ミロシェビッチ死去(読み)みろしぇびっちしきょ(その他表記)Death of Milosevic

知恵蔵 「ミロシェビッチ死去」の解説

ミロシェビッチ死去

2006年3月11日、ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)で公判中のミロシェビッチ元大統領が拘置所で死去した。自殺説や毒殺説などが飛び交ったが、同年5月31日に公表されたICTYの報告は持病の高血圧と心臓疾患による心臓発作が死因と結論付けた。64歳であった。クロアチアのツジマン元大統領の死(1999年)、ボスニアのイゼトベゴビッチ元大統領の死(03年)につぐミロシェビッチの死去により、ユーゴ紛争最大の政治責任者はすべて他界した。ミロシェビッチは86年にセルビア共産主義者同盟の指導者の地位に就いて以来、長らく権力の中枢にあった。89年から97年まではセルビア共和国大統領、97年から2000年まではユーゴスラビア連邦大統領の地位にあり、99年のコソボ紛争の際にICTYから戦犯として起訴された。2000年10月の民衆革命による政権崩壊後、01年4月に国内法により職権乱用と不正蓄財の容疑で逮捕され、同年6月ICTYに身柄を送検された。人道に対する罪、コソボでの戦争犯罪、ボスニアでのジェノサイド罪など66の罪状がかけられ、02年から裁判が開始された。ミロシェビッチはICTYの正当性を認めず、弁護人をつけずに裁判に臨んだが、体調不良のため再三にわたり裁判は中断された。05年12月、拘置所からロシアでの療養を申請したが拒否され、06年3月に被告による反対尋問が再開されたばかりだった。ミロシェビッチの死去に伴い、5月中の結審を目指したICTYの予定が崩れると同時に、検察側が当初から描いた大セルビア主義に基づく彼の罪状の立件を取り下げるなど最近の公判の状況も中途半端なまま幕を閉じた。06年3月18日、社会党急進党の主催による政治色の強い葬儀が親族抜きで営まれ、ベオグラードの追悼集会には10万人が参加したが、社会党の復活につながる可能性はない。遺体は故郷セルビア中部ポジャレバツの生家菩提樹の下に埋葬された。

(柴宜弘 東京大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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