ラスプーチン(その他表記)Grigorii Efimovich Rasputin

デジタル大辞泉 「ラスプーチン」の意味・読み・例文・類語

ラスプーチン(Grigoriy Efimovich Rasputin)

[1872~1916]ロシア修道僧ニコライ2世皇后アレクサンドラの信頼を得て、宮廷内に絶大な権力をふるった。第一次大戦中に親独派と結んで講和を図ったとして、反対派貴族に暗殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「ラスプーチン」の意味・読み・例文・類語

ラスプーチン

  1. ( Grigorij Jefimovič Rasputin グリゴリー=エフィモビチ━ ) ロシアの修道僧。シベリアの貧農の出身。帝政末期の宮廷に出入りし、ニコライ二世と皇后に寵愛されて一時は国政を左右した。第一次世界大戦中、皇后とともにドイツと結んで単独講和をはかったとして暗殺された。(一八七二‐一九一六

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改訂新版 世界大百科事典 「ラスプーチン」の意味・わかりやすい解説

ラスプーチン
Grigorii Efimovich Rasputin
生没年:1864か65-1916

帝政ロシア末期の怪人物。シベリアのチュメニ県ポクロフスコエ村出身の農民。馬泥棒をして村を追放されたのち,修道院を回って宗教家となり,村に戻った。その宗教はフリスト(鞭身派)という新宗派に近い新興宗教で,催眠術もとり入れたようである。1904年ペテルブルグに上り,首都の神学大学校のフェオファンの紹介で,ニコライ大公Nikolai Nikolaevich(1856-1929)の夫人のもとに出入りし,そこから〈神の人〉として皇后アレクサンドラに紹介された。皇太子血友病におびえる皇后から強い帰依を受け,05年11月1日皇帝ニコライ2世にも会った。このように宮中に出入りしながらも,身持ちが悪く,女信者との怪しげな関係もあったことから,10年に入ると,新聞で批判されるようになったが,皇帝はこの批判を許さず,皇后の支持はさらに強まった。政治に介入するようになったのは,第1次大戦中のことで,皇后とともに,皇帝に対し,最高総司令官ニコライ大公の更迭を働きかけた。この問題をめぐり,皇帝が大臣たちと正面衝突すると,以後皇帝の助言者として圧倒的な影響力をもつにいたった。彼のまわりには,彼の力を利用しようとする人々がいつも現れたが,この時期には特別に多かった。一方,皇后とラスプーチンの関係は愛人関係であり,この二人はドイツと結びついて単独講和を策しているという流言が広まり,皇帝権力の権威を大きく失墜させた。怒った右翼政治家と大貴族ユスポフ公爵によって殺され,死体はネバ川の氷の下に投げこまれた。
執筆者:


ラスプーチン
Valentin Grigor'evich Rasputin
生没年:1937-

ロシアの小説家。シベリアのウスチ・ウダ生れ。イルクーツク大学を卒業後,地方新聞の記者を経て,1961年から短編を発表。66年ルポルタージュ集と短編集《この世の人》を出版したが,本領を発揮したのは中編小説で,《マリアのための金》(1967),《最期》(1970),《マチョーラとの別れ》(1976)などがある。77年には第2次世界大戦中のシベリアの脱走兵とその妻を描いた《生きよ,そして記憶せよ》(1974)により,ソ連邦国家賞を受けた。シュクシーンらとともに〈農村派作家〉の代表であり,シベリアの農村を舞台に,老婆の死やダム建設で水没する村など,じみな題材を,方言や俗諺を織りまぜた独自の豊かな文体で描いている。また自分たちが古来受け継いできたものを未来へ伝えるという姿勢があり,それが素朴な人間愛に基づく深い心理描写や,自然のフォークロア的なとらえ方にも反映している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラスプーチン」の意味・わかりやすい解説

ラスプーチン(Grigoriy Efimovich Rasputin)
らすぷーちん
Григорий Ефимович Распутин/Grigoriy Efimovich Rasputin
(1864/65―1916)

ロシアの僧侶(そうりょ)で帝政末期の宮廷の黒幕。西シベリア、トボリスク県の寒村に生まれる。青年時代は馬泥棒だったが、30代に異端の宗派に近づき、各地の修道院や聖地を遍歴し、奇跡を行う予言者として信者を得た。1904~05年に首都ペテルブルグの上流社会に知られるようになり、やがて宮廷に出入りした。祈祷(きとう)によって血友病の皇太子に治療を施し、それを通じて皇帝ニコライ2世、とくに皇后アレクサンドラАлександра Фёдоровна/Aleksandra Fyodorovna(1872―1918)の絶大なる信頼を得た。その信頼ゆえに、早くから酒乱と淫蕩(いんとう)の醜聞が絶えなかったにもかかわらず、宮廷から排除されず重用された。政財界の右翼反動勢力は、神と皇帝に忠誠心厚い「真正なるロシアの百姓」の声を反映する者として、彼の存在に着目し、彼をその政治目的に利用。宮廷をめぐるこの種の陰謀は第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後に顕著となり、帝政の自壊を早めた。閣僚人事へのラスプーチンと皇后の露骨な容喙(ようかい)は、1916年初頭のゴレムイキン首相の罷免(後任シチュルメル)に始まる頻々たる閣僚の交代、一名「大臣のかえるとび」をもたらし、敵国ドイツへの内通の疑惑を招いた。国内の革命情勢の高まりを背景として、帝政崩壊に2か月余り先だつ同年末、名門の公爵ユスーポフの邸で国会の右翼議員プリシケービチにより殺害された。

[原 暉之]

