ヒッタイト(英語表記)Hittite

翻訳|Hittite

デジタル大辞泉 「ヒッタイト」の意味・読み・例文・類語

ヒッタイト(Hittite)

前2000年ごろから小アジアで活躍した、インド‐ヨーロッパ語を用いた民族。また、その国。前18世紀に小アジアに王国を建国。馬と鉄器を使用し、前14世紀にはエジプト・アッシリア間に大帝国を建設したが、前12世紀に入って急速に衰退。その楔形くさびがた文字はすでに解読され、象形文字も残存する。ハッティ。

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精選版 日本国語大辞典 「ヒッタイト」の意味・読み・例文・類語

ヒッタイト

  1. 〘 名詞 〙 ( Hittite ) 紀元前二〇〇〇年頃小アジアでインド‐ヨーロッパ語を用いた一民族。紀元前一八世紀中頃アナトリアに古王国を建て、紀元前一七世紀には小アジア・メソポタミア・シリアの各一部を征服、次いで新王国は紀元前一四世紀中頃最盛期に達し、エジプト・アッシリアと並ぶ大帝国となった。紀元前一二〇〇年頃海上民族の侵入で滅亡。鉄器と馬の使用で軍事的にすぐれ、楔形文字も解読され、象形文字も残存する。

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改訂新版 世界大百科事典 「ヒッタイト」の意味・わかりやすい解説

ヒッタイト
Hittite

エジプト,バビロニア,ミタンニと並ぶ,前2千年紀におけるオリエントの強国の一つ,またそれを築いた民族の称。鉄と軽戦車を駆使しながらその版図を拡大していったといわれ,前1750年ころから前1190年ころまで,アナトリアを中心に勢力を振るった。現在のヒッタイトという名称は,旧約聖書の記述ヘテḤittîに基づくものである。ボアズキョイ出土の粘土板文書,バビロニア,アッシリアの史料では,ハッティḪatti,エジプトの史料ではケタḪ-t'と記されている。

19世紀後半,北シリア,アナトリアの各地で未知の象形文字碑文が発見され,その文字が旧約聖書のヘテ人(びと)との関連で論議されるようになった。その一方,1887年,エジプトで〈アマルナ文書〉が発見され,ヒッタイト王スッピルリウマがエジプト王にあてた書簡やその他の外交文書から,前14世紀ヒッタイトが北シリア,アナトリア一帯を領有する一大勢力であったことが明らかになった。そして1906年,ドイツのアッシリア学者H.ウィンクラーは,トルコの首都アンカラの東約150kmにあるボアズキョイに隣接する都市遺跡の発掘に着手,06-07年,11-12年の発掘で,1万枚を超す粘土板を発見した。出土した粘土板の多くはヒッタイト語であったが,その解読は16-17年にかけ,チェコのB.フロズニーによって行われた。フロズニーの解読でヒッタイト語がインド・ヨーロッパ語の一派であることが判明,西欧の学界に強い衝撃を与えた。

 解読以後,ゾンマーF.Sommer,フォラーE.Forrer,フリードリヒJ.Friedrich,ゲッツェA.Goetzeらによって,ボアズキョイ出土の粘土板文書(〈ボアズキョイ文書〉)の研究は進められ,独立した学問分野としてヒッタイト学Hittitologyが確立した。さらに52-54年,フリードリヒは《ヒッタイト語辞典》を著し,一応の集大成を行った。その後,75年,カンメンフーバーA.Kammenhuberは《ヒッタイト語辞典》の新版の刊行に着手,現在も続行中である。一方,考古学の分野では,1931年,ビッテルK.Bittelがボアズキョイの調査を再開,現在まで《ボアズキョイ=ハットゥサ》をはじめとする報告書を発表,貴重な史料を提供している。近年では,マシャト・ヒュユクの調査で,新たにヒッタイトの粘土板文書百数十枚が発見され,学界の注目を集めている。

ヒッタイト族をはじめとするインド・ヨーロッパ語系諸族の一派が小アジアへ移動した時期は,前2000年前後と推定されている。侵入経路については,カフカスの東方説,ボスポラス,ダーダネルスの両海峡を渡って来たとする西方説,黒海沿岸説の3説があり,現在のところ東方説が有力視されてはいるものの定説化はしていない。インド・ヨーロッパ語系諸族が移動して来た頃のアナトリアは,アッシリア商人が各地に居留区(カールム)を築き,原住民のプロト・ハッティなどと交易を行っていた。その拠点の中心がキュルテペ(古名カニシュ)の城外に置かれ,ここから出土した粘土板文書(〈カッパドキア文書〉)にインド・ヨーロッパ語的人名が認められる。これから推測して,前1800年ころにはインド・ヨーロッパ語系諸族はアナトリアに定着していたものと思われる。

