1713年4月11日,スペイン継承戦争の交戦国であるフランスとイギリス,オランダ,ポルトガル,サボイア,プロイセンとの間にユトレヒトで結ばれた一連の講和条約。翌14年のラシュタット条約(神聖ローマ皇帝・フランス間),バーデン条約(プロイセン以外のドイツ諸国・フランス間)によって補完される。ユトレヒト条約により,スペインの王位は,フランスが同王国を統合しないという条件で,ルイ14世の孫フェリペ5世に与えられ,スペインにおけるブルボン朝が始まった。オーストリアのハプスブルク家は,スペイン領ネーデルラントと,イタリアにあるスペイン領のミラノ,ナポリ,サルデーニャを獲得,サボイア公はシチリアの王号を認められた。
この条約で最大の実質的利益を得たのはイギリスである。イギリスは,フランスにハドソン湾,アカディア,ニューファンドランドを割譲させて,カナダ支配への道を開く一方,スペインからはジブラルタルとミノルカを得て,地中海に通商上,軍事上の拠点を確保した。また,フランス,オランダの犠牲において,スペインおよびその植民地との貿易で最恵国待遇をかちとったことは,中南米への進出の画期を意味する。つまり全体としてこの条約は,ルイ14世のヨーロッパ制覇の野心をくじき〈勢力均衡〉を回復するとともに,海上支配におけるイギリスの優位を決定づけたのである。
執筆者:成瀬 治
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スペイン継承戦争(1701~14)終結の際の一連の講和条約の総称。まず1713年4月11日、フランス、スペインとイギリス、オランダ、ポルトガル、サボイア間にオランダのユトレヒトUtrechtで条約が成立。ついで、14年3月6日、フランスとドイツ皇帝(オーストリア)間にラシュタット条約、さらに同年9月7日のバーデン条約、15年11月15日のオランダと南ネーデルラント間の障壁協定と一連の補足の協約が成立した。
この結果、スペインは、フェリペ5世の復位は認められたものの、ネーデルラント、北イタリア、ナポリ、サルデーニャはオーストリアへ、シチリアはサボイアへ譲渡され、決定的に没落した。フランスは、戦前の領地を保持したが、ルイ14世の大陸制圧政策は挫折(ざせつ)した。もっとも有利なのはイギリスで、ジブラルタル、ミノルカ島を得て地中海制圧の足場をつくり、ニューファンドランドほかを得て北アメリカ植民地を拡大し、またスペイン植民地に対する貿易特権を得て、イギリス優位の時代を開いた。
[千葉治男]
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スペイン継承戦争終結のためフランスおよびスペインとイギリスとその同盟国の間で結ばれた一連の条約。ただしプロイセンを除くドイツ諸邦とはラシュタットで別に交渉が行われた。1712年7月フェリペ5世のフランス王位継承権放棄を条件に休戦が成立してのち,翌年4月の英仏間の6条約を中心に15年までに各国間の合意が成立した。イギリス,スペイン両国の王位が承認されたほか,条約の最大の受益国はイギリスで,フランス領アメリカ植民地の一部(ハドソン湾,アカディアなど),ジブラルタル,ミノルカを獲得,フランスの拡大の挫折とイギリスの優位が確定的となった。
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…スペイン領植民地は深刻な労働不足状態にあったから,この契約に基づく奴隷供給とそれに伴う商品貿易は莫大な利潤があがると信じられ,この契約をめぐる争いが重商主義戦争の重要な原因となった。はじめは個人としてのスペイン人やポルトガル政府,1701年からはフランス政府がこの契約権を握っていたが,13年ユトレヒト条約締結に際してイギリスがこれを奪った。イギリスは以後30年間,毎年4800人の奴隷を供給し,毎年1回商品貿易に従う〈年次船〉500トンを派遣する権利を得たのである。…
… 一方,ニューフランスの版図が広がるにつれ,南のイギリス植民地との接触・衝突の機会が多くなった。本国同士の争いは直ちに植民地におけるそれに発展し,1713年にはアン女王戦争の結果のユトレヒト条約で,ニューファンドランド,ハドソン湾岸のほか,ノバ・スコシアを中心とするアカディア地方が正式にイギリス領と認められた。英仏植民地戦争の最大にして最後のものが,54年に始まったフレンチ・インディアン戦争である。…
…ルネサンスとバロックというヨーロッパ近代の二つの流れに次ぐガリレイやデカルトに代表される科学と理性を基にした第三の流れは,スペインのそれまでの歴史および精神と完全に対立した。ヨーロッパ諸国では,ウェストファリア条約(1648)からユトレヒト条約(1713)へ至る間に,キリスト教信仰への理性の反逆が起こり,国家理性に基づき,国民国家を行動単位とする現代の勢力均衡政治の原型が姿を現した。ところが,スペインはキリスト教信仰による普遍性を唱え続け,広いヨーロッパの領土を防衛する軍事力ももたなかった。…
… しかし10年,イギリスのアン女王がマールバラ公と衝突し,政権が主戦派のホイッグ党から和平主義のトーリー党へ移ったのに加えて,翌11年,皇帝ヨーゼフ1世(在位1705‐11)が嗣子なく没し,弟のカールが新皇帝に選ばれるにおよんで,イギリスは講和を急いだ。12年の夏にフランスがスペイン領ネーデルラントで皇帝・オランダ連合軍に大勝すると,オランダも和平に踏み切り,その結果,13年4月のユトレヒト条約で,皇帝を除く連合国とフランスの間に講和が成立,翌年3月には皇帝もラシュタットRastattでフランスと和し(ラシュタットの和),戦争は終結した。この戦争でフランスのルイ14世の覇権政策はついえ,他方イギリスは,仏領アメリカ植民地の一部,ジブラルタル,ミノルカなどのほか,通商の上ではオランダを抑えて,スペイン植民地における最恵国待遇をかちとり,海外発展を一段と進めた。…
…南海会社は1711年に,スペイン領中南米との奴隷その他の商品の取引を目的とし,またスペイン継承戦争でふくれ上がった国債の低利債への転換をも目的として設立された。同社がユトレヒト条約(1713)でスペイン領への奴隷の独占的供給権(アシエント)を獲得したために,膨大な利潤を予想する者が多くなり,さらに20年には東インド会社とイングランド銀行を抑えて同社がほとんどすべての国債を引き受けることを議会が承認したため,その株価が急騰した。これを契機として,ほかにも無数の〈株式会社〉が出現,熱病的な株式ブームとなった。…
…スペイン系がカルロス2世(在位1665‐1700)で断絶し,スペイン継承戦争が勃発すると,レオポルト1世の次子カール6世も継承権を要求する。兄皇帝ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝,在位1705‐11)の死によってカール6世が皇帝(在位1711‐40)になると,ハプスブルク世界帝国の再現を恐れた西欧列強は1713年ユトレヒト条約を結び,スペイン王位はハプスブルク家を離れ,ブルボン家に移った。
[啓蒙君主たち]
しかしオーストリア家はネーデルラントとイタリアの旧スペイン領を併せ,カール6世は同じ年の1713年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を制定し,広大な世襲領の永久不分割と長子相続を図ったが,継承者に男子を欠き,長女マリア・テレジアの一括相続のために譲歩を重ね,国際的承認を得ていた。…
※「ユトレヒト条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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