日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユトレヒト」の意味・わかりやすい解説
ユトレヒト
ゆとれひと
Utrecht
オランダ中部、ユトレヒト州の州都で、商工業都市。人口25万6420(2001)。ライン川支流のベヒトVecht川に沿い、国内商業の拠点であると同時に、交通・文化の中心地でもある。伝統的な繊維、陶器、たばこのほか、金属、機械、化学、印刷などの工業が発達するが、主産業はむしろ商業、サービス業にあり、古くからの青果市、牛市をはじめ、春と秋には国際産業見本市が開催される。またアムステルダム・ライン運河や鉄道、高速道路が集中する交通の結節点でもあり、国鉄本社の所在地となっている。旧市街は深い堀によって囲まれ、中心部には高さ112メートルのゴシック様式の尖塔(せんとう)を有するドム教会をはじめ、鉄道博物館など多数の博物館、専門学校があり、郊外にあるユトレヒト州立大学(1636創立)を含めて、学術文化都市としての性格も有する。第二次世界大戦後に人口が急増したため、郊外に市域が拡大し、またホーヘカテリナ計画とよばれる中央駅を中心とした旧市内の再開発事業が推進された。
ユトレヒト州はアイセル湖の南に位置し、総面積1434平方キロメートル、陸地面積1359平方キロメートルと最小の州で、人口111万7997(2001)。州域の大部分がライン川デルタの上にあるが、スカンジナビア氷床の南限が北西―南東方向に州を横断しているため、東部は砂礫(されき)質の不毛地、西部は粘土質の肥沃(ひよく)地となり、後者を中心に酪農と麦類・野菜の栽培が行われる。722年に聖ウィリブロルドが設立した司教区が州の起源である。
[長谷川孝治]
歴史
名称は「下流の徒渉場」の意味で、ローマ時代にはトライェクトゥムTrajectum、ウルトライェクトゥムUltrajectumとよばれ、ローマ帝国北辺境を守る堡塁(ほうるい)であった。フランク王は、一時この地を征服したフリース(フリジア)人に対する宣教のため、695年ウィリブロルドを司教に任じ、のち司教区を設けて彼をその初代司教とした。以来異教徒の侵入を阻む都市として発展したが、9世紀以後は北ネーデルラントの商業の中心地となり、また織物業が発達し、11、12世紀にはこの都市の繁栄は最盛期を迎えた。13世紀末、政治的紛争と他都市の勃興(ぼっこう)により交易は衰えたが、織物業はなお存続した。1304年同職ギルドの権利が認められたが、これが自治権の強化を喜ばない司教との不和をよび、市民は弾圧された。1528年、司教は神聖ローマ皇帝カール5世に司教領を売却した。フェリペ2世(在位1556~1598)の時代には、オラニエ公ウィレムを支援し、オランダ独立運動において重要な役割を果たし、1579年ユトレヒト同盟結成の舞台となった。その国際的都市としての性格は、1713年のユトレヒト条約にもみられる。
[米田潔弘]
世界遺産の登録
オランダ人建築家ヘリット・リートフェルトが1924年に設計・建築したシュレーダー邸はユトレヒト市内にあり、2000年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「リートフェルト設計のシュレーダー邸」として世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。
[編集部 2018年5月21日]