ヒッタイト(読み)ひったいと(英語表記)Hittites

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒッタイト」の意味・わかりやすい解説

ヒッタイト
ひったいと
Hittites

小アジアを中心として、紀元前1750年ごろから前1190年ごろに活躍したインド・ヨーロッパ語族の民族、言語、国家の名称。ボアズキョイボガズキョイ)出土の粘土板文書ではハッティ、『旧約聖書』ではヘテびと。英語のヒッタイトが一般化している。

大村幸弘

ヒッタイト学の成立

1906~07年、11~12年、ドイツのアッシリア学者H・ウィンクラーHugo Winkler(1863―1913)は、小アジア中央部のボアズキョイの発掘調査で1万枚を超すボアズキョイ文書とよばれる粘土板を発見した。その一部を現場で解読することにより、ボアズキョイがヒッタイト帝国の都、ハットゥシャであることを確認した。31年から、ドイツの考古学者K・ビッテルにより発掘調査は再開され、現在に至っている。ヒッタイト語の解読はチェコスロバキアのフロズニーBedřich Hrozný(1879―1952)によって行われた。彼は1916~17年「ヒッタイト人の言語、その構造と印欧語族への帰属」を発表、ヒッタイト語がインド・ヨーロッパ語族の一つであることを明らかにし、ヒッタイト学の基礎は確立された。

[大村幸弘]

歴史

ボアズキョイ文書には、ヒッタイト語のほか、アッカド語シュメール語、ハッティ語、フルリ語、パラ語、ルウィ語が認められ、ヒッタイト帝国は数民族から構成された複合民族国家であった裏づけとなっている。これらの言語のなかで、ルウィ語、ヒッタイト語、パラ語は、前2000年ごろを境として、ルウィ人、ヒッタイト人、パラ人がコーカサスの西側、黒海沿岸を通過、小アジアへ民族移動した際に持ち込んだ言語である。通説では、ルウィ人が先に小アジアへ入り、その後ヒッタイト人が移動したといわれる。ヒッタイト人が統一国家を建てる前、小アジアの山中の銅を求めてアッシュールからきたアッシリア商人が、キュルテペ(古代名カネシュ)の城外に居留地を置き、カールムという彼ら独自の組織をもち、先住民と交易を行っている。このカールムからはカッパドキア文書とよばれる粘土板文書が大量に出土した。それによると、フルリ、ヒッタイト、ルウィ語人名が含まれており、すでにインド・ヨーロッパ語族が定住化していたことがうかがわれる。また同文書には、ピトハナ、その子アニッタの名が登場しているが、これらはボアズキョイ文書のなかに出てくるクッシャラの王ピトハナ、その子アニッタと一致している。

 前1750年ごろアッシリア商人の活動は急速に弱まる。その背景の一つには、ヒッタイトが統一国家としての形態を整え始めたことがあげられる。ヒッタイト帝国は古王国と新王国に分けられる。古王国はラバルナ1世が前17世紀初頭に王位についてから、前16世紀後半のフズィヤ1世の時代まで、新王国は前15世紀中葉に即位したトゥドハリヤ2世から、前12世紀前半のシュッピルリウマ2世の時代までであるが、王名表、古王国と新王国との時代区分には依然問題が残されている。古王国の場合、ボアズキョイ文書の史料は新王国に比較して少ない。ラバルナ2世はクッシャラのアニッタによって呪(のろ)いをかけられ、放棄されていたハットゥシャに都を置き、自らの王名もラバルナからハットゥシリ1世とした。彼は「君主学の書」とよばれる遺言を残しており、不できの息子のかわりに孫のムルシリ1世に王位を与えている。ムルシリ1世はシリアのアレッポを急襲、その後、前1590年ごろにバビロン第一王朝の都バビロンに遠征、それを崩壊させるなどの外征を行った。ムルシリ1世はハットゥシャへ戻ったのちに暗殺され、ハットゥシャは内紛が続いた。ムルシリ1世以後、ハンティリ1世、ズィダンタ1世、アンムナ1世、フッズィヤ1世とめまぐるしく王は変わった。テリピヌ(在位前1525ころ~前1500ころ)は王位継承を基本とする「勅令」を成文化し、それまでの権力闘争に終止符を打った。テリピヌ以後、王位継承法は堅持され、アルルワムナ、ハンティリ2世、ズィダンタ2世、フズィヤ2世と古王国の後半は平穏に過ぎた。

