フランスの社会主義者。サンティアゴ・デ・キューバに生まれる。9歳でフランスに渡り、パリで医学を修めた。プルードン主義の影響を受け、反帝(反ナポレオン)運動にかかわって大学を追われ、ロンドンに亡命。そこでマルクスと知り合い、彼の次女ラウラLauraと結婚(1868)。1866年に第一インターナショナル評議会メンバーとなり、パリ・コミューンに参加。敗北後スペインに亡命し、反バクーニン主義の闘争を展開した。1880年に大赦で帰国、その後二度投獄され(1883、1891)、1891年には下院議員に当選。ゲードとともにフランス労働党の結成に力を注ぎ、1905年までその指導にあたった。ドレフュス事件(1894)を契機にゲードとの対立が深まり、彼と決別した。不十分なドイツ語の能力を克服してマルクス、エンゲルスの著作の多くをフランス語に翻訳し、マルクス主義をフランスに導入、普及させた。晩年厭世(えんせい)観に陥り、年老いて生き長らえることに抗し、1911年11月25日の夜、観劇を終えてドラベーユの自宅で妻とともに自殺した。
[佐藤 清]
『P・ラファルグ著、田淵晉也訳『怠ける権利』(平凡社ライブラリー)』
フランスの社会主義者。キューバのサンチアゴに生まれた。P.J.プルードンの影響の下に,学生時代から社会主義運動を行い,大学を追われ,ロンドンに移住した。ここでマルクスと知り合い,1869年彼の次女ラウラと結婚した。パリ・コミューン時代には大きな活躍をしたが,これに失敗した後,スペインへ亡命した。81年帰国して,J.ゲードとともにフランス労働党を結成し,1905年までその指導にあたった。1891年下院議員となったが,1911年厭世観に陥り,ドラベーユで夫婦ともに自殺した。革命的集産主義の理論と実践に身をうちこんだことと,マルクス,エンゲルスの著作の仏訳などによりマルクス主義をフランスに普及させたことは,彼の大きな業績である。主著として《怠ける権利》(1883),《歴史における観念論と唯物論》《所有権,その起原と発展》(ともに1895)などがある。
執筆者:滝沢 武久
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…しかしミラノ滞在中に労働者組織と接触してマルクス主義に転じ,76年に帰国後,社会主義新聞《レガリテL’Égalité》を発刊,ジャーナリストとして復活するとともに,再生しつつあったフランス社会主義運動と労働運動の中で重要人物となった。P.ラファルグを通じてマルクスとも知りあった彼は,ラファルグと共にフランス労働党結成に参画。その綱領(1882年ル・アーブル大会で採択)は,同国初のマルクス主義的政治綱領といわれる。…
※「ラファルグ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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