ラーオ(読み)らーお(その他表記)Vijayēndra Kastūri Ranga Varadarāja Rāo

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラーオ」の意味・わかりやすい解説

ラーオ
らーお
Vijayēndra Kastūri Ranga Varadarāja Rāo
(1908―1991)

インドの経済学者。インドの国民所得推計に関する先駆的業績で有名。1908年にタミル・ナド州カンチプラムでマダバブラーマン(カルナータカ州南カナラ地方のブラーマン)の貧しい州政府下級官僚の子として生まれた。ボンベイ(現、ムンバイ)大学に学び、経済学の修士号(M.A.)を取得、国民会議派の学生運動にかかわった。1929~1932年ボンベイのウィルソン・カレッジ教鞭(きょうべん)をとり、1932年イギリスに留学、ケンブリッジ大学のゴンビル・アンド・キーズ・カレッジで経済学を学んだ。指導教官は部外者ながら依嘱を受けたM・H・ドッブであった。当時キングズ・カレッジの教授であったJ・M・ケインズの薫陶も受けた。他方、インド人協会やケンブリッジ大学の労働党クラブに加入し活発に活動した。1934年帰国し、ダールワールのカルナータカ・カレッジやアンドラ大学の教職を経て、アーメダバードのL・D・アーツ・カレッジで経済学教授、校長となった(1938~1942)。1942年デリー大学に移ったが、1944年休職してインド政府食糧省の統計局長、計画審議官(1944~1946)となった。1946年デリー大学に復帰し、かたわら国連経済開発小委員会委員長(1947~1950)を務めた。またデリー大学の経済学院Delhi School of Economicsや経済成長研究所の設立を主導し、それぞれの初代院長(1948~1957)、初代所長(1960~1963)、およびデリー大学学長(1957~1960)を歴任。当時の首相J・ネルーの要請を受けてインド政府経済計画委員会委員(1963~1966)となったが、政策決定により深くかかわるため国会議員になることを決意。カルナータカ州ベラーリ県から国民会議派候補として出馬、2期にわたり国会議員を務めた(1967~1977)。インディラ・ガンディー政権の運輸相(1967~1969)、教育相(1969~1971)に就任。カルナータカ州政府からバンガロール(現、ベンガルール)の社会・経済変動研究所の設立を任され、1972年その初代所長となり1977年に退官。1991年7月バンガロールの自宅で死去。1950年代~1960年代には重化学工業優先の計画経済を支持したが、1970年代末から農業と農村開発重視を唱えた。

[古賀正則]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラーオ」の解説

ラーオ
Narasimha Rao

1921~2004

インドの政治家。インディラ・ガンディーおよびラジーブ・ガンディー首相に重用され外相,国防相,内相などを歴任。1991年の選挙国民会議派は第1党となったが,ラジーブ・ガンディー元首相が暗殺されたため急遽首相に就任(在任1991~96)。91年に経済自由化にむけて大きく方向転換したことが特筆されるが,政権末期にはスキャンダルにまみれた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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