日本大百科全書(ニッポニカ) 「綿織物工業」の意味・わかりやすい解説
綿織物工業
めんおりものこうぎょう
綿花を原料として紡いだ綿糸から織物をつくる製造業。綿織物は、安価なわりに耐久性、吸湿性、保温性に優れ、肌着・下着から高級衣料に至るまで幅広い用途をもっている。綿花は、2002年現在、世界の繊維生産の約3割(32.9%)を占める最重要の繊維であり、合成繊維の比重が高まった現在でも、綿製品の需要は堅調で、世界の生産量も徐々に増加する傾向をみせている。
[殿村晋一]
世界
欧米の綿織物工業
産業革命以前には、インド、中国、日本、トルコ、ブラジルなど綿花生産国が綿織物の主要な生産国であって、綿花を生産しない西ヨーロッパ諸国の綿織物生産はごくわずかなものであった。中世に、イスラム教徒によって地中海沿岸のヨーロッパ(スペイン、イタリア)にもたらされた綿織物は、「商業の復活」以後、少量ながら北イタリア諸都市で織られていたが、中世末(14世紀前半)になるとアルプスを越えて南ドイツの麻織物地帯でも織られるようになった(バルヘント織)。産業革命以前のヨーロッパの綿製品は、経糸(たていと)としての張力に耐える織糸を紡ぐことができなかったため、いずれも代替に麻糸が使用されていた。この南ドイツのバルヘント織も、オランダ、イギリスの両東インド会社のインド産キャラコ輸入が引き起こした18世紀西ヨーロッパの「ファッション革命」のさなかにイギリスの農村家内工業(ランカシャー地方)が織ったファスティアン織物も、経糸に麻糸、緯糸(よこいと)に綿糸を用いた交織織物であった。
イギリスの綿織物工業が強靭(きょうじん)な経糸の大量生産に成功し、インド産のキャラコに対抗できる技術的基盤を確立したのはアークライトの発明した水力紡績機(1769)によってであり、細くて強い経糸・緯糸を生産し、インドの高級品モスリンに対抗できる製品を製造できるようになったのはクロンプトンの発明したミュール紡績機(1779。単一機械で、小経営者でも設備可能)による。この二つの発明がインド綿業とイギリス綿業の運命を変えた。飛杼(とびひ)や力織機(蒸気機関の採用)の発明はこの逆転を加速化したにすぎない。機械制工業として産業革命を主導したイギリス綿工業は、19世紀に入ると、その安価な機械製綿製品を武器に世界市場に進出し、19世紀前半には生産高の50~60%、後半には70~80%が輸出に回された。インドの伝統的な綿工業は壊滅的打撃を受け、ランカシャーの最大市場に転化した。ランカシャーの綿織物の輸出は1882~84年には世界市場の82%を占めるに至った。大量の原料綿はすべて海外から輸入された。18世紀末までは黒人奴隷を使役する西インド諸島のプランテーションが、ついでアメリカ南部の黒人プランテーションが最大の供給地となったが、南北戦争(1861~65)による「綿花飢饉(ききん)」以後は、植民地インドや、イギリスに従属するエジプトからも供給された。アメリカ南部の黒人奴隷やインド、エジプトの隷農小作制とイギリスの低賃金労働が近代工業の発展を支えたのである。この意味で、イギリス綿工業は一国的な枠組みを超えた、まさに「世界資本主義」として成立、発展したのである。
[殿村晋一]
綿工業の普及
イギリスで開発された近代的な綿工業技術は、ヨーロッパ大陸には19世紀初頭のナポレオン戦争後、アメリカには米英戦争(1812)後に移植され、関税その他の保護政策に守られて急速に普及した。植民地インドでも19世紀後半には綿紡績工場が民族資本の手で設立され、19世紀末には日本でも綿工業の再編・近代化が始まった。20世紀に入ると、中国市場をめぐる列強綿業資本の角逐が激しく展開された。第一次世界大戦直前の1913年に年間輸出30億平方ヤードという最高値を記録したイギリスからの大戦中の供給中断は、多くの国々の自給率を高めさせ、綿織物の国際貿易は大幅に縮小した。とくに、中国・東南アジア市場からのイギリスの後退(かわって日本綿業の進出)に加えて、最大市場インドにおけるボイコット運動と保護関税の引き上げの打撃は大きく、第二次世界大戦直前には、イギリスはその生命線であるインド市場を完全に失い、ランカシャーは綿工場の廃墟(はいきょ)と化してしまった。
[殿村晋一]
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後、世界の綿織物の勢力図は大きく変化した。原綿産出国の台頭が際だつなかで、中国、インド、ソ連(当時)、アメリカ合衆国に次いで、綿花最大輸入国であった日本、次いでイタリア、西ドイツ(当時)、フランスが健闘してきた。開発途上国ではブラジル、エジプトが綿織物まで工場生産を拡充し、1980年代には綿花生産世界5位のパキスタンが綿糸生産世界7位まで、その工業化を伸ばした。このほか綿織物生産ではポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア(当時)など東欧勢の台頭が目だった。かつての「世界の工場」イギリスはアメリカの10分の1以下と大きく後退した。