『保田孝一著『最後のロシア皇帝ニコライ2世の日記』(1985・朝日新聞社)』


ラスプーチン(Valentin Grigor'evich Rasputin)
らすぷーちん
Валентин Григорьевич Распутин/Valentin Grigor'evich Rasputin
(1937―2015)

ロシアの作家。アンガラ河畔の農家生まれ。イルクーツク大学卒業後、地方紙の記者をし、短編集『この世の人』(1967)でデビュー。中編『マリヤのための金』(1967)、『アンナ婆(ばあ)さんの末期(まつご)』(1970)で農村派作家として文名を確立。『生きよ、そして記憶せよ』(1974)で、1978年にソ連国家賞を受けた。その後バイカル湖の汚染問題など自然環境保護運動に精力的に取り組んだ。中編『マチョーラとの別れ』(1976)、『火事』(1985)などは、近代文明の環境破壊を強く訴えた作品である。ほかに『長く生き、長く愛せ』(1982)など。1991年には、ルポルタージュ『シベリア、シベリア……』を刊行した。その後も、「ロシア人作家は自分の生れた土地に徹底徹尾奉仕する以外にほかの道はない」という立場から創作活動を始め、『思いがけなく、意外にも』(1997)、『新しい職業』(1998)を発表した。

[原 卓也 2016年1月19日]

『原卓也・安岡治子訳『生きよ、そして記憶せよ』(1980・講談社)』『安岡治子訳『マリヤのための金』(1984・群像社)』『安岡治子訳『マチョーラとの別れ』(1994・群像社)』

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百科事典マイペディア 「ラスプーチン」の意味・わかりやすい解説

ラスプーチン

ロシアの小説家。シベリアのイルクーツクとブラーツクの間の寒村に生まれた。半年は雪と氷に閉ざされるシベリアの農村で,家霊や森の精の存在を感じながら過ごしたことが,その作品の下地となっている。イルクーツク大学で歴史と文学を学び,1959年の卒業後は地方新聞の記者をしながら短編を書きはじめ,1966年水力発電所の建設を取材したルポルタージュ集を2冊刊行。1967年初の短編集《この世の人》を出版し,同年中編小説《マリヤのための金》を発表してその本領を発揮した。さらに《アンナ婆さんの末期》(1970年),《マチョーラとの別れ》(1976年)を出し,第2次大戦中のシベリアの脱走兵とその妻を描いた中編《生きよ,そして記憶せよ》(1974年)によって,1977年にソ連邦国家賞を授与された。老婆の死やダムに水没する村といった題材をシベリア方言や俗諺を交えた豊かな文体で描き,シュクシーンらとともに〈農村派作家〉を代表すると見なされている。ペレストロイカに当初は共鳴していたが,やがて保守的ナショナリズムに傾いた。

ラスプーチン

ロシアの宗教家。帝政末期に宮廷に出入りし,皇太子の血友病を祈祷で治療したと称して皇后アレクサンドラの信頼を得た。第1次大戦中には皇帝ニコライ2世をも動かして国政を左右,事態を憂慮する大貴族と右翼政治家によって暗殺された。その私生活が放縦をきわめたため種々の風説を生み,怪僧と呼ばれた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラスプーチン」の意味・わかりやすい解説

ラスプーチン
Rasputin, Grigorii Efimovich

[生]1864/1865. ポクロフスコエ
[没]1916.12.30. ペトログラード
ロシアの神秘主義的修道士。皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラ・フョードロブナの寵臣。本名をノビフといい,シベリアの農民の子として生れた。キリスト教の一分派,むち打ち教に加わり,若いときは放蕩を尽したが,人並みはずれた体力と雄弁で,1902年頃から預言者,聖僧と噂された。 04~05年ペテルブルグの社交界に進出,やがて皇太子アレクセイの血友病に悩む皇后に近づき (一種の催眠療法によって皇太子の出血を何度か止めたという) ,またニコライの治世への神の加護を約して,次第に皇室に影響力をもつようになった。皇后への影響は,第1次世界大戦勃発後の 15年,皇帝がみずから前線の指揮をとるため戦場へおもむいて以来,特に強まった。その国政へのたび重なる干渉,彼を中心とする上流社会の醜聞に憤った皇太子フェリクス・ユスポフ,皇族のドミトリー・パブロビッチらによって暗殺された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラスプーチン」の解説

ラスプーチン
Grigorii Efimovich Rasputin

1869~1916

シベリアの農民出身の宗教家。皇太子の血友病に悩んでいたニコライ2世の皇后に大きな影響力を持つに至り,第一次世界大戦中には彼の意見で閣僚も更迭された。帝政の権威復活をめざす右翼議員と皇族に暗殺された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラスプーチン」の解説

ラスプーチン
Grigoriy Efimovich Rasputin

1872〜1916
ロシアの怪僧
シベリアの貧農の出身。各地を巡礼・放浪したのち,ペテルブルクに赴き,ニコライ2世,特にその皇后の寵を得て,1914〜16年にかけて宮廷内で大きな勢力をふるい,宗教・内政・外交を左右するに至った。第一次世界大戦の和平派で,1916年反対派に暗殺された。

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世界大百科事典(旧版)内のラスプーチンの言及

【ロシア革命】より

…この状況の中で,全工業の動員を主張して軍需生産への参入をめざすモスクワ資本の動きは,戦時工業委員会をつくり出し,国の信任をうる人々よりなる内閣を求める国会多数派〈進歩ブロック〉が形成された。皇帝は皇后とラスプーチンの助言で,敗北の責任者,ロシア軍最高司令官ニコライ大公を解任し,みずからがその後任となった。大臣たちはこれに強く反発し,皇帝と激突した。…

※「ラスプーチン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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