ラメセス[2世]
Ramesses Ⅱ
古代エジプト第19王朝3代目の王。ラムセス2世Ramses Ⅱともいう。在位,前1290ころ-前1224年ころ。セティ1世の子。父王の遺志を継いでアマルナ時代に失われた北シリアの回復を目ざし,デルタに新設したラメセス市に遷都,数度にわたるアジア親征でヒッタイト軍と戦った。治世第5年のオロンテス河畔カデシュの戦は詳細な記録の存在によりとくに名高いが勝敗はつかず,アッシリア王シャルマネセル1世の地中海進出の脅威を前に北シリアの回復を断念した。治世第21年にはヒッタイト王ハットゥシリ3世との平和条約により相互軍事援助同盟を結んで,権益の現状固定を図り,ヒッタイト王女と結婚した。対外情勢の安定後は関心を国内での神殿建築に向け,アブシンベル神殿,ラメセイオン(王の葬祭殿,ラメセウムともいう),アビドス神殿を建造したほか,カルナックやルクソールの神殿を増改築するなど巨大性と地理的広がりで歴代ファラオ中首位を占める。王像彫刻の遺存例も最も多いが,前代の諸王の像の名まえだけを改変したものも多いことが分かっている。
執筆者:屋形 禎亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のラメセス2世の言及
【アビドス】より
…遺跡は中央の墓地をはさんで,北のオシリス神殿,南の空墓群に分かれ,墓地は古代よりの盗掘で損傷著しいが,1899‐1903年の[ピートリー]の発掘をはじめ調査がくり返され,初期王朝時代の泥章・小牌・石碑,中王国時代の供養碑など重要史料が発見されている。オシリス神殿は完全な廃墟であるが,空墓のうちセティ1世建立のもの(オシレイオンとよぶ)とその神殿,ラメセス2世建立の神殿は,建築プランと壁面の彩色浮彫を比較的よく保存している。【屋形 禎亮】。…
【アブ・シンベル】より
…エジプト南部,アスワンより南へ約280km,ナイル川西岸にある二つの岩窟神殿遺跡。[ラメセス2世]がヌビア地方に造営した七つの神殿のうちの二つ。アスワン・ハイ・ダムの建設に伴う水没から救済するため,1964‐68年にユネスコにより移転された。…
【エジプト】より
…アメン神官団の支持で将軍ホルエムハブHoremhabが即位,王権側の試みは挫折して軍人と神官の勝利に終わる。[アマルナ時代]
[新王国時代――ラメセス時代]
第19王朝の諸王は帝国の再建を試み,[セティ1世]はパレスティナの再征服に成功,シリアに軍を進めるが北シリアはヒッタイト側にとどまる。[ラメセス2世]は北シリアの回復を目ざして東デルタに新都ペル・ラメセスを建設,オロンテス河畔のカデシュでヒッタイト軍と決戦するが痛み分けに終わり(前1286ころ),のち前1260年ころヒッタイト王ハットゥシリ3世との間で平和条約を結んで,戦争状態の終結,政治亡命者の引渡し,相互軍事援助,国境の現状維持を確認し合い,ヒッタイト王女を後宮に迎えた。…
【ヒッタイト】より
…次王ムワタリMuwatalli(在位,前1306ころ‐前1282ころ)は,北辺のカシュカの備えを王弟ハットゥシリに任せ,一時,都をダッタシャ(アナトリア南東部,正確な所在地は不明)に移した。前1286年ころ,ムワタリはシリアに積極的に進出を企てるようになったエジプトの[ラメセス2世]とオロンテス河畔のカデシュで会戦,結果はヒッタイト側の勝利に終わり,シリアにおけるヒッタイトの権益は安泰となった。 ムワタリの没後,嫡子ウルヒテスプUrhi‐Tesup(ムルシリ3世)を退けて王位に就いた王弟[ハットゥシリ3世](在位,前1275ころ‐前1250ころ)は,エジプトとの抗争に終止符を打ってラメセス2世と和平条約を取り交した(前1269ころ)。…
※「ラメセス2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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