ラサ条約(読み)らさじょうやく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラサ条約」の意味・わかりやすい解説

ラサ条約
らさじょうやく

1904年イギリス(正確にはインド政庁)とチベットとの間に結ばれた条約。19世紀後半以降イギリスはロシアの南下を警戒して、チベットと条約を結ぶ交渉をしようとしたが、チベット側はこれを拒否した。それに対して、イギリスは1904年1万の軍隊を派遣してラサを占領し、特派使節団長ヤングハズバンドとチベット代表の間でラサ条約が締結された。この条約によってチベットは、インドとの交易市場の設置、イギリスの商務駐在官のチベット常駐、チベット領土の外国への不割譲などを認めさせられた。この条約によってチベットは事実上イギリスの保護国のような地位に落とされた。しかし、チベットに対しては中国(清(しん)朝)が宗主権をもっていたので、イギリス(インド軍)が撤退すると、清朝は軍隊を送ってチベットを占領してしまった。1907年のイギリス・ロシア協商では、チベットに対する中国の宗主権が確認されたため、ラサ条約はほとんど無効となった。

[小谷汪之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラサ条約」の意味・わかりやすい解説

ラサ条約
ラサじょうやく
Convention between Great Britain and Tibet

英蔵条約ともいう。 1904年9月,ラサに侵入したイギリスの F.ヤングハズバンドとチベット側代表団との間に結ばれた条約。チベット,イギリス領シッキム間の国境の確認,通商のためギャンツェ,ガルトク,ヤトゥンなどの開放のほか,チベットはイギリスの承認なしにはその領土を処分できない,あるいは鉄道,鉱山などの利権を外国に供与できない,50万ポンドの賠償金を支払うまでイギリス軍がチュムビイ渓谷に駐留することなどを定めた。チベットに対する清朝の宗主権を無視し,イギリスの属国化をはかるものとして 07年のイギリス,ロシア間の条約でイギリスの優越権は否定されたが,チベットへのイギリス勢力進出の端緒となった。

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