分子生物学(読み)ぶんしせいぶつがく(英語表記)molecular biology

精選版 日本国語大辞典 「分子生物学」の意味・読み・例文・類語

ぶんし‐せいぶつがく【分子生物学】

〘名〙 生命現象を分子のレベルで解明しようとする学問。〔胃袋(1963)〕

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デジタル大辞泉 「分子生物学」の意味・読み・例文・類語

ぶんし‐せいぶつがく【分子生物学】

生命現象を、分子遺伝学などを基に、分子レベルで解明しようとする現代生物学の一分野。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「分子生物学」の意味・わかりやすい解説

分子生物学
ぶんしせいぶつがく
molecular biology

種々の生命現象の実体を分子レベルで把握し解明しようという立場をいい、現代生物学の中心分野となっている。分子遺伝学、生化学、生物物理学などの立場からの生命現象研究が20世紀なかばに合流し、分子生物学が確立された。1950年にアストバリーは、「分子生物学は生物を構成する分子の形態がどのように進化し、利用され、分化するのかを、おもに三次元的、構造的、かつ機能的に把握しようとする立場である」と定義している。その後、分子生物学には情報的な要素も含まれるようになった。すなわち、分子生物学の成立は、生命現象に対する次の三つの思考方向の融合によっている。

(1)構造的研究 生体分子の構造を三次元的に理解し、どのような構造がその分子の特定の機能を決定するのかを研究する。とくに結晶分子のX線回折による構造決定や分子模型の組立てなど、物理学的・構造化学的手法による研究が中心であった。

(2)生化学的研究 生体分子が、細胞代謝や遺伝現象においてどのように作用しあっているかを研究する立場で、とくに細胞代謝の遺伝生化学的研究が分子生物学の成立に寄与した。

(3)情報に関する研究 細胞の世代から世代へと遺伝情報が移され、遺伝形質が発現する仕組みを分子的に明らかにしようとする研究で、とくに情報がどのようにして分子に担われているかという問題を考えてきた。

[嶋田 拓]

成立の歴史的背景

次に分子生物学の成立に至る歴史的背景を述べる。

[嶋田 拓]

タンパク質分子の研究

生命の基礎物質としてまず注目されたのはタンパク質であった。1920年ごろまでにタンパク質の構造が一段と明らかになり、それが多数のアミノ酸からなることは、複雑な遺伝情報の担い手としてタンパク質がふさわしいものであると考えられるに至った。タンパク質の高次構造の研究は、X線結晶学の技術によって大きな収穫をあげた。このX線回折による結晶構造解析の技術は、1912年ごろイギリスのブラッグ父子により提案され、イギリスで発達した。結晶では一般に構成分子(原子やイオンのこともある)がきちんと一定の空間間隔で軸を平行にして配置され、一定の大きさの格子をつくっている。X線束を結晶に照射すると、X線束は結晶格子の分子や原子によって方向が曲げられる。これをX線回折という。結晶を挟んでX線源と反対側に写真乾板を置いておくと、X線回折の角度などを知ることができる。この回折像を解析することにより、そのタンパク質分子の三次元構造を知ることができる。この技術を用いてケンドルーとペルツは1960年代初めまでにヘモグロビンミオグロビンの分子構造を明らかにし、その結果、これらタンパク質分子の機能を三次元構造に基づいて説明できるようになった。ウィルキンズとR・フランクリンはX線回折を用いて核酸の構造解析を行っていた。この核酸は、すでに1869年ミーシャーFriedrich Miescher(1844―1895)により発見され、1930年代までに、2種のプリン塩基(アデニン、グアニン)と3種のピリミジン塩基(シトシン、チミン、ウラシル)からなる重合体であることがわかった。しかしなお、その生物学的意味や構造は長くわからず、遺伝現象とのつながりも一般に無視されていた。

[嶋田 拓]

遺伝生化学

ギャロッドArchibald Garrod(1857―1936)は遺伝子による形質発現制御の仕組みについて最初に示唆し(1909)、アルカプトン尿症はメンデル性潜性遺伝子によるものであって、フェニルアラニンの代謝に働くホモゲンチン酸酸化酵素に遺伝的障害がおこってホモゲンチン酸が酸化されずにそのまま尿中に排出される現象であることを示し、遺伝子が代謝経路の特定酵素に影響して働くと考えた。1928年、グリフィスFrederick Griffith(1879―1941)は、生きた非病原性の肺炎双球菌と熱で殺した病原性肺炎双球菌を同時に同じマウスに注射すると、生きた病原性菌が生ずることをみいだし、遺伝形質転換物質の存在を示唆した。エーブリーらはこの物質の単離を試み、1944年、それがタンパク質でなくDNA(デオキシリボ核酸)であることを示した。しかし、遺伝物質がDNAであるという考え方は当時受け入れられなかった。

