ワジール(英語表記)wazīr[アラビア]

改訂新版 世界大百科事典 「ワジール」の意味・わかりやすい解説

ワジール
wazīr[アラビア]

イスラム諸国で行政の最高責任者を表す語で,通常〈宰相〉と訳され,現在では転じて〈大臣〉を指す。旧説では中世ペルシア語vishirの派生語で,ササン朝ペルシアの制度を借用したものと考えられていたが,アラビア語のワジールは元来〈補佐〉や〈重荷を負う者〉の意味をもっていて,それが〈君主の助力者〉というイラン思想と結びつき,アッバース朝に入って公的な肩書となった。アッバース家運動を推進してきたアブーサラマが革命軍のホラーサーン軍から〈ムハンマド家のワジール〉という尊称を贈られたのが最初であるが,この時はまだカリフから任命されたのではなく,制度としても未熟であった。しかし,その後カリフ体制の中央集権化を図るうえから,ワジールはカリフの単なる補佐役から,しだいに代務者の役割を果たすようになり,やがて9世紀末近くなると,ほとんどすべての行政機関の統括者になるとともに,ときには各州の総督や税務長官,裁判官の任命権をも掌握し,カリフに代わって国政の全般を指揮した。こうしたワジールの大半はマワーリー書記カーティブ)階級出身者かその子孫かで,長年官庁業務に従事し,とりわけ税務関係の諸官庁長官の経験者が多かった。しかし,なかには商人階級出身者や行商から身を起こして財をなし,徴税請負人を経て宰相になった者もいる。ワジールは行政上では強大な権力を行使したが,カリフに対して絶対服従しなければならないことから,宮廷内の陰謀に巻き込まれやすく,地位は不安定で,在任期間は概して短かった。10世紀半ば,イスラム世界に軍事政権が成立してカリフ権が弱体化すると,ワジールもカリフの単なる書記に転落した。ただセルジューク朝時代にはスルタンを補佐する宰相職の意味に復した。ファーティマ朝では,アッバース朝にならって官僚出身者がワジールとなったが,そのような文官支配による国家体制も前半期までで,後半になると軍人が宰相職も兼ね,他のイスラム世界の軍事政権と変りないものとなった。マムルーク朝時代はおおむね文官出身者がワジールに任命され,税務行政を担当し,スルタン政府の重要なメンバーとして国政に参加はしたが,同時にスルタンの家産の管理者をも兼ねていた。したがって支配階級アミールたちからは,従属的な職掌とみなされて,よく評価されない傾向があった。

 オスマン帝国のワジール(ウェジールvezir)職は最初セルジューク朝のそれを引き継いだものであったが,14世紀の後半になると,この称号は複数の人物に与えられ,それぞれの権限も限定されたものとなった。しかし1360年代初めには,その第1ウェジールvezir-i azamに当たる者を大宰相とする制度が生まれ,やがてはスルタンに代わって,行政と軍事の国政全般を処理する者となった。ただし称号としては,初めはウル・ウェジールulu vezirも用いられたが,もっぱらサドラザムが使用された。一方ウェジールの数は時代によって変遷があり,4人ないし7人任命されたが,時代が下ると,なんらの職権も保持せず,単にスルタンの娘婿というだけでウェジールの称号を与えられるなど乱れた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ワジール」の意味・わかりやすい解説

ワジール
wazīr

イスラム国家の宰相,大臣を意味するアラビア語。ワジールの肩書は,アッバース朝のカリフ,アブル・アッバース (在位 750~754) のとき,アブー・サラマが「ムハンマド家のワジール」と呼ばれたのが最初。官僚の代表としての初代ワジールは第2代カリフ,マンスール (在位 754~775) 時代のアブー・アイユーブであり,次いでバルマク家のヤフヤーやファドルがワジール位を独占して絶大な権力をふるった。アッバース朝における官僚機構の発展に伴って,ワジールもカリフの補佐役から国家の首相へとその性格を変え,財務・行政官僚としてのすぐれた能力を要求された。 10世紀以降は,カリフ権力の低下と軍人階級の台頭により,ワジールの権力は次第に低下していったが,セルジューク朝やオスマン朝では再び大きな権力をもった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワジール」の意味・わかりやすい解説

ワジール
わじーる
wazīr

「宰相」「大臣」などを意味するアラビア語で、英語でもそのまま用いられる。イスラム圏でワジールが出てくるのはアッバース朝(750~1258)からで、それ以前のウマイヤ朝(661~750)にはいなかった。アッバース朝初期においては、ワジールはカリフ個人の補佐役で、カリフの幼少期の家庭教師がその任にあたる場合が多かった。中期に官僚制度が整備されてくると、ワジールは官僚組織の最高位者となり、カリフにかわって実質的な行政の統轄者であった。10世紀以後はイスラム圏はいくつもの軍事政権が並存する時代となるが、ワジールは各政権の文官の最高位者であった。ただ、ファーティマ朝(909~1171)の後半期のように、ワジール職も軍人が占める政権もあった。オスマン朝ではワジールは複数が任命されたため、ワジールのなかの最高位は大ワジールと称した。現代では行政官庁の長官がワジールとよばれ、総理大臣は大ワジール、あるいはワジールの長とよばれる。

[後藤 明]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ワジール」の解説

ワジール
wazīr

イスラーム諸王朝の宰相。行財政におけるカリフスルタンの補佐官であり,政府を事実上統轄するほか,軍の指揮を執ることもあった。絶大な権力を誇り,ときに私財を蓄えたが,ひとたび権威が失墜すると財産を没収され零落した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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