 当時のアナトリアの中央部は,ザルパ,クッシャラ,プルシャンダ,ネサなど,都市に拠る小独立国家が分立し,覇権を争っていた。前1750年ころ,クッシャラの王侯ピトハナPitkhanaが,ネサを攻撃,統一国家の基礎を築いた。その息子のアニッタAnittaはネサに居を移し,ザルパ,ハットゥサを攻略,ほぼ中央アナトリアの統一に成功した。しかし,ピトハナ,アニッタをヒッタイト王国の創始者とすることはなお疑問視されている。

ヒッタイト古王国の歴史は,おもにテリピヌTelipinuの〈勅令〉の歴史記述に基づくものである。それによると古王国は,ラバルナ1世Labarna Ⅰをもって始まるとされているが,次王のハットゥシリ1世Hattusili Ⅰと同一人物であるとする説もある。この時期は,ほぼ前17世紀前半にあたり,領土は海岸地帯にまで拡張された。ハットゥシリ1世は,北シリアに遠征する一方,西方ではアルザワに出兵している。また同王は,ハットゥサに遷都,以後ムワタリ王の一時期を除き,都はこの地に置かれた。次王のムルシリ1世(在位,前1620ころ-前1590ころ)は,王国の基盤を固めるとともに北シリアに遠征,アレッポ(古名ハルパ)を攻撃した。さらにバビロンを占領し,バビロン第1王朝を崩壊させた(前1595ころ)。ムルシリ1世は,帰国後暗殺され,その後数十年間,ハットゥサでは暗殺と王位奪が相次ぎ,王国は混乱,弱体化した。この間のハンティリHantili,ジダンタZidanta,フジヤHuzziyaの諸王の事績は多くないが,ハンティリは,ハットゥサに初めて城壁を築いた。

 前1525年ころ王位に就いたテリピヌは,王位継承法を根幹とする〈勅令〉を制定して王国の混乱を収拾,秩序の回復に努めた。テリピヌ以後スッピルリウマ1世登位までの約120年間(前1500ころ-前1380ころ)の文書は著しく欠如しており不明な点が多い。一般的にはテリピヌの後,アルルワムナAlluwamna,ハンティリ2世,ジダンタ2世,フジヤ2世までを古王国とするが,この時代区分は必ずしも確定的なものではない。

この時代の初期の歴史も,資料が乏しく明瞭とはいえないが,トゥドハリヤ2世/ニカルマティ,アルヌワンダ2世/アシュムニカルの2組の王,王妃による年代記,条約文などが比較的残っており,当時の情勢の一端を知ることができる。また,ヒッタイト王国の周辺部では,北シリアでミタンニ王国が隆盛となり,アレッポ,キズワトナに侵攻,またアナトリアの北部ではカシュカ族が優位を誇り,一時はハットゥサも陥落するなど苦境に立たされた。このような窮地の状態から脱し,新王国の基盤を築いたのは,スッピルリウマ1世(在位,前1380ころ-前1340ころ)である。同王は,国内の混乱を収拾,失地を回復すると同時にシリアに遠征,ミタンニ王国の内紛に乗じてこれを保護国とした。スッピルリウマ1世の外交政策と外征で,新王国の版図は,北はポントス,南はレバノン,西はアナトリア西部に至る広大なものとなった。

 スッピルリウマ1世の後を継いだアルヌワンダ2世Arnuwanda Ⅱは,即位後まもなく疫病に倒れ,末子のムルシリ2世(在位,前1339ころ-前1306ころ)が王位に就いた。同王は,父,兄の相次ぐ死去で各地に起こった反乱の鎮圧に努めるとともに,古王国以来の宿敵であった西方のアルザワ国を2年間にわたって攻撃,これを屈服させた。一方,北方のカシュカに対しては,たび重なる遠征にもかかわらず,最終的な勝利を得るにはいたらなかったようである。シリアの領土には,父王にならいカルケミシュに副王を配しエジプト,アッシリアの圧迫に対して,その保護,監督にあたらせた。次王ムワタリMuwatalli(在位,前1306ころ-前1282ころ)は,北辺のカシュカの備えを王弟ハットゥシリに任せ,一時,都をダッタシャ(アナトリア南東部,正確な所在地は不明)に移した。前1286年ころ,ムワタリはシリアに積極的に進出を企てるようになったエジプトのラメセス2世とオロンテス河畔のカデシュで会戦,結果はヒッタイト側の勝利に終わり,シリアにおけるヒッタイトの権益は安泰となった。

