翻訳|Namibia
アフリカ南西部にある共和国。旧称は南西アフリカ。国名は国の海岸部に連なるナミブ砂漠にちなむ。北はアンゴラ、東はボツワナ、南は南アフリカ、北東部でザンビアと接し、西は大西洋に面する。1920年より、南アフリカ連邦の国際連盟委任統治領であったが、1945年に南アフリカ連邦が南西アフリカを国際連合の信託統治制度の下に置くことを拒否し、不法統治が続けられた。1990年3月21日、正式に南アフリカ共和国(1961年に南アフリカ連邦が共和制に移行し改称)から独立した。面積82万5229平方キロメートル(2011)、人口211万3077(2011センサス)、人口密度1平方キロメートル当り3人(2020)、人口増加率は年1.9%(2020年対2015年)。首都はウィントフーク。
[藤岡悠一郎]
地勢は(1)海岸部を幅80~120キロメートルにわたって延びるナミブ砂漠、(2)内陸部に位置する標高1000~2000メートルの中央高地、(3)ナミブ砂漠と中央高地の間に連なるグレート・エスカープメントといわれる急崖(きゅうがい)地帯、(4)北部から南東部に広がるカラハリ盆地の4地域に分かれる。気候は乾燥気候が全域で卓越し、昼夜の温度差が大きい。年降水量は北東部で600ミリメートル、南西部で50ミリメートル以下であり、12~3月が雨季にあたる。ナミビア近海は寒流のベンゲラ海流が南から北へ流れ、その影響でナミブ砂漠では頻繁に霧が発生する。霧は降雨量の少ないナミブ砂漠に生息する動植物にとって重要な水源となる。恒常河川は北部国境を流れるクネネ川、オカバンゴ川、ザンベジ川、南部国境のオレンジ川のみで、それ以外のフィッシュ川やクイセブ川、スワコプ川などは雨季のみ水が流れる季節河川である。植生は、西部では砂漠となり、季節河川以外には植物がほとんど生育しない。ウェルウィッチア科のウェルウィッチア(園芸名は奇想天外)やウリ科のナラなどの固有種が生育する。内陸部ではサバナが広がり、マメ科樹木のアカシアが優占する。また、北部ではマメ科樹木のモパネが優占する植生帯が広がる。動物は、ゾウ、サイ、キリン、シマウマ、スプリングボック、カバなどの草食動物やライオン、チーター、ヒョウなどの肉食動物が生息する。海岸沿いのケープクロスはオットセイの生息地である。北部のエトシャ国立公園をはじめ、20か所以上の保護区が設置されている。なお、クネネ州のトゥウェイフルフォンテーンに残る壁画遺跡が2007年にユネスコ世界遺産に登録された。
[藤岡悠一郎]
ナミビアには、もともとコイサンに属する言語を話す民族グループが住んでいたとみられ、16世紀までにバントゥ系の言語を話すオバンボ人やヘレロ人がナミビア北部から中部に移住してきた。15世紀末から大西洋岸にポルトガル人が来航したが、砂漠地帯であるためヨーロッパ諸国の関心は薄かった。1878年にイギリスがこの地域の唯一の港ウォルビス・ベイを占領。この港を除く地域は1884~1885年のベルリン会議でドイツ領南西アフリカとなった。ドイツの植民地化に対し、1904~1907年にかけてヘレロ人、ナマ人の反乱が起きたが、いずれも鎮圧された。
第一次世界大戦中に南アフリカ連邦軍が南西アフリカを占領し、1920年に南アフリカ管理下の国際連盟委任統治領となった。第二次世界大戦後、国際連合は、人種差別政策(アパルトヘイト)によって先住民の抑圧を続ける南アフリカに対し、南西アフリカを国連の信託統治領に移行させ、住民の自治と将来の独立を認めるよう勧告したが、南アフリカはこの勧告を無視した。
1966年、国連は南アフリカ共和国(旧称、南アフリカ連邦)の信託統治を終了させ、南西アフリカを国連の管理下に入れることを決議し、1967年には、独立までの行政を担当する「国連南西アフリカ理事会」を設立した。また1968年の国連総会では国名をナミビアと改称することを決議し、1971年には国際司法裁判所が南アフリカに不法統治をやめ即時撤退するよう勧告した。南アフリカはこれらの勧告を拒否し、自治権縮小やアパルトヘイトの強化を進めた。一方国内では、最大の人口をもつオバンボ人が中心となり、不法統治に反対する組織「南西アフリカ人民機構(SWAPO:South West African People's Organization)」を1962年に結成し、1966年から武力闘争を開始した。