日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボリス」の意味・わかりやすい解説
ボリス(3世)
ぼりす
BorisⅢ
(1894―1943)
ブルガリア王(在位1918~43)。第一次世界大戦での敗戦と国内の混乱を機に退位した父王フェルディナンド1世の後を受けて即位。1923年6月に首相スタンボリイスキが殺害される軍事クーデターが起こったが、その参加者と関係をもっていたといわれており、これを機に政界への影響力の足掛りをつくる。さらに34年、ベルチェフ大佐の指揮する軍事クーデターが起こり、新政権が誕生すると、ボリスはこれを承認する。しかし、翌年、彼は、首相ゲオルギエフ退陣後の政権争いと軍将校内部の対立に乗じて実権を掌握し、死去するまで警察と軍隊を使った国王独裁制を敷いた。38年の選挙は体裁だけのもので、政党は認められず、議会も単なる諮問機関となった。41年にブルガリアは三国同盟に加入して国内にドイツ軍を入れる。43年、ボリスはヒトラーとの会見後、心臓発作で急死するが、一説には、暗殺であったともいわれている。
彼の死後、息子のシメオン2世(1937― )が6歳で国王に即位するが、1946年共産党政権下で王制は廃止され、王家はスペインに亡命した。シメオン2世はスペインで実業家となり、共産党政権崩壊(1989)後の96年にブルガリアに帰国。2001年4月シメオン2世国民運動(NMS)を発足させ、6月の総選挙で勝利し首相に就任した。
[寺島憲治]
ボリス(1世)
ぼりす
Boris Ⅰ
(?―907)
ブルガリアの公(汗)(在位852~889)。864年に東方キリスト教に改宗し、国教とする。背景には、国内のスラブ人とチュルク系ブルガール人との統一を図り、中央集権国家を形成する目的があった。869~870年のコンスタンティノープル主教会議では、東西教会の対立を利用してブルガリア教会の事実上の独立をかちとった。886年に、モラビアを追放されたキリロスとメトディオスの弟子たちを受け入れ、彼らの教育、翻訳活動を援助したことから、ブルガリア文化の黄金時代が到来した。889年、長子に位を譲って引退するが、彼が異教徒と組んで反乱を起こすとこれを鎮圧し、第3子のシメオンを位につけた。
[寺島憲治]