 話をグリフィスの発見まで戻すと、その後1930年代になり、ビードルはエフルシBoris Ephrussi(1901―1979)とともにショウジョウバエを、テータムとともにアカパンカビを用いて、遺伝子はそれぞれ一つの特定の酵素の合成を調節していることを示し、のちに1個の遺伝子が1種の決まった酵素の合成に働くという「一遺伝子一酵素説」を提唱した。しかし、一つの酵素が複数のポリペプチドで形成されている場合も非常に多く、また酵素以外のタンパク質をコードする(遺伝暗号を指定すること)遺伝子のことも考慮して、「一遺伝子‐一ポリペプチド」という概念がより普及し遺伝子の理解に貢献した。

[嶋田 拓]

遺伝物質の決定

長い間、タンパク質分子が遺伝情報を担う遺伝子であろうという立場から研究が進められてきた。1938年、デルブリュックが遺伝研究材料としてバクテリオファージを取り上げたことにより局面は大きく変わった。バクテリオファージは細菌ウイルスで、核酸とそれを囲むタンパク質のみからできている。細菌に感染すると宿主細菌内で急速に増殖し、20~30分で世代交代し、小さな培地中で何百万個ものファージを培養できる。ファージの遺伝子も突然変異をおこし、同種ファージでの異株間で遺伝的組換えがおこる。

 ハーシェイとチェイスは1952年、ファージDNAを放射性リンで、タンパク質を放射性硫黄(いおう)で標識したのち、細菌に感染させると、ファージDNAのみが宿主細菌内に入って多数のファージ粒子が複製され、ファージタンパク質は菌体外に残ることを示した。こうして遺伝子の本体がDNAであることが明らかになった。

[嶋田 拓]

ワトソン‐クリックのDNAモデル

DNAの分子構造は、主としてウィルキンズやフランクリンによるDNAのX線結晶解析の結果に基づき、さらにシャルガフのデータ、すなわち各種の組織や細胞から得たDNA標品中にアデニンとチミン、グアニンとシトシンがそれぞれ1対1の割合で存在するという結果を考慮に入れ、ワトソンとクリックにより決定され、1953年に発表された。このDNA分子モデルは、遺伝子のもつべき自己複製能と遺伝情報の保持とその発現の仕組みを分子レベルで説明できるものであり、ワトソン‐クリックモデルとよばれるDNA分子構造モデルの発表を境に、遺伝学の流れは、古典的なメンデル遺伝学の染色体理論から分子遺伝学へと移り、分子遺伝学の成果は生物学のほかの多くの分野へも適用され、1960年代に分子生物学が成立する基となった。

 ワトソン‐クリックのモデルによると、2本のDNA鎖が極性を逆にして対合し螺旋(らせん)構造を形成している。各DNA鎖は糖・リン酸骨格をもち、この骨格が螺旋の外側に沿って走っている。螺旋の内側には両鎖から塩基が突き出しており、塩基間の水素結合により螺旋構造が支えられている。2本のDNA鎖の塩基配列は互いに相補的で、片方がアデニンであれば他鎖の対合する塩基はチミン、片方がグアニンであれば他方はシトシンである。DNA分子の複製に際しては、それぞれの鎖を鋳型として相補的な塩基配列をもつDNA鎖が合成される。したがって複製が完了すると、まったく同じDNA螺旋が2本存在することになり、核分裂時に2個の娘(じょう)核にそれぞれ母核と同じDNA分子が配分されることになる。さらに、DNA螺旋の一方の鎖に並んだヌクレオチド塩基の配列が遺伝情報をもっており、特定の塩基配列が特定のタンパク質分子のアミノ酸配列に対応すると考えられた。

[嶋田 拓]

分子生物学のセントラルドグマ

1960年代初めには、DNAの遺伝情報の読み取りと翻訳にRNA(リボ核酸)が関与することがわかり、やがてDNA→RNA→タンパク質という遺伝情報の流れが確立された。DNAを鋳型として新しいDNA鎖が合成されることをDNAの複製とよび、DNAの遺伝情報(塩基配列)がRNAの塩基配列に移し変えられる過程を転写、RNAの塩基配列を読み取ってそれに対応するアミノ酸配列をもつタンパク質が合成される過程を翻訳とよぶ。すなわち、

