ルーミー(読み)るーみー(英語表記)Jālāl al-Dīn Muammad Rūmī

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルーミー」の意味・わかりやすい解説

ルーミー
るーみー
Jālāl al-Dīn Muammad Rūmī
(1207―1273)

ペルシア詩人、神秘主義者。生涯の大半を小アジア(ルーム)で過ごしたのでルーミーと号した。ホラサーン地方のバルフで学者の家に生まれる。1219年ごろ家族とともに流浪の旅に出立し、10年後トルコのコニヤコンヤ)に達し、死ぬまで同地にとどまった。父から諸学を修め、父の死後その弟子から神秘主義を学ぶ。1244年、放浪の老托鉢(たくはつ)僧シャムス・ウッディーンShams al-Din Mohammad(1185―1248)との運命的な出会いがあり、老師との交流によって詩的霊感を授けられ、作詩を始めた。1244年から1261年までを彼の叙情詩時代とよぶ。この時期、彼の前から消え去った老師をしのび、熱情的な神秘主義叙情詩を作詩したが、約3万6000句に達するこれらの詩は、『シャムセ・タブリーズ詩集』と命名された。

 彼が神秘主義の最高詩人と評されるのは、不朽の名作『精神的マスナビー』という神秘主義叙事詩による。「ペルシア語のコーラン」ともよばれるこの大作は、1261年から没するまでに作詩され、全6巻約2万6000句からなる。神秘主義の本質、教理、教訓が比喩(ひゆ)、寓話(ぐうわ)、逸話、物語などの形式で詩に詠まれている。醒(さ)めた意識と神秘主義的陶酔を交えるこの作品は、体系的神秘主義思想の記述とはいえないが、「神秘主義の聖典百科全書」とも評価される。二大作品のほか『ルーミー四行詩集』も現存する。神秘主義教団「メフレビー教団」(踊るデルウィーシュ)の開祖としても名高い彼は、散文作品としては『ルーミー語録』『書簡集』『七つの説教』を執筆した。息子スルタン・ワラドも偉大な神秘主義者、詩人で、一門の壮麗な廟(びょう)はコニヤにあり、現在まで聖地となっている。

[黒柳恒男 2016年10月19日]

『井筒俊彦訳『ルーミー語録』(1978・岩波書店)』『黒柳恒男著『ペルシアの詩人たち』(1980・東京新聞出版局)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルーミー」の意味・わかりやすい解説

ルーミー
Rūmī, Jalālu'd-Dīn Muḥammad

[生]1207.9.30. バルフ
[没]1273.12.17. コンヤ
ペルシアの詩人。ペルシア四大詩人の一人で,神秘主義詩の最高詩人。本名は Maulānā,ルーミーは雅号で,定住地小アジア (ルーム) に由来する。著名な神学者の子に生れ,1219年頃モンゴルの来襲を恐れて家族とともにバルフを去って西アジア各地を遍歴したのち,コンヤに定住。一流の学者として多数の弟子を指導したが,44年放浪の老托鉢僧シャムス・ウッディーンに会って人生が一変した。これ以降作詩を始めるとともに,神秘主義教団を創設し最高の神秘主義指導者と仰がれるにいたった。代表作品は神秘主義最高の詩集『精神的マスナビー』 Mathnavī-ye ma`navī (6巻,約3万句) 。ほかに神秘主義抒情詩集『シャムセ・タブリーズ詩集』 Dīwān-e Shams-e Tabīz,『四行詩集』,散文作品『宗教講話集』 Fī-hi mā fī-hi,『書簡集』などがある。

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