1975年に南アフリカ政府は国際的な非難をかわすため、SWAPOを除いた勢力で制憲会議(ターンハレ会議)を発足させた。国連とSWAPOはこれに反対し、国連監視下での公正な選挙による独立を決議した。1978年12月に南アフリカは国連決議を無視して一方的に選挙を実施し、その結果、民主ターンハレ同盟(DTA:Democratic Turnhalle Alliance)が多数を獲得して制憲議会が成立、翌1979年5月に国民議会へ移行した。同年7月にDTAを中心とする暫定政府が発足したが、1983年1月に南アフリカはDTAとの対立から同政府を解散し、南アフリカが派遣した行政長官による直接支配を復活させた。1983年11月、DTA、SWAPO民主派など6党で多党会議(MPC:Multi-party Conference)が結成され、1985年6月にMPCによる暫定政府を発足させた。しかし同政府は南アフリカの傀儡(かいらい)政権で、国際的承認は得られなかった。
ナミビアは、1975年のアンゴラ独立後に起きたアンゴラ内戦に介入した南アフリカ軍の拠点となり、アンゴラとの国境付近では南アフリカ軍とアンゴラ軍、キューバ軍が対峙していた。1982年、南アフリカを支援するアメリカは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を交換条件としてナミビアの独立を認めることを提案した。1988年2月、アンゴラ、キューバ、アメリカ、南アフリカの代表が会談し、キューバ軍のアンゴラ撤退を条件に、ナミビアの独立が合意された。1989年11月、制憲議会選挙が実施され、1990年3月に独立を達成、SWAPO議長のヌヨマ(ヌジョマ)Samuel Daniel Shafiishuna Nujoma(1929― )が初代大統領に就任した。
[藤岡悠一郎]
制憲議会は二院制がとられ、複数政党制が採用された。72名からなる国民議会と全国13地域から各2名ずつ選出された代表から構成される国民評議会からなる。独立後の選挙では両院ともSWAPOが多数議席を占めた。元首は大統領で任期は5年、再選まで(3選禁止)。大統領のヌヨマは民族和解政策を掲げ、解放闘争期の対立解消につとめるとともに、白人・黒人の格差の基になっていた不平等な土地所有制度の改革に着手した。独立以後も南アフリカの飛び地とされていたウォルビス・ベイは、交渉の末、1994年3月に返還された。外交では、国際連合、アフリカ統一機構(2002年7月アフリカ連合に改組)、イギリス連邦に加盟し、周辺国との関係では南部アフリカ関税同盟、南部アフリカ開発調整会議(1992年以降南部アフリカ開発共同体に移行)に加盟した。1994年12月、独立後初めての大統領選挙、国政選挙が実施され、ヌヨマは76.3%の支持率で再選、SWAPOが最大議席を獲得した。1999年12月の大統領選挙でもヌヨマが当選し、3期目の大統領に就任した(1期目は議会での選出のため3選を禁ずる憲法の規定に違反しないと容認された)。2004年の大統領選ではヌヨマは憲法の規定にしたがい出馬せず、SWAPOの公認候補ポハンバHifikepunye Lucas Pohamba(1935― )が選出され、大統領に就任した。2009年の大統領選挙では、ポハンバが再選された。
[藤岡悠一郎]
ナミビアの国内総生産(GDP)は94億ドル(名目GDP、2009)で、サブサハラ(サハラ砂漠以南)アフリカ諸国のなかで第19位、1人当りGDPは4512ドル(名目GDP、2009)で第7位であった。実質経済成長率は1990年代には平均3.9%、2000年代は4.5%であり、比較的安定した成長を続けている。ただし、富裕層と低所得層との格差は大きく、ジニ係数(社会における所得分配の不平等を計る指標)が61.3(2010年。世界銀行)と世界各国のなかでも高い。ナミビアの主要産業は鉱業、畜産業、水産業である。鉱産資源はダイヤモンド、ウラン、銅、亜鉛などで、種類も多く産出量も豊富である。1990年代には、鉱物生産量のなかでダイヤモンドの占める割合がもっとも大きかったが、2000年代からダイヤモンド以外の鉱物生産量が上回るようになった。とくにウランの年間産出高は4626トン(2009)と世界第4位を占め、ダイヤモンドの年間産出高は230万カラット(2009)と世界第8位を占めている。これらの鉱産物は南アフリカをはじめとする諸外国の多国籍企業によって採掘されている。オラニエムントのダイヤモンドは南アフリカ系デビアス社、レッシングのウランはイギリス系リオ・ティント・ジンク社が採掘している。