のような複製、転写、翻訳の三つの過程は、1958年にクリックが主張したように、分子生物学の「セントラルドグマ(中心教義)」として知られている。DNAの遺伝情報をタンパク質合成系に伝えるRNA(DNAの転写産物)は伝令RNAメッセンジャーRNA)とよばれ、1961年モノーとF・ジャコブにより概念化され、のちに証明された。この論文で、大腸菌における遺伝情報発現の仕組みとして有名な「オペロン説」(酵素合成がオペロンとよばれる遺伝子群を単位として調節遺伝子により調節されるという説)が提唱され、セントラルドグマが確立されたのである。続いて、細胞が存在しなくても細胞抽出液と伝令RNAを用いて試験管内で完全なタンパク質が合成された。1963年にはオチョアとニーレンバーグにより遺伝暗号表が完成した。塩基の三つ組、つまり3個ずつの塩基の特定配列が20種のアミノ酸のそれぞれの暗号となっている。こうして、大まかではあるが、遺伝子の複製さらに遺伝情報の伝達の仕組みを分子レベルで述べることができるようになったのである。

[嶋田 拓]

進化論への影響

分子生物学は遺伝子突然変異の分子レベルでの説明を通じて進化論にも影響を与えた。イングラムVernon Martin Ingram(1924―2006)は鎌(かま)状赤血球と正常赤血球のヘモグロビンのアミノ酸配列を調べ、ただ1個のアミノ酸が違っており、それはヘモグロビンをコードするDNA塩基配列中の1個の塩基が他の塩基と置換したことに基因することを明らかにした。正常ではヘモグロビンβ(ベータ)鎖の6番目に位置するグルタミン酸が、鎌状赤血球ヘモグロビンではバリンにかわっている。これは、グルタミン酸をコードするDNA塩基三つ組のうち、チミンがアデニンに変化したのである。たった1個の塩基の置換が、その後の世代の生存に大きく影響するのである。相同なタンパク質のアミノ酸配列を各種生物間で比較して何か所のアミノ酸が異なるかを決め、生物種の古生物学上の分岐の年代を考慮に入れると、生物進化においてタンパク質のアミノ酸がどんな速度で変化してきたかがわかる。これを分子進化とよぶが、分子進化の速度はタンパク質によって異なり、機能的に重要な分子や分子内部位は、重要でない分子や分子内部位に比べて分子進化の速度が遅い。分子進化は突然変異によっておこるが、非機能部位の突然変異は自然淘汰(とうた)(自然選択)にかからない状態、すなわち中立な状態で生物集団内に蓄積され、その蓄積は自然淘汰による変異の蓄積より多いというのが、木村資生(もとお)(1924―1994)により提唱された中立説(1968)である。この説は、自然淘汰を万能とする従来の進化遺伝学に大きな衝撃を与えた。

[嶋田 拓]

1980年代以降の分子生物学

ワトソン‐クリックモデルを基盤として発展した遺伝子の分子生物学の成果と手法は、発生学、免疫学、細胞生物学、分類学、そのほか生物学の多様な分野に適用されている。特定の塩基配列を識別してその部位でDNAを切断するDNA分解酵素(制限酵素)の発見によって、1980年代には特定タンパク質をコードするDNAを生物から単離する技術が開発された。外来DNAをプラスミド(原核細胞内で核や染色体と独立に存在する遺伝要因)に組み込んで細菌に取り込ませることにより特定の外来DNAをもつ細菌クローンを得ることができる。この遺伝子クローニング技術により遺伝子DNAの塩基配列の決定や微細構造の研究が可能となった。

 特定遺伝子DNAを組み込ませた細菌や細胞は、そのDNAのコードするタンパク質を盛んに合成するので、通常は微量にしか存在しないタンパク質を多量につくらせることもできる。このときDNA断片の塩基配列の一部を人為的に変異させてから組み込むと変異タンパク質をつくることもできる。DNA塩基配列の決定も自動化され短時間でできるようになった。遺伝子の塩基配列を変えることによってタンパク質を改変してより有効なものに変えることのみならず、まったく新しいタンパク質を設計する研究も行われている。遺伝子の組換え技術を中心に遺伝子クローニング技術は、遺伝病の原因遺伝子の同定と遺伝子治療、癌(がん)遺伝子と発癌機構の研究、老化機構の解明、遺伝子組換え生物(トランスジェニック生物)の作製、DNA鑑定すなわちDNA塩基配列の比較による近親関係の推定や犯罪捜査法の発展、などさまざまな分野に応用されてきている。