 ムワタリの没後,嫡子ウルヒテスプUrhi Tesup(ムルシリ3世)を退けて王位に就いた王弟ハットゥシリ3世(在位,前1275ころ-前1250ころ)は,エジプトとの抗争に終止符を打ってラメセス2世と和平条約を取り交した(前1269ころ)。その後,ハットゥシリ3世は娘をラメセス2世に嫁がせるなど,両国間の友好は保たれた。またシリアでは,先王ムワタリによって廃位されたアムルのベンテシナBentesinaを復位させ,姻戚関係を結ぶなど,概して穏健な外交政策をとり,王国はそれまでの帝国主義的な領土拡張期から安定した繁栄期を迎えた。しかし,トゥドハリヤ4世Tudhaliya Ⅳ(在位,前1250ころ-前1220ころ)の時代に入ると,王国はしだいにその力を弱めていった。西方のアッヒヤワが強大となり,東方ではアッシリアが北シリアの権益を害し,カシュカが北辺を脅かすようになった。アルヌワンダ3世の短い治世を経て,スッピルリウマ2世(在位,前1215ころ-?)が即位すると,都ハットゥサで内紛が起こり,おりしもアナトリアの西側から侵攻してきた〈海の民〉によってハットゥサは破壊され,約550年間にわたってアナトリアに君臨したヒッタイト王国は瓦解した(前1190ころ)。

法典や各種の詔勅から推察されるヒッタイトの基本的な社会組織は,王を頂点とする一種の封建制に基づく身分制社会であったと思われる。ヒッタイト王の権限は,古王国と新王国の間にはかなりの差異が認められる。古王国においては,パンクシュと呼ばれる貴族の集会にかなり大きな権限が与えられていた。王は後継者を指名するにあたってパンクシュの承認を得なければならず,古王国の末期のテリピヌにいたって,ようやく王の世襲制が成文化されたが,パンクシュの権限は依然強力なものであった。これに対してスッピルリウマ1世以降,すなわち新王国の王は,宗主権,司法権,統帥権,司祭権をもつ古代オリエントの専制君主的な性格を強め,国家組織そのものも,中央集権的な官僚国家の体制となった。

 王に次いで王族を中心とする貴族階級があった。高位の貴族階級は王族と姻戚関係にあることが多く,小王あるいは諸侯として封地を授けられるか,中央政庁の高位官職に任ぜられた。高位の貴族の下には下級貴族の一群があり,官僚機構の中核をなしていた。貴族階級とともに特権的な立場にあったのが神官階級で,夫役や貢納の義務を免除されていた。とくに,ヒッタイト王国内にいくつかあった〈神の町〉では,神官長は政治権力も行使していた。貴族階級の下にあったいわゆる士族階級は,小封地を授けられ,有事に際してその軍事義務を果たした。

 その次に農民や職人階級があり,彼らにも小封地が与えられた。社会の最下層を形成していたのは,ナム・ラと呼ばれる戦争捕虜と奴隷であった。ナム・ラは,王国内の各地,おもに新開墾地や戦争,天災などで荒廃した土地に強制移住させられ労働力として利用された。奴隷は,国家あるいは個人の所有物であり,所有者の意思で売買が可能であった。しかし,奴隷の人格はまったく無視されていたのではなく,自由民との通婚も可能であったし,財産の所有も保証されていた。また奴隷の下に,羊飼い,アグリグと呼ばれる階層があり,これと通婚した自由民の女性は,一時的にその地位を失った。

ヒッタイトの宗教は,ハットゥサの北東2kmにある王国末期の葬祭殿ヤジリカヤをみてもわかるように,征服地の神々も広く信奉されたため,その支配領域が広がるにつれて,崇拝される神々の数も増えていった。ヒッタイト独自の神々の系列は,カニシュ・カッパドキア系で,女神クババ,馬神ピルワ,穀物神ハルキなどがこれに属する。ヒッタイト王国の初期の神々として,ルウィ系の月神アルマ,太陽神ティワッタ,軍神ヤリなどが挙げられる。インド・ヨーロッパ系の神であるシウシは元来太陽神であったと思われるが,しだいに一般的な用語として用いられるようになった。

