ドイツの物理学者。オラニエンブルクに生まれる。ベルリン大学でプランクの指導を受け、1914年学位を得た。1930年ギーセン大学教授、同物理学研究所長となり、1932年ハイデルベルク大学に移り、さらに同地のマックス・プランク研究所物理部部長となった。第二次世界大戦後、ふたたびハイデルベルク大学に戻り、没年までマックス・プランク研究所物理部部長の職にあった。1924年H・W・ガイガーと協力して計数管同期装置を考案、また1923年ごろからX線散乱の研究を進め、反跳電子の確認に到達し、光の粒子論の立場を推進して、光量子論に寄与した(1922~1927)。ついでα(アルファ)線の核衝突の実験を開始して、核の分裂生成物を観測し、1930年にはベリリウム核の転換をみいだし、またその際に放出される強い透過能の放射線を観測した。またハイデルベルクにサイクロトロンを建設したが、第二次世界大戦中はナチスのもとで核分裂研究を担当した(1939~1945)。1954年、「コインシデンス法(同時計数法)による原子核反応とγ(ガンマ)線とに関する研究」により、ノーベル物理学賞を受けた。また、「量子力学、とくに波動関数の統計的研究」が認められたM・ボルンも同時に受賞した。
[藤村 淳]
ドイツの著述家。15世紀50~60年代に北ドイツのブラウンシュワイクで鍛冶屋の親方の子として生まれた。足が悪かったために親の職業を継がず,1488年に徴税書記になった。この年に当時のギルド支配を嘲笑した詩〈猫と犬〉を書き,父親とともにギルドから追放された。1490-92年にブラウンシュワイクの北のパーペンタイヒの下級裁判所の裁判官となり,94-96年にはブラウンシュワイクのアルトシュタットの市参事会地下酒倉の管理人となる。97年に再び徴税書記の職につき,現存する〈徴税原簿〉を作成した。1513年の一揆の際に危うく一命を落とすところを助かり,16-20年には煉瓦製造所の管理人となった。20年ころに死亡したとみられる。15世紀末には《ティル・オイレンシュピーゲルの退屈しのぎの話(ティル・オイレンシュピーゲル)》を書き,1493年ころには《車の書》(消失),1493-1502年に《世界年代記》,1510-13年には《シヒトブーフ(ブラウンシュワイクの五大事件を扱う)》を刊行した。いずれも風刺に満ちた著述である。これまであまり知られていなかった中世後期ドイツの注目すべき著述家といえる。
執筆者:阿部 謹也
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