フランスの政治家。パリ生まれ。弁護士出身。1932年の選挙に25歳で急進社会党から立候補し当選。以後1940年まで下院議員を務め、1938年の短命な第二次ブルム内閣の財務次官となった。第二次世界大戦中は一時ビシー政府に捕らえられるが、ロンドンに逃れ、自由フランス空軍、ついでドゴールのフランス解放委員会に参加した。解放後の1944年ドゴール臨時政府の国民経済相に就任するが翌1945年辞任。ふたたび下院議員(1946~1958、1967~1968)を務め、しばしば国際金融機構でフランスを代表した。フランス軍のディエン・ビエン・フーの敗戦直後の1954年6月、インドシナ戦争を批判してきた前歴を買われて首相に就任し、ジュネーブ会議でインドシナ休戦協定を成立させた。その後もチュニジアに自治を認めるなど懸案解決に努めたが、反対も強まり1955年辞任。1956年モレ内閣の国務相となるが、首相のアルジェリア政策を批判して同年辞任。ドゴールの政界復帰に反対して1959年急進党を除名され、統一社会党に所属したが、1973年に第一線を退いた。第四共和政時代のもっとも優れた政治家の1人であったが、議会の頭越しに直接国民に呼びかけるその政治スタイルが、ユダヤ系の家系と相まって敵を多くし大成を妨げた。
[平瀬徹也]
フランスの政治家。1932年急進社会党の議員となり,38年第2次レオン・ブルム内閣の政務次官となった。40年ビシー政府に逮捕されたが脱走してロンドンに逃れた。44年パリ解放後,臨時政府の国民経済相となり,また国際連合経済社会理事会などでも活動するが,戦後のインフレーション対策を巡ってド・ゴール首相と対立し,45年閣僚を辞任。第四共和政成立後は,とくにインドシナ戦争を批判して独自の潮流を形成,54年6月議会の圧倒的多数の信任を得て首相となり,ジュネーブ協定(7月21日調印)によりインドシナ戦争を終結させた。55年首相を辞任,56年モレ内閣の国務相となる。その後,急進社会党の刷新や社会党との〈共和主義戦線〉結成など,新しい政治勢力結集に努めるも成功せず,58年ド・ゴール登場に反対し,議席を失うとともに59年には急進社会党から除名される。しかし第五共和政批判の立場を貫いて活動,60年統一社会党の結成に尽力し,67-68年再び議員をつとめる。第四共和政期の代表的政治家の一人である。
執筆者:加藤 晴康
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1907~82
フランスの政治家で急進社会党員。経済問題を得意とし,人民戦線内閣の大蔵次官となる。また第二次世界大戦中は自由フランス政府に参加。1954年には首相となってインドシナ戦争の休戦を実現させた。急進社会党を離れて統一社会党員となり(59~68年),左派政治家の思想的指導者の一人となった。
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…急進党は40年6月の敗戦によって分裂,一部はビシー政府に協力し,一部はレジスタンスに参加した。全国抵抗評議会の初代議長ムーランJean Moulin(1899‐1943)は急進党員であり,マンデス・フランスらはド・ゴールに協力した。しかし共産党,社会党,人民共和派3党が支配した解放直後は,第三共和政への批判的空気が強く,第四共和政憲法案に反対した急進党は最初の総選挙で惨敗した。…
※「マンデスフランス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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