農業は、国の中部・南部の灌漑(かんがい)設備を有する大規模農場と降雨に依存する北部の小規模農家によって行われる。おもな生産物は、換金作物であるトウモロコシ、ブドウ、ナツメヤシや自給用のトウジンビエ、マメ類である。畜産では、ウシと毛皮用ヒツジのカラクール種がおもに飼育される。ウシは大半が南アフリカに輸出される。ウォルビス湾を中心とするニシンとカタクチイワシの漁業が盛んであったが、外国遠洋漁業船団の進出によって漁獲量は減少し、政府は漁業資源保全につとめている。製造業は食品加工業や酒造業を中心に徐々に発達し、観光業も伸びている。
通貨はナミビア・ドルで、ナミビア銀行(中央銀行)が発行している。民間の銀行にはファーストナショナル銀行、スタンダード銀行などがある。貿易上も南アフリカと密接な関係にあり、ボツワナ、レソト、エスワティニ(旧、スワジランド)とともに南アフリカ関税同盟に加盟している。2012年の輸入総額の70%、輸出総額の16%が南アフリカとの取引であった。おもな輸出品はダイヤモンドとウランなどの鉱物、水産加工品、畜産物・家畜、精製亜鉛である。
[藤岡悠一郎]
ナミビアで最大の人口を有する民族は総人口の約50%を占めるオバンボであり、そのほかバントゥ系のグループであるヘレロ、ヒンバ、ブクシュ、スビヤやコイサン語族(コイン語族)のグループであるダマラ、ナマ、サンなどの民族が住んでいる。
ナミビアは他の南アフリカ諸国(エスワティニ、ボツワナ、南アフリカなど)とともにエイズ感染率が高く、成人(15~49歳)のエイズ感染率が21.3%(2003)に達する。
公用語は英語で、アフリカーンス語、ドイツ語も広く通じる。独立後、初等教育に力点が置かれ、小学校数は1000校以上、ナミビア大学には1万3000人以上(2010)の学生がいる。識字率は89%(2012)。宗教は、キリスト教が広く普及し、90%がキリスト教徒とみられる。ドイツ植民地であったためルター派(ルーテル派教会)信者が多く、カトリックやオランダ改革派などの信者もみられる。主要都市は首都ウィントフーク、ウォルビス・ベイ、ツメブ、ケートマンスフープである。国内には総延長2341キロメートルの鉄道路線が敷かれ、南アフリカからケートマンスフープ、ウィントフーク、ツメブの銅鉱山地帯を通り、北部の都市オンダングワまで連なり、西はウォルビス・ベイやスワコプムントに延びている。
[藤岡悠一郎]
1990年(平成2)3月21日の独立と同時に日本政府がナミビアを承認し、外交関係が始まった。2011年(平成23)時点で、円借款累計100億9100万円、無償資金協力は累計65億9900万円に上る。技術協力では、青年海外協力隊員の派遣が2006年から始まり、2013年度までに累計71人が派遣された。また、2011年3月の東日本大震災の際には、ナミビア政府から日本政府に100万ドルの義捐(ぎえん)金が寄付された。2009年のナミビアから日本への輸出額は40億円で、おもな輸出産品は生鮮魚介類などの水産物、亜鉛など。日本からの輸入額は9億円で、おもな輸入産品は自動車、機械などである。
[藤岡悠一郎]
『バーチェット著、吉川勇一訳『立ち上る南部アフリカ』(1978・サイマル出版会)』▽『水田慎一著『紛争後平和構築と民主主義』(2012・国際書院)』
基本情報
正式名称=ナミビア共和国Republic of Namibia
面積=82万4268km2
人口(2010)=214万人
首都=ウィントフークWindhoek(日本との時差=-8時間)
主要言語=バントゥー諸語,アフリカーンス語,英語
通貨=ナミビア・ドルNamibian Dollar
アフリカ南西部,大西洋に面した共和国。1968年までは〈南西アフリカ〉と呼ばれた。国際世論を無視し南アフリカ共和国(南ア)が統治していたが,90年独立した。
