどになったが,教育・医療などの予算は切りつめられ,社会的弱者の救済が叫ばれるようになった。1986年には初等教育就学率は98%と,アフリカにおいて最も高い水準にあったが,教育財政の逼迫により近年は低下してきている。
執筆者:吉田 昌夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東アフリカ、大陸側のタンガニーカとインド洋上のザンジバル(ザンジバル島、ペンバ島など)からなる国。正称はタンザニア連合共和国United Republic of Tanzania。北はケニア、ウガンダ、西はルワンダ、ブルンジ、コンゴ民主共和国(旧、ザイール)、南はザンビア、マラウイ、モザンビークに接し、東はインド洋に面する。面積94万7303平方キロメートル、人口3456万9232(2002センサス)、4492万8923(2012センサス)。首都は法律上はドドマであるが、実質的に首都機能をもつのはダルエス・サラーム。
[赤阪 賢]
国土の大部分は標高1000メートル以上の高原からなり、西部にはアフリカ大地溝帯が走り、ビクトリア湖、タンガニーカ湖、マラウイ湖の3湖が国境線上にある。北東部にキリマンジャロ火山(5895メートル)、メルー火山(4565メートル)などの高山が点在し、パレ、ウサンバラ両山脈が走る。南東部にはリビングストン、キペンゲレ両山脈がある。大きな河川に乏しく、パンガニ川、ルフィジ川、ルブマ川などがインド洋に注いでいる。ビクトリア湖にはマラ川、カゲラ川が、タンガニーカ湖にはマラガラシ川が流入する。内陸の河川は乾期には水無川となる。
気候は、乾期と雨期との区別が明確な熱帯サバナ気候が卓越する。内陸高原のタボラでは年平均気温23.0℃、年降水量952ミリメートルで、11月から4月が雨期となる。海岸地域やザンジバル島などは熱帯湿潤気候で、ダルエス・サラームでは年平均気温25.8℃、年降水量1109.5ミリメートルに及ぶ。
植生は一般にサバナで、アカシアなどマメ科の樹木がイネ科の草原に点在している。キリマンジャロ火山などの高山の斜面には常緑樹林も発達するが、高度差による植生の垂直分布がはっきりしている。動物はトムソンガゼル、ワイルドビースト、シマウマ、キリンなどの草食獣と、それらを追うライオン、チーター、リカオン、ジャッカルなどの肉食獣、さらにゾウ、カバ、サイなど大形の哺乳(ほにゅう)動物がすむ。北部のセレンゲティ国立公園をはじめ10か所の国立公園が設けられ、ほかに17の動物保護区があり、国土の28%が野生動物保護法に基づく動物の保護対象地となっている。キリマンジャロ国立公園など、4か所の地域が世界遺産の自然遺産に登録されている。
[赤阪 賢]
オルドワイ峡谷における化石人類ジンジャントロプス(約180万年前)の発見以来、人類進化の舞台と考えられている。海岸地域は、インド洋のモンスーンを利用した交易によって古くから開け、アラブ、ペルシアとつながりが深く、その一環として中国の陶磁器が伝えられ、ザンジバル島からは唐銭(とうせん)も出土している。8世紀にはザンジバル島や沿岸部のキルワなどにアラブ人が移住し、地元のバントゥー語にアラビア語の語彙(ごい)が取り入れられたスワヒリ語が共通語となり、イスラム教とスワヒリ文化を基調にもつ人々による都市が繁栄した。
1498年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回り東アフリカに到達して以来、ポルトガル人が進出し、1503年にザンジバル島はポルトガルの保護下に置かれた。18世紀に入るとアラビア半島のマスカット・オマーンの勢力が進出し、キルワを根拠地として奴隷貿易を開始した。1840年、オマーンのスルタン、セイド・サイードは、ザンジバル島を平定しザンジバル王国をつくった。さらに、その勢力を東アフリカ沿岸部に拡大し、北はソマリアのモガディシオからキルワに至る海岸都市を支配下に置き、内陸はタンガニーカ湖東岸のウジジに至るキャラバン・ルートをつくって奴隷貿易を支配した。1860年にオマーンから独立したザンジバル王国は、奴隷貿易に加えて香辛料の丁子(ちょうじ)の貿易によって繁栄した。
19世紀なかばには、アフリカ内陸部の探検が活発になるとともに、イギリス、ドイツの両国は東アフリカの植民地化に乗り出した。アフリカの植民地獲得に遅れて参加したドイツは、1884年ペータースCarl Peters(1856―1918)を派遣し、ウサンバラ地方の首長から領土を得た。1886年にはイギリスとドイツが協定を結び、ザンジバル王国の大陸部の領土は海岸地域の幅16キロメートルに限られ、残りは北部をイギリス、南部をドイツに分割した。1888年にはドイツはザンジバル領の海岸地域を租借し、1891年には東アフリカ会社の領土をドイツ政府の保護領に切り替えた。一方イギリスは、1890年ザンジバルを保護領とし、1891年にはマシューズLloyd William Mathews(1850―1901)を初代首相とする立憲政府を発足させた。ドイツは植民地経営のためサイザル麻をアメリカのフロリダから導入し、プランテーションで栽培し、またキリマンジャロ火山山麓(さんろく)ではコーヒー栽培を導入した。さらに、ダルエス・サラームからタンガニーカ湖に至る鉄道の建設に着手し、農産物の輸送を図った。ドイツの進出に対して、すでに19世紀末から沿岸部や内陸のアラブ人やアフリカ人首長は抵抗を示していたが、とくに、1905年ルフィジ川流域地方で起こったマジマジの乱は、初期の最大の抵抗運動であった。この反乱は、ドイツによるワタの強制栽培に対する不満に端を発し、10万~12万の住民の犠牲を出して2年間続いたが、武力で鎮圧された。
