ロバーツ(Richard J. Roberts)
ろばーつ
Richard J. Roberts
(1943― )
イギリスの分子生物学者。ダービー市に生まれる。1965年にシェフィールド大学を卒業、同大学院で有機化学を専攻し1968年に博士号を取得した。分子生物学をハーバード大学で研究。1972年コールド・スプリング・ハーバー研究所主任研究員。1992年よりニューイングランド・バイオラボ研究所に移り、DNAのメチル化などの翻訳後修飾について研究。
1970年代にアデノウイルスを使って、癌遺伝子(がんいでんし)の発現について研究。メッセンジャーRNA(mRNA)の端に存在する共通のキャップ構造が、その鋳型となるDNA遺伝子側には連続する形で存在しないことを発見。情報として意味をもつDNAの配列が分断されていると考え、1977年に電子顕微鏡を用いて超微形態学的に明らかにして発表した。その後、高等生物においても遺伝子が分断された形で存在することが明らかになり、複雑な遺伝子の構造や遺伝子の発現機構が明らかになる端緒となった。これらの功績により、1993年のノーベル医学生理学賞を受賞した(1977年に分断遺伝子を独自に発表したP・シャープとの共同受賞)。
[馬場錬成]
ロバーツ(Richard Roberts)
ろばーつ
Richard Roberts
(1789―1864)
イギリスの発明家。自動ミュール紡績機の発明、工作機械の改良で知られる。ウェールズのモントゴメリーシャーに生まれる。採石工、鋳型工などを転々としたのち、1814年からロンドンの有名なモーズリーの機械工場の旋盤工となり、1816年に独立してマンチェスターに機械工場を設立。1817年に自家用の工作機械として平削り盤、主軸の多段変速機構(バックギヤ)を備えた旋盤を開発(いずれもロンドンの科学博物館に所蔵)。主として繊維機械を製造し、改良力織機(りきしょっき)(1822年特許)と自動ミュール紡績機(1825、1830年特許)は好評を博した。とくに後者は、複雑な手工業的熟練を要し、クロンプトンの発明以後、ミュールに加えられた多くの改良でも実現できなかった巻き取り工程の自動化に成功したもので、これ以後20世紀初頭までイギリス綿工業の主力機種の地位を確保した。
1854年ごろ事業の第一線から退いたが、その後もコンサルタント業を営み、機械、時計、船舶用機器などの分野で多くの発明を行い、取得した特許は28件に及ぶ。1861年にロンドンに移転したが、晩年は経済的に恵まれなかった。
[水野五郎]
ロバーツ(Elizabeth Madox Roberts)
ろばーつ
Elizabeth Madox Roberts
(1881―1941)
アメリカの女流小説家、詩人。ケンタッキー州の旧家に生まれる。シカゴ大学卒業後に詩集を公刊し賞も得たが、本領は小説にある。故郷の田舎(いなか)を舞台として、土地に密着した開拓者の生活を詩的に、歴史的に『人の一生』(1926)、『偉大な草原』(1930)などの作品に描いた。開拓生活を背景に、慌ただしく過ぎ去る時間の意識といったものを主題としている。
[岩瀬悉有]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ロバーツ
Roberts, Julia
[生]1967.10.28. ジョージア,スミルナ
アメリカ合衆国の女優。フルネーム Julia Fiona Roberts。演技学校を経営する両親のもとに生まれる。兄で俳優のエリック・ロバーツの推薦を受け,『ブラッド・レッド/復讐の銃弾』Blood Red(1989)の端役で映画デビューした。『ミスティック・ピザ』Mystic Pizza(1988)で初主演。『マグノリアの花たち』Steel Magnolias(1989)で高評価を受け,1990年に主演した『プリティ・ウーマン』Pretty Womanで一躍トップスターとなる。1990年代を通じて,『愛がこわれるとき』Sleeping with the Enemy(1991),『ペリカン文書』The Pelican Brief(1993),『ベスト・フレンズ・ウェディング』My Best Friend's Wedding(1997),『ノッティングヒルの恋人』Notting Hill(1999)などに主演し,着実にキャリアを積んだ。2000年に制作会社シューレース・プロダクションを設立,同年主演したスティーブン・ソダーバーグ監督の『エリン・ブロコビッチ』Erin Brockovich(2000)でアカデミー賞主演女優賞を受賞した。国連児童基金 UNICEFやアメリカ赤十字など多くの慈善団体への支援活動も行なっている。
ロバーツ
Roberts, Richard J.
