ドレフュス事件(読み)どれふゅすじけん(英語表記)L'Affaire Dreyfus

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドレフュス事件」の意味・わかりやすい解説

ドレフュス事件(フランス史)
どれふゅすじけん
L'Affaire Dreyfus

1894年、ユダヤ人砲兵大尉ドレフュスAlfred Dreyfus(1859―1935)が、ドイツへのスパイ容疑で軍に逮捕され、南米ギアナ沖の孤島に流されてから、99年特赦されるまで、フランス全体を揺るがした事件。ドレフュスの無実だけは現在明白であるが、その他の点ではなお多くが謎(なぞ)に包まれている。

 最初、国民は圧倒的にドレフュス有罪を信じ、弟マテュウや1896年ドレフュス無実を発見した参謀本部ピカールGeorges Picquart(1854―1914)中佐などの奔走も効がなく、逆にピカールはチュニジア奥地に左遷された。その背景としては、当時政財界に強い影響力をもっていたユダヤ系金融勢力への、左右両翼、カトリック教会の反感など根強い反ユダヤ感情や、プロイセン・フランス戦争の敗戦以来尾を引き、89年のブーランジェ事件で燃え上がった国民の対独復讐(ふくしゅう)熱などがある。ようやく98年1月、作家ゾラが、急進派クレマンソーの新聞『オーロール』(曙(あけぼの))紙上に、大統領への公開状を発表し、ドレフュスの無罪を訴えたことが転機となり、世論は両分された。もはや一ユダヤ軍人の人権問題にとどまらず、対独復讐主義や反ユダヤ主義、軍国主義、教権主義など、第三共和政下の諸争点が噴出して、フランス国内が二つに分裂する世紀末の大事件に発展した。

 ドレフュス擁護派には、人権擁護同盟に集まる作家、知識人や、共和制の防衛を目ざす議会共和派左翼、クレマンソーらの急進派、社会主義諸派などがたち、反ドレフュス派には、反ユダヤ主義、反共和主義の国粋派、カトリック勢力、王党派および軍部があった。98年8月のアンリHubert Henry偽書(1896年に参謀本部少佐のアンリが作成した、ドレフュス有罪を補強する偽文書)の発覚によって反ドレフュス派の主張は崩壊したが、右翼によるドレフュス派の大統領ルーベÉmile Loubet(1838―1929)暴行事件など共和制の危機は頂点に達し、この過程で同年6月、第三共和政を支配してきた保守共和派(オポルチュニスト、日和見(ひよりみ)派)政権は崩壊して、左翼共和派(ワルデック・ルソー派)や急進派、社会主義派による左翼政権(共和制防衛内閣)が成立し、ドレフュスの特赦となった。そして「ドレフュス革命」といわれる諸変革、とくに軍の共和化、非政治化、政教分離などの内政民主化が進み、社会は「ベル・エポック(よき時代)」という名で象徴される、第一次世界大戦前の大衆社会状況に入っていく。なお、ドレフュス事件は、知識人やマスコミが政治、社会に大きな役割を演ずる画期ともなった。

[中木康夫]

『渡辺一民著『ドレーフュス事件』(1972・筑摩書房)』『ピエール・ミケル著、渡辺一民訳『ドレーフュス事件』(1960・白水社・文庫クセジュ)』『稲葉三千男著『ドレフュス事件とゾラ』(1979・東京大学出版会)』『大仏次郎著『ドレフュス事件』(1974・朝日新聞社)』『ドレフュス著、竹村猛訳『ドレフュス獄中記』(1979・中央大学出版部)』


ドレフュス事件(大仏次郎作の史伝)
どれふゅすじけん

大仏次郎(おさらぎじろう)作の史伝。1930年(昭和5)5~10月『改造』に連載、同年天人社刊。フランス第三共和政の土台を揺さぶった政治的事件を主題とした作品。1894年に国防上の機密文書をドイツに売った疑いでドレフュス大尉は告訴されるが、この事件をめぐって世論は沸き立ち、政治問題となる。そして無罪が証明されたのちも真犯人は保守派によってかばわれたが、自由と正義の信念に基づいて闘いにたったゾラなどの文化人も少なくなかった。日本の軍国主義が台頭しようとする時期に、その時代的風潮に批判と警告を加えた史伝であり、作者の市民的良心を示す。『ブゥランジェ将軍の悲劇』(1935)、『パナマ事件』(1959)と続く歴史三部作の第一作にあたる。

[尾崎秀樹]

『『ドレフュス事件』(1974・朝日新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドレフュス事件」の意味・わかりやすい解説

ドレフュス事件
ドレフュスじけん
Affaire Dreyfus

フランス第三共和政を揺がした政治危機。 1894~1906年社会の根底に横たわる社会的・政治的緊張を露呈し,共和国の存続そのものを危険にさらした事件として知られる。 1894年ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスがドイツに情報を売ったとして終身流刑に処せられた。軍部内では,別に真犯人のいることがわかったが,軍の威信と反ユダヤ感情などのため事件を糊塗しようとした。最初は家族と知人を中心とした再審要求運動であったが,上院副議長 A.シューレル・ケストネル,のちの首相 G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。 98年文人 É.ゾラが『オーロール』紙上で「私は弾劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するなど,世論は高まり,単に個人の有罪,無罪の論議をこえて,左翼には,国権に対する個人の自由を守り,軍を議会の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」,右翼には,軍の威信や伝統的価値を擁護し,対ドイツ愛国心を強調する国家主義者,頑固なカトリック,反ユダヤ人主義者,保守主義者などを中心とする「反ドレフュス派」が形成され,国論を2分して抗争するにいたった。 98年 H.アンリ大佐が文書の一部偽造を告白して自殺したため,再審は確実となり,99年レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然有罪で,大統領特赦で刑が免じられた。 1903年新たに有利な証拠が提出され,06年7月民事の破毀院はレンヌの判決を全面的に破棄,議会も復権法案を可決した。同月 22日ドレフュスも正式に復権した。

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