第一次世界大戦が始まると、イギリスおよびベルギー領コンゴの軍隊がドイツ領東アフリカを占領し、1919年のベルサイユ講和条約でドイツ領東アフリカの大部分は、イギリスの国際連盟委任統治領となり、タンガニーカとよばれることとなった。タンガニーカは、ケニア、ウガンダとともにイギリス領東アフリカとして統一的な体制下に置かれ、通貨、関税などが共通となった。第二次世界大戦後の1947年、タンガニーカは国際連合の信託統治領となり、イギリスは東アフリカ高等弁務官府を設け、政治、経済、文化の全分野で、ケニア、ウガンダ、タンガニーカの統合をいっそう強化した。しかし、1950年代には、J・K・ニエレレの指導のもとに民族主義運動が発展し、1954年7月タンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)が結成され急速に力をつけた。1955年の立法評議会ではアフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人が、それぞれ同数の議席をもつに至った。
ザンジバルでは、1955年にアラブ系のザンジバル民族主義党(ZNP)が、1957年にはアフリカ人のアフロ・シラジ党(ASP)が結成された。1957年の選挙ではASPが立法議会の大多数の議席を獲得した。一方、1959年に結成されたザンジバル・ペンバ人民党(ZPPP)は、イギリスの政策を支持する立場をとった。
1960年9月の総選挙でTANUは大勝利を収め、1961年12月9日独立を達成した。そして翌1962年12月9日、ニエレレを初代大統領とするタンガニーカ共和国が発足した。ザンジバルでは、1961年6月の選挙でZNPとZPPPとの連立政府が成立し、1963年6月に完全な自治を獲得した。ついで同年12月にはスルタンを国王とする立憲君主国として独立した。しかし1964年1月にクーデターが発生、国王は亡命し、ASPのカルメAbeid Amani Karume(1905―1972)大統領を元首とするザンジバル・ペンバ人民共和国が成立した。1964年4月、タンガニーカとザンジバルは統合し、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国が発足、同年10月、国名をタンザニア連合共和国と改称し、大統領にはタンガニーカのニエレレ、第一副大統領にはザンジバルのカルメが就任した。
[赤阪 賢]
1972年カルメは暗殺され、以後ニエレレ大統領の独裁体制が確立した。ニエレレは非同盟外交を展開し、東西両陣営とも友交関係を維持した。とくに中国との関係は緊密で、1970年から中国の援助でダルエス・サラームとザンビアのカピリ・ムポシを結ぶタンザン鉄道の建設に着手し、1975年に完成した。1967年2月にはアルーシャ宣言を発表し、主要産業の国有化など、アフリカにおける社会主義社会の建設を目ざした。とくに中国の人民公社をモデルにしたウジャマー村を組織し、農村共同体の建設に着手した。また1967年6月、ケニア、ウガンダとともに東アフリカ共同体(EAC)を設立し、関税、運輸などの共同経営を開始した。外交のもう一つの柱はパン・アフリカニズムであり、タンザニアはアフリカ統一機構(OAU。2002年7月アフリカ連合に改組)の創設以来のメンバーとして主導的役割を果たしている。なお、東アフリカ共同体は1997年に事実上消滅したが、2001年にケニア、ウガンダと再結成している。
一方、1977年2月TANUとASPが合併し、タンザニア革命党(CCM)がタンザニア唯一の政党として結成された。同年4月制定の新憲法では同党の下での社会主義建設をうたっている。大統領は直接選挙で選出され任期は5年、議会は一院制で任期は5年である。ザンジバルは本土とは別個の政府をもち、外交、軍事、通貨以外は単一国家に近い広範な自治機能を保持している。ニエレレは5期21年間大統領の座にあったが、1985年8月引退を表明、同年10月の選挙で副大統領のムウィニAli Hassan Mwinyi(1925―2024)が大統領に選出された。
その後、社会主義的政策は徐々に緩和された。1992年5月、憲法改正で複数政党制が導入され、翌年には13の政党が登録を完了した。1995年10月に大統領および国会議員の選挙が複数政党下で初めて実施されたが、投票に混乱が生じたため、11月にダルエス・サラームなどで再選挙が実施された。その結果、本土ではCCMのベンジャミン・ウィリアム・ムカパBenjamin William Mkapa(1938―2020)科学技術高等教育大臣が第3代の大統領に当選、ザンジバルでは現職の大統領アムールSalmin Amour(1948― )が僅差(きんさ)で再選を果たした。2000年10月の大統領選挙でムカパは再選されたが、ザンジバルでもCCMのアマニ・カルメAmani Abeid Karume(1948― )が大統領に当選した。