 前15世紀中葉、トゥドハリヤ2世が即位、新王国時代を迎える。この時代は古王国と比較して史料が豊富である。新王国は、シュッピルリウマ1世(在位前1375ころ~前1335ころ)の時代に代表されるような、領土拡大に重点が置かれた。まずシュッピルリウマ1世はミタンニの内紛に乗じてミタンニ王の息子マッティザワを支援するとともに従属化に成功。エジプトのミタンニに対する影響は弱体化した。シュッピルリウマ1世没後、領土拡大政策をムルシリ2世(在位前1350ころ~前1315ころ)は続け、ルウィ人のアルザマを侵略、属国化を行った。その子のムワタリ(在位前1315ころ~前1284ころ)は前1285年ごろシリアのカデシュで、エジプト第19王朝のラムセス2世と、東地中海世界、シリアの覇権をめぐって雌雄を決する戦いを行っている。しかし双方譲らず、のちハットゥシリ3世(在位前1275ころ~前1250ころ)はラムセス2世と前1270年ごろ和平条約を締結、新王国は安定期を迎えた。しかし、これを境としてヒッタイトはしだいにその勢力を弱めていく。前1190年ごろシュッピルリウマ2世の治世に、小アジアの西側から侵攻してきた「海の民」によってハットゥシャは崩壊し、ヒッタイトにより約550年間続いた小アジアの支配は終焉(しゅうえん)を迎えた。

[大村幸弘]

『大村幸弘著『鉄を生みだした帝国――ヒッタイト発掘』(NHKブックス)』『ツェラーム著、辻瑆訳『狭い谷、黒い山』(1958・みすず書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヒッタイト」の意味・わかりやすい解説

ヒッタイト
Hittites

前 1800~前 1200年頃に小アジアに王国を築いたインド=ヨーロッパ語系民族。 (→インド=ヨーロッパ語族 ) 1887年に発見されたアマルナ文書の中のアルザク書簡,1906年以来ボガズキョイで発掘された多数の粘土板文書によって後期青銅器時代 (前2千年紀) に小アジア一帯にかけて一大勢力を有していたことが明らかになった。前 17世紀の初代ラバルナシュ1世から前 15世紀中頃のフッツィヤ2世までを古王国といい,ラバルナシュの子ハットゥシリシュ1世 (ラバルナシュ2世) は都をハットゥシャシュ (ボガズキョイ) へ移した。その後孫のムルシリシュ1世がバビロンを攻撃し,バビロン第1王朝を滅亡させた。ムルシリシュ1世暗殺後,王族と貴族からなる士族団パンクの間で後継者をめぐりしばらく権力闘争が続いた。王権を安定させたのはテリピヌシュで,王位継承の順序を定め,法典を編纂した。やがて前 15世紀中頃トドハリヤシュ2世が新たな王朝,新王国を興し,シュッピルリウマシュ2世まで2世紀半続いた。前 1375年頃王位についたヒッタイト中興の祖ともいうべきシュッピルリウマシュ1世は,国内体制を強化し,次いで良港や商業路の集中したシリアに進出目標を定め,その勢力を北シリア全域に広げた。そのためシリアの支配権をめぐってエジプトとの抗争が激化し,前 13世紀末頃オロンテス川河畔のカデシュで決戦が行なわれ,ムワタリシュはシリアでのヒッタイトの権益を守り抜いた。その後アッシリアの勢力が強まったため,エジプトとの友好を促進させたが,西方の海洋国家の勃興により,属領を侵略され,前 1190年頃「海の民」の侵入により突如として首都を攻撃され,ヒッタイトは滅亡した。王権はパンクの存在にみられるごとく制限的王権から,新王国における専制的王権へと展開した。宗教・軍事・司法上の権威を一身に集めた専制君主のもとで貴族,戦士,自由身分の農民や職人はそれぞれの身分に応じて封地を与えられ,その下に奴隷の階級があった。ハッティ人の始めた製鉄法を独占していたことが,ヒッタイトの軍事的強さの一因でもあった。

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