 ハットゥサに都が置かれてからは,土着のハッティ系の神々が主流をなし,古王国,新王国を通じて,ヒッタイト神界の中核をなした。最も崇拝されたのは,アリンナの太陽女神とその配偶神である天候神であった。ハットゥサの大神殿はそれらをまつったものである。新王国に入ると,ハッティ系に加えて,フルリ系の神々の混入が顕著となった。とくにハットゥシリ3世以降は,その傾向が強くなり,ハッティ系とフルリ系の神々の融合が行われるようになった。新年祭にあたるプルリヤ祭,春祭のアン・タ・シュム祭,秋祭のヌンタリヤシュ祭などの大祭儀は,原則的に王が執り行った。日常の神事は,神官が中心となったし,神意をうかがうために,鳥占いなど卜占の類も盛んに行われた。

ヒッタイトの美術は,土製品,金属製品,小像,彫刻,オルトスタット(城門や室の腰板を形成する石の厚板),建築などと広範囲にわたる。一般にヒッタイト美術は,前代のアッシリア植民地時代の美術に強い影響を受けたといわれる。しかし,その影響は古王国時代に強く認められるものの,新王国においてはむしろ,フルリ人を中心としたメソポタミア,シリア,パレスティナの影響を強く受けている。出土品は新王国時代により集中しており,また嘴形水さし,半浮彫の獅子像などを除くと,造形美術の多くは概して稚拙であり,素朴な感じを与える。なお,新王国以後の新ヒッタイト時代のカルケミシュ,カラテペをはじめとする諸都市の造形美術は,新王国時代以上に,新アッシリア,アラムの影響が強く認められる。

 土器を中心とした土製品についてみれば,古王国から新王国にかけての特徴的土器形態は,鳥の嘴形を有する研磨された水さし土器(嘴形水さし土器spouted jug)であろう。この形態は,機能的には実用性に乏しく,単に形態美のみを追求したと考えられるものもある。古王国時代でのみ確認されている土器形態の中に,儀礼場面を描出した浮彫付の大型壺が,イナンドゥク,ビティクから出土している。リュトン(杯)は,古王国,新王国を通して牡牛,家鴨,猫など,身近な動物を模したものが多い。それらの中で,ボアズキョイのビュユクカレから出土した儀礼用の牡牛のリュトン(新王国時代)は,ヒッタイト時代では最大のものである。

 小像は,ヒッタイト時代の造形美術の特色の一つといえよう。青銅製,金製,水晶製のものがあり,概して10cm前後のものが一般的である。小像の多くは,新王国時代に集中的に出土しており,それらの多くは神を表している。また,半浮彫の彫刻は,小像同様,新王国時代にのみ認められるものである。今日まで確認されているおもな半浮彫の彫刻は,ボアズキョイの城門の門柱としてある獅子,王(軍神という説もある),あるいはアラジャ・ヒュユクのスフィンクス門などである。前者の獅子のたてがみ,王の後髪,胸部などは,驚くほど丹念に彫刻されている。当時の石工の技量がいかんなく発揮されており,ヒッタイト美術の最高傑作の一つといえよう。また,獅子のたてがみの表現形態は,新王国時代以後,新ヒッタイト,新アッシリアまで継承されている。岩壁彫刻も,新王国時代のみで確認されている。フラクティンの岩壁彫刻では,ハットゥシリ3世と王妃のプドゥヘパが天候神に参詣する儀礼場面が描かれており,また,新王国時代後半のヤジリカヤのパンテオンには,80を超す神々が大回廊と小回廊にそれぞれ刻まれている。とくに大回廊はフルリ人の男神と女神とが対向する形で描かれており,新王国時代においてメソポタミアの影響を強く受けたことを如実に表している。

 オルトスタットは,新王国時代のアラジャ・ヒュユクのみで確認されている。城門の両側にオルトスタットは位置しているが,天候神の代理者である牡牛を王と王妃が参詣している儀礼場面が描かれている。オルトスタットの人物像の表現形式は,岩壁彫刻,半浮彫,パンテオンの神々の表現形式同様,すべて側面からの表現をとっている。オルトスタットは,新王国時代以上に新ヒッタイト時代においてその隆盛をみるものの,新王国時代の影響以上に,新アッシリア,アラムの影響を強く受けている。

