モーゲンソー(Hans Joachim Morgenthau)
もーげんそー
Hans Joachim Morgenthau
(1904―1980)
アメリカの国際政治学者。ドイツに生まれ、ナチス政権の成立とともに亡命し、1943年アメリカの市民権を得た。シカゴ大学教授、ニューヨーク市立大学教授を歴任。主著『国際政治論』Politics among Nations(1948)は、国際政治の本質を「権力をめぐる闘争」と規定するとともに、一国の外交政策がよってたつべき基準として「ナショナル・インタレスト」(国益)という概念を導入し、権力闘争を前提として、勢力均衡外交に基づくナショナル・インタレストの相互尊重により平和を維持すべきであると主張した。こうした政治的現実主義は、アメリカ外交における法律主義的、道徳主義的アプローチに対する批判として提出されたもので、戦後の米ソ冷戦の展開と対ソ戦略構想の必要のなかで、少なくとも1950年代を通じて、アメリカにおける国際政治研究の主流を形成した。またそれは、冷戦を権力闘争の一つととらえることにより、「反共十字軍」的な使命感を抱きがちな傾向に対する警告も意味したのであり、実際彼は、1960年代には、こうした立場からベトナムへの介入に強く反対した。
[佐藤信一]
『H・J・モーゲンソー著、現代平和研究会訳『国際政治――権力と平和』新装版(1998・福村出版)』
モーゲンソー(Henry Morgenthau, Jr.)
もーげんそー
Henry Morgenthau, Jr.
(1891―1967)
アメリカの政治家。ニューヨーク市生まれ。同名の父(1856―1946)はドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人で弁護士、不動産業者、外交官であった。コーネル大学卒業。隣人であったF・D・ルーズベルトのニューヨーク市長在任中に同市の農業行政に従事。ルーズベルト政権誕生後は農業救済に力を尽くしたのち、財務長官に就任(1934~1945)。急進派として知られたが、財政思想は保守的で均衡財政に固執した。第二次世界大戦期には対外政策にも積極的に関与、戦後処理にあたっては、IMF、世界銀行の設立に力を尽くす一方、対ソ宥和(ゆうわ)とドイツの徹底した非ナチ化・農業国化を唱えた。
[牧野 裕]
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モーゲンソー
Hans Joachim Morgenthau
生没年:1904-80
ドイツ出身のアメリカの国際政治学者。1931年フランクフルト大学法学部助手となるが,ナチス政権樹立後,スイス,スペインに亡命し,37年にアメリカに移住した。49年シカゴ大学教授となり,68年以降はニューヨーク市立大学教授となる。主著《国際政治Politics among Nations》(1948)は国際政治を権力政治という視点から,きわめて体系的に分析した著作として大きな影響を及ぼした。彼の視点自体はヨーロッパでは常識に属するが,それを明快な体系的一貫性をもって理論化した功績は大きい。ただし彼が権力政治の契機を力説したのは,当時,アメリカに支配的であった反共十字軍的発想を批判し,権力政治的アプローチは,イデオロギー的対立にもかかわらず,外交的な妥協と共存を可能にすることを論証するためであった。その意味で彼はアメリカの非合理的な外交に異議申立てを行ったのであり,したがって,1960年代に彼がベトナム戦争批判の先頭に立ったのは首尾一貫した行動であった。
執筆者:坂本 義和
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モーゲンソー
Morgenthau, Hans Joachim
[生]1904.2.17. コーブルク
[没]1980.7.19. ニューヨーク
ドイツ生れのアメリカの国際政治学者。ベルリン,ミュンヘン,フランクフルト各大学に学び,ジュネーブ大学大学院で博士課程を修了。 1927年法曹界に入り,フランクフルト労働法裁判所長官代行のかたわら,32年にはジュネーブ大学で公法を講じた。 A.ヒトラー政権の出現で 35~36年マドリードに逃れ,さらにアメリカに渡った。 37~39年ブルックリン・カレッジ,39~43年カンザスシティー大学で教え,43年シカゴ大学に移り,49年同大学政治学教授。国際政治を「権力政治」の場としてとらえる立場から徹底した現実主義の政策を説き,アメリカのベトナム介入を痛烈に批判した。主著『国際政治学』 Politics among Nations (1948) ,"Politics in the 20th Century" (3巻,62) ,"Truth and Power" (70) 。
モーゲンソー
Morgenthau, Henry, Jr.
[生]1891.5.11. ニューヨーク
[没]1967.2.6. ニューヨーク,ポキプシー
アメリカの政治家。一時コーネル大学で学んだが,1913年農園を買い,酪農,果樹栽培に従事した。この農園がニューヨーク州,ハイドパークの F.ルーズベルトの家の近くにあったことからルーズベルトと親しくなり,29年ルーズベルトのニューヨーク州知事就任以来,彼の死まで政治生命をともにした。 33年ルーズベルトの大統領就任後は連邦農業委員会委員長,財務次官などを経て,34年1月~45年7月財務長官をつとめ,ニューディール政策や第2次世界大戦中の経費には膨大な予算を組んで対処した。 44年ドイツの徹底的な非軍事化と非工業化を目指すモーゲンソー計画 (ルールとザールの軍需工業を廃棄させ,主として農牧の国に転換しようとする案) を立案した。 45年4月ルーズベルトの死後引退。その後は農園に移り,慈善事業に余生をおくった。
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「モーゲンソー」の意味・わかりやすい解説
モーゲンソー
米国の国際政治学者。ドイツ出身。1933年亡命。シカゴ大学教授。国際政治学におけるリアリズムを提唱,権力政治として国際関係を分析し,イデオロギーにとらわれた見方を批判した。主著《科学的人間対権力政治》《諸国民間の政治》《国家的利益の擁護》。
→関連項目国際政治学|坂本義和
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モーゲンソー
生年月日:1904年2月17日
ドイツ生まれのアメリカの国際政治学者
1980年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のモーゲンソーの言及
【国際政治】より
…こうしたアプローチは,広義の政治権力論的な視点を反映しており,国際関係の政治分析として新たな意味をもつものであったが,1930‐40年代のきびしい国際状況をも反映して,基本的にはまず権力単位として国家を措定し,その間の政治的関係として国際政治をとらえる点では,古典的な見方に通じる。H.J.モーゲンソーの主著が《国家間の政治Politics among Nations,the Struggle for Power and Peace》(1948)と題されたことは,その好例である。しかし,1945年以降の核兵器の開発,また70年代以降の環境・資源問題の顕在化などを背景に,個別国家から出発するのでなく,世界・地球全体の視点から出発するアプローチの必要を認める傾向が強まってきた。…
【国際政治学】より
… [F.L.シューマン]は1920年代のアメリカに高まった国際問題への関心がもっぱら法や機関の設立にあったのに対し,ナチズムの台頭を背景におきながら,権力的要因を重視し,精神分析や社会経済的観点をとり入れながら,西欧型国際社会を人類史・文明史的に分析し,人類社会と主権国家との矛盾を指摘した(《国際政治International Politics》1933)。H.J.モーゲンソーはアメリカ国民の法律主義的・道徳主義的国際政治観に対し,権力政治に立脚した体系的な国際政治学を樹立した。[モーゲンソー]は国際政治が勢力均衡のもとにおける力の政治であることを前提とすることによって,外交による交渉と妥協とが可能になり,平和が維持されるとした。…
※「モーゲンソー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」