イタリアの画家、版画家。8月16日ボローニャの大聖堂で受洗、1602年2月23日パルマで没した。ロドビコの従兄弟(いとこ)で、アンニーバレの兄。初めデニス・カルバルトDenys Calvaert(1540ころ―1619)などのマニエリズモの画家に学び、『聖フランチェスコの聖体拝領』(1581年ころ。ロンドン・ナショナル・ギャラリー)などを制作する一方、版画家としてベネチア派画家の作品を数多く複製した。ロドビコの創設したアカデミアに参画、また弟アンニーバレと共同してボローニャのファバ宮やマニャニ宮の壁画を制作。コレッジョやパルミジアニーノあるいはベネチア派の強い影響下からしだいに独自の古典主義的作風を確立し、有名な『聖ヒエロニムスの聖体拝領』(1594年ころ。ボローニャ絵画館)を残す。1597~1599年にアンニーバレに協力してローマのファルネーゼ宮の壁画装飾に従事した。1600年からはパルマ公ラヌッチョ1世Ranuccio Ⅰ Farnese(1569―1622)の委嘱でジァルディーノ宮に神話画を描いたが、死のため未完に終わった。
[篠塚二三男]
イタリアの画家、版画家。11月3日ボローニャの大聖堂で受洗、1609年7月15日ローマで没した。ロドビコの従兄弟(いとこ)、アゴスティーノの弟であるが、カラッチ一族のなかではもっとも傑出しており、イタリア・バロック絵画の開拓者の一人となった。年代の確かな最初の作品『磔刑(たっけい)』(1583年。ボローニャ)や『キリストの洗礼』(1585年。同)などの作品にすでに、彼の特質である生き生きとした色彩と自然主義的傾向が認められる。アカデミア・ディ・インカンミナーティの創設に参画する一方、アゴスティーノに協力してボローニャのファバ宮やマニャニ宮の壁画装飾に従事した。また、ダイナミックな構図と暖かな色調の祭壇画も数多く制作。1595年、枢機卿(すうきけい)ファルネーゼOdoardo Farnese(1573―1626)の招きに応じてローマに赴き、ファルネーゼ宮のカメリーノに『ヘラクレスの物語』などの天井画を制作した(1595~1597)。続いて委嘱されたガレリアの装飾は、アゴスティーノやドメニキーノなどの協力で完成されたが、17、18世紀にはミケランジェロとラファエッロの壁画に次いで優れたものとして賞賛された。病気となった1605年以後は、ほとんど制作をしなかった。
[篠塚二三男]
イタリアの画家。4月21日ボローニャの大聖堂で受洗、1619年11月13日同地で没した。アゴスティーノやアンニーバレの従兄弟(いとこ)。プロスペロ・フォンタナProspero Fontana(1512ころ―1597)に学んだ。カラッチ一族の最年長者であり、美術学校アカデミア・ディ・インカンミナーティを創設(1582)するなど工房の運営や新様式の確立に指導的役割を果たした。初期の作品『聖パウロの回心』(1587)や『バルジェリーニの聖母』(1588年。ともにボローニャ絵画館)には、ティントレットやコレッジョの影響であるドラマチックな力強さと、光の効果の追求がみられる。『洗礼者ヨハネの説教』(1592年。ボローニャ)では、より柔和で洗練された賦彩がされている。1602年5月31日から6月13日までローマに滞在した。後期の作品として、ボローニャのサン・ミケーレ・イン・ボスコ修道院回廊のフレスコ装飾(1604~1605)、ピアチェンツァ大聖堂の祭壇画(1609)、『磔刑(たっけい)』(1614年。フェッラーラ)などがあげられるが、その画風は一様でない。人体研究、遠近法、明暗法などを組織的に教授した。
[篠塚二三男]
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