ナミビアはボツワナとともに赤道以南のアフリカでは最も乾燥し,また地形的に単調な地域である。大観すれば,大西洋岸のナミブ砂漠,その背後の高地,内陸側のカラハリ砂漠の三つに分けられる。カラハリ砂漠の北部にはエトシャ・パンと呼ばれる塩性湿地がみられる。降水は年による変動が大きいが,年平均10~150mmの所が多く,比較的恵まれた高地部でも300~500mmにすぎず,その雨も12~3月の夏に集中し,乾季は長く厳しい。夏には南西風が卓越し,沖合のベンゲラ寒流や冷たい湧昇流(ゆうしようりゆう)の影響で,沿岸部は気温があまり上がらず,1月の平均気温は18~20℃であるが,高地では23~26℃,カラハリ砂漠では26~29℃となる。冬には内陸からの南東風が卓越して海の影響が弱まり,7月の平均気温は北部で16~18℃,南部で12~14℃を示す。このため,常時流水のある河川は,国境となるクネネ川,オカバンゴ川,オレンジ川のほか,中部のスワコプ川とクイセブ川があるにすぎない。
執筆者:戸谷 洋
総人口の50%をバントゥー系のオバンボ族が占めている。そのほかオカバンゴ族,ヘレロ族,ダマラ族,ナマ族(コイ・コインの一部族),カプリビ族,ツワナ族,サン(ブッシュマン)などが居住している。また,かつての植民地支配者であったドイツ人と,南アフリカ共和国から移住した白人が人口の約10%を占めている。白人との混血のカラードも都市部に多く居住している。アフリカ人は,言語の区分でいえばバントゥー語系とコイサン語系に二分される。コイサン語系のサンやナマ族が本来の先住民であったが,16~17世紀に北西からバントゥー系牧畜民のヘレロ族などが入り込んできた。カラハリ砂漠に追い込まれたサンは約3万人と推定されている。今では鉄砲や馬が導入され,伝統的な狩猟採集の生活様式は大きく変わりつつある。また,政策により定着生活を強いられ,一部は軍隊にも編入されている。ナミビアの公用語は英語に定められているが,最も広く用いられているのはアフリカーンス語である。それぞれの部族においては,各部族語が広く話されている。キリスト教の布教が進んでおり,ほぼ80%の住民がキリスト教徒である。
執筆者:赤阪 賢
北側のクネネ川と南側のオレンジ川にはさまれたこの地域の原住民はサンとナマ族であった。ナマ族はボーア人と混血し,19世紀にはレホボス・バスターズRehoboth Bastersと呼ばれる混血集団が形成された。16~17世紀に北方よりヘレロ族,ダマラ族,オカバンゴ族などが南下し定着したが,全体として面積のわりには人口は希薄であった。
アフリカ分割を決めた1884-85年のベルリン会議でこの地域はドイツ領とされ,ドイツ領南西アフリカが形成されたが,この地域唯一の港ウォルビス・ベイとその周辺だけはそれ以前からイギリスのケープ植民地に属していたため,のちのナミビア独立交渉の一つの争点となった。第1次世界大戦中,南アフリカ連邦が南西アフリカを占領し,戦後,国際連盟の下で南西アフリカは南アの委任統治領となった。南アは人種隔離政策を南西アフリカにも適用し,第2次世界大戦後,国際連合が南アに南西アフリカの信託統治領への移行を勧告したが,南アはこれを拒否し事実上自国領としたため,〈ナミビア問題〉が起こった。
国連総会は南西アフリカの国際法上の地位について1949年に国際司法裁判所に提訴した。翌年裁判所は南アの主張をほぼ認めたが,南西アフリカの行政に関して国連総会の監督を受けなければならないとした。66年国連総会は,南アによる委任統治の終了と南西アフリカを国連の直轄下に置くことを決議した。さらに67年国連総会は南西アフリカ理事会を設置し,翌68年には南西アフリカの呼称をナミビアと改め,安全保障理事会も南アのナミビア統治を不法と宣言した。一方,南アは68年ホームランド制度を導入した。71年には国際司法裁判所も南ア統治を不法と裁定した。このような南アの白人による一方的土地占拠,アフリカ人の移動の制限,鉱産物の略奪に反対して,1958年最大の人口をもつオバンボ族により南西アフリカ人民機構(SWAPO)が結成され,66年以降武力解放闘争を開始した。71年の鉱山ストライキは南ア支配への全国抗議行動に発展したが,南アは軍隊を派遣して鎮圧した。
