改訂新版 世界大百科事典 「マジマジの反乱」の意味・わかりやすい解説
マジ・マジの反乱 (マジマジのはんらん)
1905-07年,ドイツ領東アフリカ(現,タンザニア)南部の原住民が植民地当局に対して起こした反乱。綿花の強制栽培,重税などのドイツの植民地政策に反対したタンザニア史上初の民族運動で,北ではダル・エス・サラームとキロサを,南ではルクレディとソンゲアをそれぞれ結ぶ線の内側16万km2の範囲で,ヌゴニ,ムブンガ,ムウェラ,サガラ,ザラモ,マトゥンビ,ポゴロなど十数部族が反乱に参加した。闘争の過程では部族連合的な形態も出現した。双方で約12万人の犠牲者を出した後,ドイツは植民地政策を改良主義的に変更することを余儀なくされた。反乱は05年7月末のマトゥンビ丘陵での郡長への攻撃を皮切りに,8月15日にはリワレにあったドイツの要塞(県庁)を陥落させ,同年9月まで激戦が続いた。しかし06年5月のベナ族の大敗後はヌギンド族を中心に断続的,散発的な形での抵抗しかみられなくなった。この反乱は水の信仰と関連して組織化されたもので(マジMajiとはスワヒリ語で〈水〉の意),反乱の発生地マトゥンビでキンジキティレという呪術師が,人々に彼のマジ(トウモロコシ,泥水,モロコシの種などが成分)がヨーロッパ人の火器よりも強いと信じさせ,ホンゴと呼ばれる彼の高弟たちがそのマジを広めた。
執筆者:岡倉 登志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報