 建築は,ボアズキョイ,アラジャ・ヒュユク,マシャト・ヒュユクなどの遺跡で王宮,神殿が確認されている。とくに神殿は,ボアズキョイで六つ発見されており,そのいずれもが中庭,ヒッタイトの主神であった天候神,あるいは太陽神の神像を安置する内陣,そしてそれらを囲むような形での貯蔵庫を備えていた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒッタイト」の意味・わかりやすい解説

ヒッタイト
ひったいと
Hittites

小アジアを中心として、紀元前1750年ごろから前1190年ごろに活躍したインド・ヨーロッパ語族の民族、言語、国家の名称。ボアズキョイ(ボガズキョイ)出土の粘土板文書ではハッティ、『旧約聖書』ではヘテびと。英語のヒッタイトが一般化している。

[大村幸弘]

ヒッタイト学の成立

1906~07年、11~12年、ドイツのアッシリア学者H・ウィンクラーHugo Winkler(1863―1913)は、小アジア中央部のボアズキョイの発掘調査で1万枚を超すボアズキョイ文書とよばれる粘土板を発見した。その一部を現場で解読することにより、ボアズキョイがヒッタイト帝国の都、ハットゥシャであることを確認した。31年から、ドイツの考古学者K・ビッテルにより発掘調査は再開され、現在に至っている。ヒッタイト語の解読はチェコスロバキアのフロズニーBedřich Hrozný(1879―1952)によって行われた。彼は1916~17年「ヒッタイト人の言語、その構造と印欧語族への帰属」を発表、ヒッタイト語がインド・ヨーロッパ語族の一つであることを明らかにし、ヒッタイト学の基礎は確立された。

[大村幸弘]

歴史

ボアズキョイ文書には、ヒッタイト語のほか、アッカド語、シュメール語、ハッティ語、フルリ語、パラ語、ルウィ語が認められ、ヒッタイト帝国は数民族から構成された複合民族国家であった裏づけとなっている。これらの言語のなかで、ルウィ語、ヒッタイト語、パラ語は、前2000年ごろを境として、ルウィ人、ヒッタイト人、パラ人がコーカサスの西側、黒海沿岸を通過、小アジアへ民族移動した際に持ち込んだ言語である。通説では、ルウィ人が先に小アジアへ入り、その後ヒッタイト人が移動したといわれる。ヒッタイト人が統一国家を建てる前、小アジアの山中の銅を求めてアッシュールからきたアッシリア商人が、キュルテペ(古代名カネシュ)の城外に居留地を置き、カールムという彼ら独自の組織をもち、先住民と交易を行っている。このカールムからはカッパドキア文書とよばれる粘土板文書が大量に出土した。それによると、フルリ、ヒッタイト、ルウィ語人名が含まれており、すでにインド・ヨーロッパ語族が定住化していたことがうかがわれる。また同文書には、ピトハナ、その子アニッタの名が登場しているが、これらはボアズキョイ文書のなかに出てくるクッシャラの王ピトハナ、その子アニッタと一致している。

 前1750年ごろアッシリア商人の活動は急速に弱まる。その背景の一つには、ヒッタイトが統一国家としての形態を整え始めたことがあげられる。ヒッタイト帝国は古王国と新王国に分けられる。古王国はラバルナ1世が前17世紀初頭に王位についてから、前16世紀後半のフズィヤ1世の時代まで、新王国は前15世紀中葉に即位したトゥドハリヤ2世から、前12世紀前半のシュッピルリウマ2世の時代までであるが、王名表、古王国と新王国との時代区分には依然問題が残されている。古王国の場合、ボアズキョイ文書の史料は新王国に比較して少ない。ラバルナ2世はクッシャラのアニッタによって呪(のろ)いをかけられ、放棄されていたハットゥシャに都を置き、自らの王名もラバルナからハットゥシリ1世とした。彼は「君主学の書」とよばれる遺言を残しており、不できの息子のかわりに孫のムルシリ1世に王位を与えている。ムルシリ1世はシリアのアレッポを急襲、その後、前1590年ごろにバビロン第一王朝の都バビロンに遠征、それを崩壊させるなどの外征を行った。ムルシリ1世はハットゥシャへ戻ったのちに暗殺され、ハットゥシャは内紛が続いた。ムルシリ1世以後、ハンティリ1世、ズィダンタ1世、アンムナ1世、フッズィヤ1世とめまぐるしく王は変わった。テリピヌ(在位前1525ころ~前1500ころ)は王位継承を基本とする「勅令」を成文化し、それまでの権力闘争に終止符を打った。テリピヌ以後、王位継承法は堅持され、アルルワムナ、ハンティリ2世、ズィダンタ2世、フズィヤ2世と古王国の後半は平穏に過ぎた。