74年のポルトガルの軍事クーデタと翌年の南部アフリカ植民地アンゴラとモザンビークの独立は南アに打撃を与えた。75年9月以降3回にわたって南アは,オバンボ族のホームランドであるオバンボランドの〈独立〉とそのほかのホームランドの連邦化を図る制憲会議をウィントフークのターンハレ会議場で開催した。SWAPOと国連はこれを拒否し,全ナミビア人の参加する公正な選挙を主張した。国連安保理を構成する西側5ヵ国も南ア政府,SWAPOと何度も交渉したが失敗に終わった。南ア政府は78年12月SWAPOを除外して国内解決のための選挙を実施し,かいらい的制憲議会を創設した。その後,西側5ヵ国の働きかけによって81年1月,SWAPO代表を含めた全当事者による会議がジュネーブで開かれたが決裂した。
1988年に入りアメリカの仲介で和平交渉が進展し,ナミビアに駐留するキューバ軍,南ア軍の撤退スケジュールなどで合意をみた。89年4月には国連安保理決議435号がナミビアに適用され,それに基づき11月国連監視下の制憲議会選挙が実施された。選挙は10の政党により争われ,SWAPOが得票率57.3%で41議席を獲得,第一党となった。その後,独立のための憲法草案が審議され,90年2月採択された。同草案の骨子は諸政党との和解政策,混合経済を志向し,急激な社会主義化を避けた。3月21日にナミビアは独立し,初代大統領にヌジョマSam Daniel Nujoma(1929- )SWAPO議長が就任した。
ヌジョマは政治面では民族和解・協調政策をとり,経済面では混合経済を採用したが,私有財産制を認めるなど資本主義路線をとっている。94年12月に独立後初の国民議会選挙が実施され,SWAPOが圧勝した。また95年3月にはヌジョマが大統領に再選された。外交面では非同盟中立を掲げ,アフリカ統一機構,南部アフリカ開発調整会議(SADCC,1992年南部アフリカ開発共同体SADCに改組)に加盟し,周辺諸国との関係を深めている。
ナミビアは,南部の白人入植地域と北部のアフリカ人地域に分けられるが,経済活動の中心は南部で,ここにはダイヤモンド,ウラン,銅,亜鉛をはじめとする鉱産資源が豊富にあり,とくにダイヤモンドは世界第5位の生産量をあげている。そしてこれらの鉱産資源は南アをはじめとする多国籍企業によって採掘されている。オラニエムントのダイヤモンドはデ・ビアス・コンソリデーテッド社(南ア系),ツメブの銅,亜鉛はアメリカン・メタル・クリマックス社とニューモント鉱山会社(ともにアメリカ系),オアマイツの銅はファルコンブリッジ社(カナダ系),それにレッシングのウランをリオ・ティント・ジンク社(イギリス系)が採掘している。農業は半砂漠地域のため畜産が主で,とくにカラクール種の羊の毛皮は重要な輸出品である。ウォルビス・ベイを基地とする漁業も農業に次いで重要な産業となっている。工業は農産物加工,魚類の缶詰製造ぐらいしか発達していない。92年,ウォルビス湾が南アから返還され,現在,隣国ボツワナとナミビアを結ぶトランス・カラハリ道路が建設中である。
アフリカ人の多くは北部に暮らしているが,そのほとんどが砂漠地帯にあるため牧畜以外の農業はできない。したがってアフリカ人は南部または南アの鉱山に出稼労働を行い,その送金によってかろうじて生計をたてている。南ア統治下ではアフリカ人の移動は厳しく制限され,また契約労働制度と呼ばれる事実上の奴隷労働が行われていた。独立によってこれらの制度は廃止されたが,黒人の労働条件は悪く賃金も低いなど,白人との間には大きな格差がある。
執筆者:林 晃史
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1990年3月に南アフリカから独立した大陸南西部,大西洋に面した国。もともとサン人が住んでいた地域に,ヘレロ人,続いて武装した強力なナマ人の一団がやってきた。ヘレロ人とナマ人は敵対関係にあった。1884年にドイツ領植民地となり,第一次世界大戦後に南アフリカ連邦の委任統治領となる。第二次世界大戦後も信託統治への移行を拒む南ア連邦が支配を続け,本国同様,1968年にホームランド政策を導入して,人種差別を行った。60年,北部に住むオヴァンボ人を中心に南西アフリカ人民機構(SWAPO(スワポー))が組織され,解放闘争が始まった。国際連合の介入にもかかわらず独立は困難をきわめたが,東西冷戦の終結でようやく実現した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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