 特筆すべきことは、20世紀末に始まったゲノム解析プロジェクトの展開であり、2003年現在、ヒトゲノムのほか、ハツカネズミ、イネ、シロイヌナズナ、ショウジョウバエ、フグ、ゼブラフィッシュ、線虫、大腸菌、枯草(こそう)菌については全DNA塩基配列がほぼ決定されており、アフリカツメガエル、ユウレイボヤ、ウニではゲノム解析が進行中である。ヒトは従来十数万個の遺伝子をもつと推定されていたが、ゲノム解析によって2万数千個の遺伝子をもつにすぎないことが明らかになっている。ゲノム解析の結果は発生学、細胞生物学、分類学など多方面にわたる生物学の基礎研究の展開を大きく支えたのみならず、遺伝子治療や品種改良など、医学、薬学、農学などで幅広く利用され遺伝子工学という新しい産業分野が開拓された。ヒトに関しては、ゲノム解析の結果に基づいてタンパク質の構造と機能を解析するプロテオミクスとよばれる分野が成立した。新薬の創製、各種の薬剤と結合する受容体タンパク質のスクリーニングやGタンパク質結合タンパク質のスクリーニングにプロテオミクスが大きな役割を果たしており、多数の国際的ベンチャー企業が参画している。プロテオミクスの基盤形成と展開はタンパク質の質量分析法の開発と発展に負っていて、この方法を開発した日本の田中耕一は2002年のノーベル化学賞を受賞した。

 分子生物学の発達は系統分類学や社会生態学の研究法にも大きな変化をもたらした。ミトコンドリアは核ゲノムから独立したいくつかの遺伝子をコードしている。電子伝達系タンパク質の一部、ミトコンドリアrRNAおよびミトコンドリアtRNAなどはミトコンドリアのもつDNAにコードされており、母系の情報である。これらの遺伝子の塩基配列を種間で比較して変異位置とその頻度の測定、および幾種かの制限酵素を用いた遺伝子多型解析(RFLP解析。restriction fragment length polymorphism)から種の同定や系統を明らかにする作業が系統分類学の研究で普通に行われるようになっている。ミトコンドリアDNAの遺伝子多型解析によってある生物がどの群れに由来するかということもわかり、社会生態学の研究に有効な手段となっている。

 20世紀なかばに生まれた分子生物学の進歩はきわめて急速で、20世紀末には遺伝子を操作して新しい生物を創造することも技術的には可能になった。このような技術が自然界や人類に与える影響は計り知れない。実験用ネズミの胚(はい)性幹細胞(ES細胞)の遺伝子を操作して遺伝子組換え胚を経て遺伝子組換えネズミをつくることは普通に行われ、医学(疾病原因遺伝子の検索)や生命科学の発展に大きな寄与をしているが、ヒト胚の遺伝子操作は倫理的理由で日本では国の特別の認可がない限り法律によって禁止されている。また、遺伝子操作の畜産や農作物への安易な適用は、組換えに用いるDNAベクターが人間の健康にどのような影響をもつか十分な検討をしてからでないと危険であろう。また、遺伝子組換え生物の自然界への流出は生態系にきわめて重大な影響を及ぼすものであり、これらすべてを勘案して国際協力による生命倫理コードの確立が急務となっている。

[嶋田 拓]