 前15世紀中葉、トゥドハリヤ2世が即位、新王国時代を迎える。この時代は古王国と比較して史料が豊富である。新王国は、シュッピルリウマ1世(在位前1375ころ~前1335ころ)の時代に代表されるような、領土拡大に重点が置かれた。まずシュッピルリウマ1世はミタンニの内紛に乗じてミタンニ王の息子マッティザワを支援するとともに従属化に成功。エジプトのミタンニに対する影響は弱体化した。シュッピルリウマ1世没後、領土拡大政策をムルシリ2世(在位前1350ころ~前1315ころ)は続け、ルウィ人のアルザマを侵略、属国化を行った。その子のムワタリ(在位前1315ころ~前1284ころ)は前1285年ごろシリアのカデシュで、エジプト第19王朝のラムセス2世と、東地中海世界、シリアの覇権をめぐって雌雄を決する戦いを行っている。しかし双方譲らず、のちハットゥシリ3世(在位前1275ころ~前1250ころ)はラムセス2世と前1270年ごろ和平条約を締結、新王国は安定期を迎えた。しかし、これを境としてヒッタイトはしだいにその勢力を弱めていく。前1190年ごろシュッピルリウマ2世の治世に、小アジアの西側から侵攻してきた「海の民」によってハットゥシャは崩壊し、ヒッタイトにより約550年間続いた小アジアの支配は終焉(しゅうえん)を迎えた。

[大村幸弘]

『大村幸弘著『鉄を生みだした帝国――ヒッタイト発掘』(NHKブックス)』『ツェラーム著、辻瑆訳『狭い谷、黒い山』(1958・みすず書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヒッタイト」の意味・わかりやすい解説

ヒッタイト
Hittites

前 1800~前 1200年頃に小アジアに王国を築いたインド=ヨーロッパ語系民族。 (→インド=ヨーロッパ語族 ) 1887年に発見されたアマルナ文書の中のアルザク書簡,1906年以来ボガズキョイで発掘された多数の粘土板文書によって後期青銅器時代 (前2千年紀) に小アジア一帯にかけて一大勢力を有していたことが明らかになった。前 17世紀の初代ラバルナシュ1世から前 15世紀中頃のフッツィヤ2世までを古王国といい,ラバルナシュの子ハットゥシリシュ1世 (ラバルナシュ2世) は都をハットゥシャシュ (ボガズキョイ) へ移した。その後孫のムルシリシュ1世がバビロンを攻撃し,バビロン第1王朝を滅亡させた。ムルシリシュ1世暗殺後,王族と貴族からなる士族団パンクの間で後継者をめぐりしばらく権力闘争が続いた。王権を安定させたのはテリピヌシュで,王位継承の順序を定め,法典を編纂した。やがて前 15世紀中頃トドハリヤシュ2世が新たな王朝,新王国を興し,シュッピルリウマシュ2世まで2世紀半続いた。前 1375年頃王位についたヒッタイト中興の祖ともいうべきシュッピルリウマシュ1世は,国内体制を強化し,次いで良港や商業路の集中したシリアに進出目標を定め,その勢力を北シリア全域に広げた。そのためシリアの支配権をめぐってエジプトとの抗争が激化し,前 13世紀末頃オロンテス川河畔のカデシュで決戦が行なわれ,ムワタリシュはシリアでのヒッタイトの権益を守り抜いた。その後アッシリアの勢力が強まったため,エジプトとの友好を促進させたが,西方の海洋国家の勃興により,属領を侵略され,前 1190年頃「海の民」の侵入により突如として首都を攻撃され,ヒッタイトは滅亡した。王権はパンクの存在にみられるごとく制限的王権から,新王国における専制的王権へと展開した。宗教・軍事・司法上の権威を一身に集めた専制君主のもとで貴族,戦士,自由身分の農民や職人はそれぞれの身分に応じて封地を与えられ,その下に奴隷の階級があった。ハッティ人の始めた製鉄法を独占していたことが,ヒッタイトの軍事的強さの一因でもあった。