憲法で大統領の3選が禁じられているため、2005年の選挙では、ムカパは退き、CCMのジャカヤ・ムリショ・キクウェテJakaya Mrisho Kikwete(1950― )外務国際協力大臣が大統領に当選した。ザンジバルではカルメが再選を果たしている。
[赤阪 賢]
タンザニアの産業の中心は農林・牧畜業であり、国内総生産(GDP)の50%を占める。独立時にはプランテーション農園と自給的農業との二重構造のなかで、食糧は輸入に依存するという問題を抱え、ウジャマー村政策による集団農場化で、植民地経済からの脱却と食糧自給を目ざした。ウジャマー村は8000を超え、ほとんどの農民を組織したが、官僚主義や流通機構の不備などで実効があがらず農民の生産意欲が低下した。
1983年3月、政府はこの政策の失敗を認め、食糧自給を目標とする新農業政策を発表した。ムウィニ大統領の時代に国際通貨基金(IMF)の構造調整計画を受け入れ、財政赤字の削減などの改革の成功や、インフレ抑制などにより3.9%の経済成長率を示した。しかしなお、貿易収支は1995年で輸出6億8292万ドル、輸入15億4801万ドルで、8億6000万ドル強の大幅な輸入超過となっている。
輸出商品は、コーヒー、ワタ、丁子、サイザル麻、カシューナッツなどの農産物が中心である。主要貿易相手国は、輸出はドイツ、イギリス、オランダ、輸入はイギリス、ドイツ、日本の順となっている。食糧自給体制を支える農業生産は、1994年にはトウモロコシ215万9000トン、小麦5万9000トンで、干魃(かんばつ)の影響を受けている。鉱産物はダイヤモンド、金などを産するほか、インド洋で天然ガスが発見され、1980年以後国営石油公社が開発に着手している。ザンジバル島、ペンバ島は丁子が特産品で、年間約1万トンを生産し世界の生産高の70%を占めている。
[赤阪 賢]
人口はインド洋沿岸部、ビクトリア湖岸、キリマンジャロ山麓に集中しており、おもな都市はダルエス・サラームのほかに、ムソマ、ムワンザ、タンガ、アルーシャなどがあげられる。全体に都市化は進んでおらず、都市人口は全人口の6%にとどまっている。なお、首都のダルエス・サラームからドドマへの移転が決定したが、首都機能の移転はあまり進んでおらず、1996年に議会がドドマに移り、立法府が移転したにとどまっている。
国内には約120の部族が居住するが、バントゥー語系の農耕民ではスクマが最大で100万を超える人口をもつ。ついでニャムウェジ、マコンデ、ハヤ、チャガが、それぞれ20万を超える。ナイル語系では、マサイ、ダトーガなどの牧畜民が伝統的な生活様式を残している。ケニアとは異なり、有力な部族が政治、経済などで支配的地位を占めることはない。ザンジバル島やペンバ島には、アラブ人のほか、ペルシア人を起源とすると自称するシラジ人が居住している。また、インド人、パキスタン人などのアジア人や、ケニア、ソマリア出身のソマリ人が商業に従事している。
言語はスワヒリ語を国語と定め、スワヒリ語教育に力を入れている。教育に重点を置く政府の方針によって教育はすべて無償で、小学校への就学率は69%、識字率は68%に達し、アフリカ諸国では高いほうに属する。高等教育機関は師範学校42(1991)の上にダルエス・サラーム大学(学生数5591)ほかがある。宗教は島部や沿岸部はほとんどイスラム教であるが、内陸部ではイスラム教のほかにキリスト教、部族宗教も信じられている。
[赤阪 賢]
日本はイギリス、ドイツに次ぐ第三の輸入相手国で、1993年には食糧品、自動車、鉄鋼、機械など1億1125万ドルを輸入したが、輸出はコーヒーなど4102万ドルにとどまり、タンザニアの大幅な入超である。日本からの経済援助は、1993年の政府開発援助が8883万ドルで、キリマンジャロ農業開発センターやキリマンジャロ中小工業開発などがおもなものである。
[赤阪 賢]
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東アフリカのインド洋に面する連合共和国。島嶼部はインド洋交易およびスワヒリ文化の中心。この交易に15世紀末ポルトガルが,18世紀末アラビア半島のオマーンが進出。オマーンは1830年代以降,ザンジバルに拠点を移し,内陸部長距離交易を奨励。90年本土はドイツ領東アフリカに,ザンジバルはイギリス保護領となった。第一次世界大戦後,本土もタンガニーカとしてイギリス統治下に入ったが1950年代以降ニエレレのタンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU(タヌ))を中心に民族運動が高揚し,61年12月独立達成。ザンジバルも63年12月独立後,64年のザンジバル革命をへてタンガニーカと合邦し,タンザニア‐ザンジバル連合共和国が成立。半年後タンザニア連合共和国と改称。アフリカ的社会主義を唱道しアフリカ諸国の指導的役割を担う。
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