『G・E・アレン著、長野敬・鈴木伝次・鈴木善次訳『20世紀の生命科学』Ⅰ、Ⅱ(1983・サイエンス社)』『Jochanan Stenesh著、中村運編訳『分子生物学辞典』(1992・化学同人)』『三浦謹一郎編『分子生物学からバイオテクノロジーへ』(1993・共立出版)』『小関治男・永田俊夫・松代愛三・由良隆著『分子生物学――生命科学のコンセプト』(1996・化学同人)』『Paul Singleton・Diana Sainsbury著、太田次郎監訳『微生物学・分子生物学辞典』(1997・朝倉書店)』『石田寅夫著『ノーベル賞からみた遺伝子の分子生物学入門』(1998・化学同人)』『柳田充弘・西田栄介・野田亮編『分子生物学』(1999・東京化学同人)』『菊池韶彦・村松喬・榊佳之編『わかりやすい分子生物学』(1999・丸善)』『小池克郎・関谷剛男・近藤寿人編『分子生物学プロトコール』改訂第2版(1999・南江堂)』『舘鄰著『応用動物科学への招待』(2001・朝倉書店)』『J・D・ワトソンほか著、松原謙一ほか訳『ワトソン遺伝子の分子生物学』上下(2001・東京電機大学出版局)』『八杉貞雄著『よくわかる基礎生命科学――生物学の歴史と生命の考え方』(2002・サイエンス社)』『多田富雄監修、萩原清文著『好きになる分子生物学――分子からみた生命のスケッチ』(2002・講談社)』『田村隆明・村松正実著『基礎分子生物学』第2版(2002・東京化学同人)』『鈴木範男・田中勲・矢沢洋一編著『分子生物学への招待』(2002・三共出版)』『田村隆明・山本雅編『分子生物学イラストレイテッド』改訂第2版(2003・羊土社)』『William Elliottほか著、清水孝雄・工藤一郎訳『生化学・分子生物学』第2版(2003・東京化学同人)』『田沼靖一編著『分子生物学』第2版(2003・丸善)』『村上康文編『ポストゲノムの分子生物学――ゲノム情報から遺伝子機能への新展開を探る』(2003・化学同人)』『美宅成樹著『分子生物学入門』(岩波新書)』『丸山工作著『新・分子生物学入門――ここまでわかった遺伝子のはたらき』(講談社・ブルーバックス)』

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改訂新版 世界大百科事典 「分子生物学」の意味・わかりやすい解説

分子生物学 (ぶんしせいぶつがく)
molecular biology

広義には,生命現象全般またはその一部を分子レベルで理解しようとする学問。狭義には,遺伝情報の発現機構の分子的基礎を明らかにしようとする研究分野。1950年代から急速な進展を遂げ,基礎生物学の一分野として重要であるのみならず,遺伝子工学に代表されるように,医療,薬品,食品,農業などの応用面にも深い影響を及ぼすようになった。実際の研究分野としては,生化学,分子遺伝学,生物物理学,細胞生物学,発生生物学などと強い関連をもち,これらの分野を厳密に区別するのはあまり意味がない。

 分子生物学は,生物現象を要素的,還元的にとらえる。要素は生体分子であり,DNARNAタンパク質分子が生物を構成する基本単位となる。中心概念は,生物を分子的な機械とみなすところにある。分子機械が生物となるためには,DNA→RNA→タンパク質という遺伝情報の流れ(分子生物学の中心ドグマcentral dogmaという)が存在せねばならない。どのように複雑な生物現象も,その現象を担う生体分子に還元すれば理解できるはずだという,ある意味では楽観的な思想が背景にある。現在の分子生物学は,遺伝子レベルの研究では,単に生物を理解するにとどまらず,生物を人工的に改変することも可能にする段階にまで成熟し,種の改変,人工生物の創造などは,なんら仮想のものではなくなった。また癌研究における主要な成果が,分子生物学的アプローチによって得られており,発癌の分子機構も近い将来に解明されることが期待されている。一方,分子生物学と深い断絶が存在した神経生物学,人類遺伝学,生態学,進化学などの分野においても,分子生物学的研究が盛んに行われ始めている。

科学史的には,O.T.エーブリーらが,遺伝物質の本体が核酸(DNA)であることを示した1944年にさかのぼって,分子生物学の始まりをみるのが通例である。しかし,彼らの研究結果は疑う余地のないものであったにもかかわらず,他研究者の興味と承認を得るにいたらなかった。M.デルブリュックを総帥とする,アメリカのファージ(細菌ウイルス)・グループの一員であるハーシーA.D.Hersheyが,ファージ感染・増殖の本体がDNAであることを1952年に示したころから,実質的な分子生物学的研究が盛んに行われるようになった。デルブリュック,ルリアS.E.Luriaに代表される細菌やファージの自己増殖を研究する分子遺伝学グループ,一遺伝子一酵素説を提唱したビードルG.W.Beadle,テータムE.L.Tatumによる代謝の制御を研究する遺伝生化学的研究の開始,そしてイギリスのケンブリッジにおける,ブラッグW.L.Bragg,ペルーツM.F.Perutz,ケンドルーJ.C.Kendrewなどの学派によるX線結晶解析によるタンパク質分子の構造解析が,当時の分子生物学のすべてといってよい。これら,遺伝的,生化学的,物理学的な3学派の方法が統合される形で,1953年にJ.ワトソンとF.クリックによって,DNAの相補的二重鎖構造が解明された。DNA分子の立体構造中に,遺伝子の複製と読取りについての本質的属性が存在することに深い衝撃をうけた分子生物学者は,一方で,彼らの研究方法にますます自信をもった。DNAにつづいて,タンパク質の立体構造も明らかとなった。タンパク質が固有のアミノ酸配列をもち,特異な機能を発現する前提として,タンパク質が遺伝情報をもとにいかにして合成されるかという基本問題が次なる研究課題となった。1961年にフランス・パリ学派のF.ジャコブとJ.モノーがオペロン説を提唱し,酵素の誘導合成の遺伝的調節の様式が示され,分子生物学は一つの頂点に立った。ついで,メッセンジャーRNA,転移RNA,リボソームなどタンパク合成に関与する主要因子が明らかになる過程で,クリックなどによって遺伝暗号が解かれ,遺伝情報発現のセントラル・ドグマが確立した。