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百科事典マイペディア 「ヒッタイト」の意味・わかりやすい解説

ヒッタイト

前2千年紀,アナトリアを中心に勢力をもったオリエントの強国の一つ,また民族の称。ヘテ,ケタ,ハッティとも。その言語(ヒッタイト語)は印欧語族の一つ。前1800年ころから小アジアに進出して勢力を張り,馬・戦車・鉄製武器の使用により,ボアズキョイを首都にオリエント最強の国家を建てた。多くの民族を支配する特異な国制をもっていた。バビロン第1王朝を滅ぼし,ミタンニを破り,シリアに進出してエジプトと争い,前14世紀に最盛期を迎えた。前12世紀末に〈海の民〉の侵入を受けて滅亡。
→関連項目アナトリアカッパドキアカルケミシュヒッタイト語ミタンニ王国ラメセス[2世]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ヒッタイト」の解説

ヒッタイト
Hittites

史上最初に出現したインド・ヨーロッパ語族の一派。前17世紀前半にアナトリアに古王国を建て,ムルシリ1世はバビロン第1王朝を滅ぼした。トゥトゥハリア1世あるいは同2世に始まる新王国は,シュピルリウマ1世(在位前1380頃~前1340頃)の時代に最盛期に達し,シリアを制圧しミタンニを服属国とした。ムワタリはエジプトのラメセス2世と北シリアで戦ったが(カデシュの戦い),ハットゥシリ3世は平和条約を結んだ。しかしこの頃から東方ではアッシリアの勢いが増す一方で,「海の民」と呼ばれる集団がアナトリア西部を荒らし,彼らの侵入を受けてヒッタイトは,ついに前1200年頃滅亡した。首府はハットゥシャ(現ボアズキョイ)。2頭立ての馬車と鉄器の使用をもって知られ,滅亡後,オリエントの他地域も鉄器時代に入った。また北シリアにはカルケミシュを中心に,新ヒッタイトと呼ばれる都市国家群が前700年頃まで栄えた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ヒッタイト」の解説

ヒッタイト
Hittites

前18〜前12世紀に小アジアに大国家を建設したインド−ヨーロッパ語族の一派。ハッティ(Hatti)ともいう
ハットゥシャシュ(現ボガズキョイ)に都し,前17世紀ごろから栄えた。シリア・バビロニアに侵入して古バビロニア王国を崩壊させ,前14世紀に北シリアを含む帝国となり,全盛時代を迎えた。鉄器と馬・戦車を所有し,軍事的にすぐれていたヒッタイトは,前14世紀にはミタンニ王国を征服し,前13世紀前半にはエジプトのラメス2世とシリアをめぐってカデシュで戦い,条約を結んだことが記録にみえる。前12世紀に「海の民」の侵入を受けて急速に滅んだ。ヒッタイト法・楔形 (くさびがた) 文字・象形 (しようけい) 文字をもち,20世紀初めに楔形文字ヒッタイト語は解読されたが,象形文字はまだ不明の点が多い。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のヒッタイトの言及

【銀】より

…メソポタミアでは金より貴重とされ,バビロニアのハンムラピ王(前18世紀ころ)の時代には蓄蔵と支払に使用されていた。アナトリアにおこったヒッタイトは銀を含んだ鉛鉱石からおそらく灰吹精錬法に似た製法で銀を生産していたと思われ,フェニキア人はアナトリアから大量の銀をエジプトへ運んでいた。旧約聖書には,アブラハムがカナンへ来たとき,銀が支払に使用されていたことが記されている。…

【鉄】より

…前3千年紀,アラジャ・ヒュユクのハッティ人の王墓(前2500ころ‐前2400ころ)から出土した鉄剣は,人造鉄による大型の器具として最古のものである。前2千年紀にアナトリアに入ってきたヒッタイト人は,〈鉄〉を意味するハッティ語ハパルキhapalkiとともに土着の優れた製鉄技術を受け継いだ。新王国時代のハットゥシリ3世(在位,前1275ころ‐前1250ころ)は,アッシリア王と思われる外国の君主に,依頼された良質の鉄の提供を在庫品がないことを理由に断り,その代りに一振りの鉄剣を送付するという手紙を書いている。…

※「ヒッタイト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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