百科事典マイペディア 「レーニ」の意味・わかりやすい解説
レーニ
→関連項目グエルチーノ|ドメニキーノ
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イタリア、ボローニャ派の画家。最初フランドル出身のデニス・カルバールト(ディオニジオ・フィアミンゴ)の画塾で学んだが、1595年ごろR・カラッチの画塾に移り、カルバールトの後期マニエリスム的影響を脱した。1601年フランチェスコ・アルバーノとともにローマを訪れ、カラッチの古典主義に加えて、カラバッジョの劇的な光と影の表現を学んだ。しかし、07年ローマ再訪後はカラバッジョの影響も脱して、いっそう古典主義的性格を強めていく。ローマでは枢機卿(すうききょう)シピオーネ・ボルゲーゼによって多くの芸術的機会が与えられた。同枢機卿のカジーノ(別邸)の天井を飾る『アウローラ』(1613~14、現パラビチーニ・ロスピリオージ邸)はこの時期の傑作の一つ。この作品の完成後まもなくボローニャに帰り、以後、22年のナポリ、25年のローマ訪問など、短期間の中断を除けば、ほとんどボローニャにあって、同地の画派に君臨した。
[西山重徳]
…古い大学都市ボローニャは,13世紀の写本彩飾画にさかのぼる優れた美術的伝統を有するが,普通〈ボローニャ派〉という場合には,ボローニャで学び新様式を確立してイタリア美術に主導的役割を果たした16世紀末から17世紀前半にかけての一群の画家をさすことが多い。 彼らはいずれもボローニャでカラッチ一族のアカデミア(1582設立)に学び,そのおもだった者,すなわちレーニ,アルバーニ,ランフランコ,ドメニキーノらはアンニバレ・カラッチに倣って1600年ころローマに出,教会堂,宮殿の大規模なフレスコ装飾,宗教的・神話的主題の油彩画を手がけ,アンニバレのあとを受けてローマ画壇の主流をなした。ただし,30余年にわたりローマで活動したドメニキーノとランフランコを別とすれば,ボローニャ派のローマ滞在は短期かつ断続的である。…
※「レーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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