 分子生物学の研究対象は,細菌(原核生物)から,複雑な高等生物(真核生物)に拡大する一方で,遺伝子に関する詳細な研究が進められ,1970年代に入って遺伝子を操作する諸技術が確立した。制限酵素の発見,プラスミドを用いた遺伝子の単離と大量調製が可能になり,サンガーF.SangerやギルバートW.Gilbertなどによって,DNA,RNAの塩基配列が迅速に決定されるようになった。1973年,コーエンS.N.Cohen,ボイヤーH.W.Boyerらは,人工的なDNA組換え体を作成し,DNAの情報を他生物で発現させることに成功し,DNAがすべての生物に普遍的な情報源であることを実際に示し,この後,組換え遺伝子を用いた研究は爆発的に進展し,そのスピードは現在に至っても,ますます加速されている。

今後の分子生物学の発展にとっては,理論面の充実が課題となろう。とくに,特定アミノ酸配列のタンパク質の立体構造とその機能の予測法の確立は,きわめて重要である。現在ではDNA塩基配列から,遺伝子暗号によってアミノ酸配列を決定できても,そのタンパク質の機能の推測はごく初歩的な経験則によっている。さらにRNA転写の一般的法則も明らかにする必要がある。この問題にも関連するが,DNA塩基配列の立体特異性の重要性も最近認識されつつあり,その理論的な予測も近い将来可能になると考えられている。研究対象としては,細胞の基本的機能,分化細胞の特異的機能およびその構造的基礎が重要であり,今後盛んになるであろう多細胞生物の分子生物学的研究を進めるうえで,不可欠の知識を提供することになろう。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「分子生物学」の意味・わかりやすい解説

分子生物学【ぶんしせいぶつがく】

生命現象を生体を構成する分子のレベルで解明しようとする生物学の一部門。生化学生物物理学,分子遺伝学,発生生物学,細胞生物学と多くの点でオーバーラップし,厳密な区別は困難。中心的には遺伝情報の発現機構の分子的基礎を扱う。
→関連項目機械論生物学物理学

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「分子生物学」の意味・わかりやすい解説

分子生物学
ぶんしせいぶつがく
molecular biology

分子のレベル,すなわち細胞以下のレベルで生命現象を解明し,また情報的高分子 (蛋白質と核酸) の分子的特性から,基本的生命現象を説明しようとする学問。生化学の発展に伴い,生命現象を分子レベルで研究することが可能となり,1953年の J.ワトソンと F.クリックによるデオキシリボ核酸 DNAの二重螺旋構造モデル発表を契機とし,1950年代後半からこの名が使われるようになった。分子遺伝学と分子生理学の2つの分野がある。分子遺伝学は,遺伝情報の伝達,蛋白質の合成機構と調節の解明に始り,遺伝子組換えによるウイルス病,癌あるいは品種改良などの問題解明の基礎となっている。分子生理学は,酵素作用,代謝,運動,興奮伝達などの機構を解明しようとする分野である。

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栄養・生化学辞典 「分子生物学」の解説

分子生物学

 生命の示す現象を分子のレベルで解析しようとする生物学の領域.

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世界大百科事典(旧版)内の分子生物学の言及

【生物学】より

…一つにはメンデルの再発見と,もう一つには生理学や発生学から微生物学まで各方面にわたる実験生物学の高まりが,世紀の変り目を迎えての生物学の基調を定めた。
[分子生物学の隆盛]
 20世紀初頭の生物学はそれまでの延長線の上にあった。つまり生物学の大部分の分科はすでに確立し,あるいは確立されつつあり,それをさらに展開することが,さしあたりの発展の方向であった。…

※「分子生物学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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