[生]1943.9.6. イギリス,ダービー
イギリスの分子生物学者。 1968年シェフィールド大学で有機化学の博士号を取得。ハーバード大学で研究生活をおくったあと,72年ニューヨークのコールドスプリングハーバー研究所の上級研究員となり,86年研究副部長。 92年マサチューセッツ州ニューイングランド生物学研究所の真核生物研究部長に就任。 1977年アデノウイルスの遺伝子が分断されていることを実証,蛋白質になるよう符号化されたデオキシリボ核酸 DNA領域 (エクソン) が,符号化されていない長い DNA領域 (イントロン=介在配列) に分断されていることを発見した。同じ時期,P.A.シャープも別の研究チームを率いて同じ発見をしている。従来のバクテリア DNAに基づいた研究では,遺伝子は蛋白質合成の指令を受けた DNAの長い連鎖分子状のものと信じられていたが,彼らの発見以降,人間をはじめとする高等生物では分断された遺伝子 (スプリット・ジーン) のほうが一般的であるとの認識が確立された。さらに遺伝子断片の統合過程 (スプライシング) によって進化が早まることも判明,癌や遺伝病などの解明に寄与した。 93年シャープとともにノーベル生理学・医学賞を受賞。
ロバーツ
Roberts, Sir Charles George Douglas
[生]1860.1.10. ニューブランズウィック,ダグラス
[没]1943.11.26. トロント
イギリス系カナダの詩人。 B.カーマンの従兄。『オライアンその他』 Orion and Other Poems (1880) で詩壇に登場し,『日々の歌』 Songs of the Common Days (93) などによって,1880~90年代のカナダ詩興隆の一翼をにない,数多くの動物物語も書いた。 97~1925年国外で暮したが,帰国後はカナダの国民詩人として迎えられ,敬愛を集めた。
ロバーツ
Roberts, Michael
[生]1902. ハンプシャー,ボーンマス
[没]1948.12.13.
イギリスの批評家,詩人。アンソロジー『新署名』 New Signatures (1932) ,『新国土』 New Country (33) ,"The Faber Book of Modern Verse" (36) の編集によって 1930年代の詩壇の先導者となった。自作の詩集3巻のほか,『T. E.ヒューム論』 T. E. Hulme (38) ,『人間論』 The Estate of Man (51) などがある。
ロバーツ
Roberts, Tom
[生]1856.3.9. ドーチェスター
[没]1931.9.14. ビクトリア
イギリス生れのオーストラリアの画家。本名 Thomas William Roberts。 1869年オーストラリアに渡り,メルボルンで写真家の助手として働きながら絵を修得。 81年から数年間ヨーロッパに旅行,印象派 (→印象主義 ) の絵に強く影響された。帰国後は印象派風の風景画を描き,オーストラリアの風景画の父といわれる。
ロバーツ
Roberts, Kenneth (Lewis)
[生]1885.12.8. メーン,ケネバンク
[没]1957.7.21. メーン,ケネバンク
アメリカのジャーナリスト,作家。コーネル大学卒業後ジャーナリズムに関係,のち創作を始め,正確な史実に基づきながらしかもアクションの多い歴史小説を書いた。植民地時代に辺境で活躍したロバート・ロジャーズ少佐を描いた『北西航路』 Northwest Passage (1937) などのほか,エッセー集,自伝などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ロバーツ
Richard Roberts
生没年:1789-1857
