ヌビア(読み)ぬびあ(英語表記)Nubia

翻訳|Nubia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヌビア」の意味・わかりやすい解説

ヌビア
Nubia

アフリカ大陸北東部の古地名。東は紅海,西はリビア砂漠にはさまれたナイル川沿岸の地域のうち,北はアスワン南の第1急流 (エジプト) ,南はハルツーム (現スーダン) の間をさす。ワディ・ハルファより北を下ヌビア,以南を上ヌビアと呼ぶ。大部分は現スーダン領。古代エジプトではクシュと呼ばれ,古代ギリシア人はエチオピアと呼んでいた。新石器時代 (前 5000頃) から人類が居住した。しかしエジプトが王朝時代になり繁栄すると取残され,人的・物的資源の供給地として,また南方との交易路として重要な役割を果した。特にこの地で産する黄金,象牙,香料,黒檀,石材などは重要な物品であった。したがって古代エジプトの歴代の王たちはヌビア経営を重要な政策として考えたが,特に中王国時代の第 11王朝よりヌビアの征服が開始され,新王国時代は全ヌビアが王権のもとに制圧された。エジプトの支配時代に多くの神殿や城塞が建てられ,アブシンベル神殿などの古代エジプト遺跡が残る。前 800年頃からクシュ王国が栄え,エジプト第 25王朝 (前 730頃成立) は,ヌビアの王が建てた。前 590年に首都ナパタはエジプト軍に侵略され,上流のメロエに遷都して,鉄器文明の時代に入った。またエジプト,ローマ,ギリシアなどの影響を受けつつも黒人の造形感覚を生かした独自の美術工芸品を残した。メロエ文学も成立。4世紀にメロエのアクスム王国に滅ぼされ,成立したノバタエ王朝は 540年頃キリスト教国となった。 652年にヌビア一帯はエジプトのイスラム勢力の支配下に入ったが,ドンゴラを中心とした小キリスト王国は,14世紀にエジプトのマムルーク朝に征服されるまで存続。これら各時代の建造物はヌビア遺跡として残る。現在,住民はエジプト人と黒色人種の混血で,ヌビア語が広く用いられる。アスワン・ハイダムの完成で,現在下ヌビアはナイルの人造湖の湖底に沈んでしまった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヌビア」の意味・わかりやすい解説

ヌビア(民族)
ぬびあ
Nubian

アフリカ、スーダンのナイル川流域のヌビア地方に住む東スーダン語を話す人々の総称。人口は60~100万(推定)。ヌビア地方とは、ナイル川のワディ・ハルファの第二急流からハルトゥーム付近の青ナイルと白ナイルの合流点までの一帯をさす。ヌビアの南のコルドファン語を話すヌバとは異なるが、ヌバ丘陵に住むヌビア人の一部はヌバとみなされることがある。ヌバとヌビアは語源が同一であり、古代エジプト語で「金(きん)」を意味する「ヌブ」にさかのぼると思われる。金はアスワンの南の地方で産出され、そのためこの地方は古代エジプト人によってヌビアとよばれ、住民はヌビア人として知られていた。古代からヌビア人は肌の色によって北部の「赤いノバ」と南部の「黒いノバ」に区別されていた。「黒いノバ」は今日のヌバの祖先と考えられ、彼らの社会組織、慣習、信仰などはアフリカ的要素が強い。「赤いノバ」が今日のヌビア人の祖先と考えられる。強いコーカソイド(白色人種)の身体的特徴を示しており、起源的にはネグロイド(黒色人種)であるが、古代エジプト人やアラブ人、またトルコなどのアジア人との長い混血の歴史の結果と考えられる。ヌビアには古代からエジプトの影響を受けた国家、続いてキリスト教国家、イスラム国家などが勃興(ぼっこう)した。現在、彼らはバラブラ、ビルケド、ディリングなどいくつかの集団に分かれている。

 おもに農耕を行うが、牧畜を重視する集団もある。おもな作物は雑穀のミレットやソルガム、スイカ、ヒョウタン、オクラ、ゴマなど。出自はどの集団でも父系をたどる。居住様式はだいたい夫方居住であるが、結婚後の婚姻奉仕(ブライド・サービス)の時期に、妻方居住をとる集団もある。割礼は男女とも広く行われている。すべての集団で最近まで奴隷制が残されていた。

[加藤 泰]


ヌビア(アフリカの地名)
ぬびあ
Nubia

アフリカ北東部、エジプトのアスワンからスーダンのハルトゥームに至るナイル川流域の地をさす。六か所の急流(カタラクト)を数え、アスワンに第一急流が、ハルトゥームの近くに第六急流がある。ヌビアはとくに古代エジプトとの関係で歴史的な役割をもっていた。

 古代エジプトの王はヌビア支配を基本政策とした。政治的威信のためだけではなく、軍事要員としてのヌビア人、建築材としての貴重な石材、および金がそこで入手できたからである。古王国時代(前2700ころ~前2263ころ)のエジプトとヌビアとの関係は平和的であったが、中王国時代(前2160ころ~前1750ころ)のエジプトは第二急流までを武力で制圧した。新王国時代(前1580~前1080ころ)には支配地は第四急流にまで及んだ。この時代のヌビアにおけるエジプトの城砦(じょうさい)、神殿の建設は活発であった。第19王朝時のアブ・シンベル神殿はそのなかのもっとも豪華なものであった。新王国時代が終わったあと、第四急流付近のナパタに都を置くヌビアの王はエジプト征服に乗り出し、第25王朝を建てた。約90年でこの王朝は倒れ、ヌビアの王は都をはるか南のメロエ(第五急流と第六急流の中間)に移し、ヌビア文化を開花させた。メロエ文字(未解読)とメロエのピラミッドがこうして生まれた。王国は4世紀に滅び、キリスト教が普及した。今日、第二急流までがエジプト領、それより南がスーダン領である。アスワン・ハイ・ダムで水没する地域の古代建造物は世界的規模の醵金(きょきん)で救済された。

[酒井傳六]

世界遺産の登録

1979年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部]


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