改訂新版 世界大百科事典 「ムフタールの乱」の意味・わかりやすい解説
ムフタールの乱 (ムフタールのらん)
イブン・アッズバイルがカリフ位を僭称中に,過激シーア派のカイサーン派のムフタールMukhtār b. Abī`Ubayd(622-686)がクーファで起こした反乱。彼は,ハニーファ族の女が生んだアリーの息子ムハンマド・ブン・アルハナフィーヤMuḥammad b.al-Ḥanafīya(?-700)をイマームにしてマフディー,自らをそのワジール(代理)と称した。アリーの子フサインの血の復讐を求め,685年10月,ウマイヤ朝の総督を追放しクーファに政権を樹立し,一時はバスラを除くイラク南半とペルシア南西部を支配した。フサイン殺害に関係した者を処刑する一方,勢力拡大のため,これまでアラブの特権であったアター(俸給)受給の権利をマワーリーにも及ぼし,彼らを兵力として利用した。これがクーファの貴族層アシュラーフの反感・離反を招き,イブン・アッズバイルの弟ムスアブの率いる討伐軍に敗れ戦死した。この反乱の意義は,イスラムに初めてイマームとマフディーの観念が生じたことと,アラブの党派的争いに初めてマワーリーが参加したことにある。
執筆者:花田 宇秋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報