アメリカの文化史家。スミス・カレッジ,コロンビアなど多くの大学の教授を歴任し,教育者としても高名である。プリンストン高等研究所所員でもあった。ラブジョイの〈観念史クラブHistory of Ideas Club〉が提唱した脱領域的文化研究に早くから参加し,同クラブの有名な紀要の編集を行い,《観念史事典》全5巻(1968-74)の主要寄稿者となった。また象徴図像学やイメージ研究の牙城ワールブルク研究所(ウォーバーグ研究所)の活動にもたずさわった。17~19世紀にかけての英文学と同時代思想,ことに科学との連係を,おもに光学と美学を基軸として綿密に追跡し,とくに望遠鏡が文学的想像力に与えた影響に関する論文《ミルトンと望遠鏡》(1935)で一躍注目を集めた。主著には,ニュートン光学と18世紀詩とのつながりを説いた《ニュートンが詩神を召喚する》(1946),西洋の月世界旅行文学をテーマとした《月世界旅行》(1948),円環イメージの意味的変容を手がかりに17世紀新天文学が詩に与えた影響を追った《円環の破砕》(1950),上記論文やスウィフト《ガリバー旅行記》の科学史的背景を論じた著作を含む論集《科学と想像力》(1956),山のイメージの変容を手がかりに,18世紀の空間感覚の拡大が詩に及ぼした影響を描いた《暗い山と栄光の山》(1959)などがある。彼女の研究目標は,〈宇宙旅行〉とか〈崇高美〉といった〈枢軸観念〉の成熟と時代の要請を関連づけることにあり,たとえば幻想的宇宙旅行譚が大流行した17世紀中葉が,三十年戦争やピューリタン革命に象徴される過酷な時代であった事実から,これらの宇宙旅行譚を現実忌避のユートピア文学の一変奏とする視点などにその本領がうかがえる。
執筆者:高山 宏
イギリスの代表的抽象画家。バッキンガムシャーのデナムDenham生れ。父ウィリアムWilliam N.(1872-1949)も著名な画家。1911年ロンドンのスレード美術学校中退後,トゥール,ミラノ,パサデナで学び,パリでピカソ,ブラックのキュビスム作品に決定的影響をうける。またモンドリアンの造形思想にも共鳴し,33年円と方形だけのレリーフを制作,同年パリの〈抽象・創造(アプストラクシヨン・クレアシヨン)〉グループ展に参加。37年ロンドンでロシア出身のガボ,ペブスナーらと構成主義誌《サークル》を創刊。つねに自然対象から出発して幾何学的単純化に達するが,淡色の甘美な抒情ときびしい抑制にイギリス的な特色が保たれている。
執筆者:針生 一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの画家。画家ウィリアム・ニコルソンの息子としてバッキンガムシャーのデナムに生まれる。一時スレード美術学校に通ったものの長続きせず、絵はほとんど独学で修得した。その後、ヨーロッパやアメリカで絵を学ぶうちに、セザンヌやキュビスムに感化されて抽象的傾向の強い静物画や風景画を描いた。1931年彫刻家のバーバラ・ヘップワースと出会い(のちに結婚し1951年離婚)、翌年ともにパリのブラックやアルプを訪れ、ミロやコルダーの明るい色彩や自由な形態から強い影響を受けた。また、33年のモンドリアンとの出会いは彼を冷たい幾何学的な構成へと向かわせ、同年初めて円と方形だけのレリーフ作品を制作した。33~35年にはパリの「抽象=創造(アプストラクシオン・クレアシオン)」の展覧会に出品している。しかし、生来の落ち着いた色調と抑制の効いた構成に対する趣味は、作品に豊かな叙情性を生み、彼をモンドリアンのような極端に走らせることを妨げた。37年にはナウム・ガボらとともに構成主義のマニフェストというべき『サークル』誌を発刊した。ロンドンに没。
[谷田博行]
イギリスの化学者、発明家。東インド会社に勤めたのち、ロンドンで数学学校の経営や特許代理業などを職業とした。反フロギストン説にたつフランスのフルクロアAntoine François de Fourcroy(1755―1809)らの新しい化学書を精力的に翻訳し、また「ニコルソンズ・ジャーナル」として知られる科学雑誌Journal of Natural Philosophy, Chemistry and the Artsを発行した(1797~1813)。1800年5月、ボルタ電堆(でんたい)の発明が伝えられるとただちにカーライルAnthony Carlisle(1768―1840)とともに初めて水の電気分解を行い、水素と酸素を捕集した。ニコルソンの浮き秤(ばかり)(1787)、ローラー印刷機(1790)などを発明した。
[内田正夫]
アメリカの天文学者。木星の衛星4個の発見者。イリノイ州生まれ、父は地質学教師。1908年ドレーク大学のモーアハウスDaniel W. Morehouse(1876―1941)のもとで天文学を学んでいるとき彗星(すいせい)を発見。1914年リック天文台で木星の第9衛星を写真観測により発見し、その軌道計算を果たしてカリフォルニア大学から学位を取得。翌年ウィルソン山天文台に移り、1957年まで観測に従事。1938年に第10・第11衛星、1951年に第12衛星を発見した。このほか100インチ鏡に熱電対(でんつい)を取り付け、月、惑星、変光星などの表面温度を精密に測定した。1930年には冥王(めいおう)星の軌道、質量を決定。1963年、太平洋天文学会より金賞を受けた。
[島村福太郎]
映画俳優。ニュー・ジャージー州生まれ。17歳のときカリフォルニアに移る。映画会社MGMで雑務に従事、俳優ジェフ・コーリーのもとで演技を勉強する。1968年に映画初出演。その後、ロジャー・コーマン監督のもとで約10年間、B級映画の俳優としてだけでなく、製作や脚本の仕事にも携わる。1969年『イージー・ライダー』の酔いどれ弁護士役でアカデミー助演男優賞の候補にあげられ、一躍注目を浴びる。以後、『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970)、『愛の狩人』(1971)、『チャイナタウン』(1974)、『シャイニング』(1980)などで反体制的な役柄を演じ、『カッコーの巣の上で』(1976)でアカデミー主演男優賞を受賞した。1983年『愛と追憶の日々』でアカデミー助演男優賞受賞、さらに1997年の『恋愛小説家』で二度目のアカデミー主演男優賞を受賞、カリスマ性の強い個性と演技に円熟味が加わってきた。
[品田雄吉]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…33年,批評家H.リードを世話役として結成された〈ユニット・ワンUnit One〉も特定の流派というより自由な創造を促し,作品発表の場を提供しようというもので(メンバーの中には彫刻家もいた),概して当時の大陸の状況を反映して構成主義的あるいはシュルレアリスム的傾向が強い。なかでもベン・ニコルソンはモンドリアンとキュビスムの影響下に独自の抽象様式を創造した。パスモアVictor Pasmore(1908‐ )とスコットWilliam Scott(1913‐89)は第2次大戦後,それまでの具象を捨てて抽象に向かい,ニコルソン,ボンバーグDavid Bomberg(1890‐1957)と共に戦後のイギリスの抽象絵画を代表した。…
※「ニコルソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
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