イギリスの機械技術者。鉄工場の製図工であったが,マンチェスターで機械製造の事業をおこし,数多くの発明を行う。1822年の力織機の改良で特許を取る。この発明で力織機は手織機に決定的に差をつけることになる。またとくに,25年に特許を取得した自動ミュール紡績機械で有名。ミュールはクロンプトンの発明時にはほとんど木製であったが,紡錘の数が増加し動力に水力や蒸気力が使用されるようになるにつれ,鉄製の部分が多くなった。19世紀に入るとミュールは,ローラーや紡錘の回転などは自動化されてきたが,ミュールのもつ段階的作動の自動化は困難であった。ロバーツは,歯車やベルトのかけ替えによる方向の転換のくふうを考案し,ミュールの全自動化を達成した。このことを可能としたのはロバーツの自家製の工作機械であり,多段変速ギヤをもった旋盤や平削盤は彼の発明である。これらの機械により,ロバーツは蒸気機関の製造にも大きく寄与した。
執筆者:奥山 修平
ロバーツ
Tom Roberts
生没年:1856-1931
オーストラリアの画家。イギリス生れ。1869年両親とオーストラリアに移住した。この国の印象派の草分けL.ビュベロに師事し,81年渡英してローヤル・アカデミーに学び,オーストラリアの画家J.ラッセルと渡仏して印象派の影響を受けた。85年帰国し,メルボルン近くのハイデルバーグにF.マッカビン,A.ストリートン,C.コンダーらと美術村を作り,印象主義の手法を土着化,オーストラリア奥地(ブッシュbush)の風物を描いた。美術村は90年まで続き,このグループはハイデルバーグ派と呼ばれた。ロバーツはアトリエを出て戸外で風物を描く手法の紹介に努め,89年には〈9×5展〉と銘打って,葉巻タバコの箱のふた(9インチ×5インチ)に描いた印象主義絵画展を開いた。1901年オーストラリア連邦が発足したときには,依頼を受けて最初の議会のようすを描いた。代表作は奥地での生活を描いた《雄羊の毛刈り》《襲撃》など。
執筆者:越智 道雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のロバーツの言及
【ジュノー】より
…人口2万7000(1990)。1880年ジョー・ジュノーとリチャード・ハリスによって背後にそびえるロバーツ山斜面で金が発見されて以来,金製錬,交易地として集落が形成された。アラスカ・ジュノー金鉱は1944年に閉鎖されたが,不凍港をもち,漁業,水産加工,製材などの産業が発達してきた。…
【オーストラリア】より
…ラファエル前派,印象主義などの流入期の画家にはビュベロLouis Buvelot(1814‐88)がいる。オーストラリア自生のエートスを強調する文化ナショナリズムが台頭した1890年代の第1次文化興隆期には,ロバーツTom Roberts(1856‐1931)を筆頭に,マッカビンFrederick McCubbin(1855‐1917),ストリートンArthur Streeton(1867‐1943),デービズDavid Davies(1862‐1939),コンダーCharles Conder(1868‐1909)らの〈ハイデルバーグ派〉が印象主義手法をオーストラリア風に練り直し,以後画壇の主流となった。他方,西欧の水彩画法を学んだ先住民アボリジニーの画家[ナマジラ]は,4万年に及ぶアボリジニーの土着の感覚をオーストラリア白人に紹介,アボリジニー画家の先駆となった。…
【オーストラリア】より
…ラファエル前派,印象主義などの流入期の画家にはビュベロLouis Buvelot(1814‐88)がいる。オーストラリア自生のエートスを強調する文化ナショナリズムが台頭した1890年代の第1次文化興隆期には,ロバーツTom Roberts(1856‐1931)を筆頭に,マッカビンFrederick McCubbin(1855‐1917),ストリートンArthur Streeton(1867‐1943),デービズDavid Davies(1862‐1939),コンダーCharles Conder(1868‐1909)らの〈ハイデルバーグ派〉が印象主義手法をオーストラリア風に練り直し,以後画壇の主流となった。他方,西欧の水彩画法を学んだ先住民アボリジニーの画家[ナマジラ]は,4万年に及ぶアボリジニーの土着の感覚をオーストラリア白人に紹介,アボリジニー画家の先駆となった。…
※「ロバーツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」