2001年の綿織物生産量は全世界で1079万5000トンで、中国、インド、アメリカ、パキスタン、インドネシアがおもな生産国である。1位の中国は世界の24%(256万8000トン)を生産し、また綿花・綿糸生産ともに世界のトップである。
[殿村晋一]
日本
概説
幕末・維新期の状態をほぼ反映していると考えられる1874年(明治7)の「府県物産表」では、織物類は、酒類に次いで工産物価額の15.5%で第2位を占め、1909年(明治42)には織物業は繊維産業の工場総数の57.2%、職工総数の31.9%、生産額の34.3%を占めていた。さらに第二次世界大戦前の1934年(昭和9)には、それぞれ55.2%、33.8%、39.5%を占め、戦前資本主義の中軸的位置を占め続けた繊維産業の中枢に位置した。そして、大正時代初期から日中戦争期まで、その織物業の首位にあったのが綿織物工業であった。第二次世界大戦後も高度成長期末期には合成繊維工業にその地位を譲るが、韓国、台湾などのいわゆるアジアNIES(ニーズ)(新興工業経済地域)からの競争や追い上げもまた厳しい。
[加藤幸三郎]
明治期の展開
幕末までの綿織物の需要増大と商品経済の発展とは、織元(おりもと)層や出機(だしばた)制度を生み出し、同時に綿作・綿糸紡績・織物と綿業の三分化を発生させた。しかし、開港の結果、綿糸布輸入は急増し、明治10年代まで輸入総額の30%以上を占め続けていた。明治政府は輸入防遏(ぼうあつ)・殖産興業の展開をもってこれに対抗し、旧来の綿作地に二千錘(すい)紡績(「2000錘」を単位とするいわゆる十基紡)を移植しようとしたが結果は失敗に終わった。しかし、明治10年代なかば以降大阪紡績(1914年に三重紡績と合併し東洋紡績となる)の成立を先頭に近代的機械制綿糸紡績業が急速に展開をみせるに至った。そして1885年(明治18)には、内地の綿布生産額が輸入額を凌駕(りょうが)し、日露戦争後の1909年(明治42)には綿布輸出額が輸入額を凌駕している。
元来、京都西陣(にしじん)機業の先進的な技術と、在来の居座機(いざりばた)に比して生産性の高い高機(たかはた)が絹織物業に伝播(でんぱ)してゆくのは、近世中期以降であったが、綿織物業はさらに遅れて近世後期のことであった。こうして、綿業の三分化を生み出しつつ、総じて手織機(ておりばた)生産を中心に問屋(とんや)制家内工業が広く展開したのであるが、20世紀初頭に至って輸出向け綿織物業(泉南、遠州、知多など)と移植型綿糸紡績会社の兼営織布業との二類型がともに力織機生産を展開したわけである。輸出向けの前者は明治末期から大正初期にかけて力織機数が手織機数を凌駕し、後者の兼営織布型では明治30年代に力織機による織布経営が激増し、昭和初期には自動織機が導入されてくる。この間、1897年(明治30)には豊田佐吉(とよださきち)が木製力織機を完成し、これを鉄製に改良して綿織物工業の発展に多大の貢献をなしたのは周知のとおりである。日露戦争後の1906年には満州と朝鮮向けの両綿布輸出組合が、大阪紡績、三重紡績など兼営織布会社と三井物産との共同で発足、さらに中国市場ではイギリス綿製品と競争するに至った。第一次世界大戦(1914~18)を契機に、日本の綿製品輸出は綿糸から綿布中心へ移行し、1934年(昭和9)には26億平方ヤード(約21億平方メートル)を輸出、イギリスを抜いて世界の第1位となった。
[加藤幸三郎]
昭和~平成期の推移
こうして、第一次世界大戦以降の綿織物工業の展開は、兼営織布型の大経営と在来綿織物業を基盤とする中小経営とに分化し、第一次世界大戦後の反動恐慌以降両者の格差は拡大していった。さらに、綿業資本の多角経営化は、1932年(昭和7)ごろからのスフ綿生産の開始とも関連して、人造絹糸と並んで、スフ織物生産が比重を増してゆくのであって、第二次世界大戦後の1948~49年(昭和23~24)から始まった合成綿生産による合成織物生産も同じ傾向にあったといえよう。なお、昭和10年代、とくに日中戦争開始(1937)後の綿織物工業の整理・再編成時代には、在来綿織物業に基盤があった中小経営が大きな打撃を受けた。とくに1938年(昭和13)7月以降の綿製品一般の民需向け供給の禁止(「非常管理」)により、中小経営のうち、職工1人ないし30人未満経営は転・失業という最悪の状況に追い込まれた。
これら中小綿織物業の労働事情は、綿糸紡績業と同じく、婦人・幼年労働者の劣悪な条件の下での酷使が通常であったが、1916年(大正5)から実施の工場法もその対象は使用職工15人以上の工場であったから、小機業場は当然に除外され、前近代的雇用関係の残存がみられた。小経営ないし零細経営は農家副業であり、家族労働による長時間労働が一般化せざるをえなかったのである。
第二次世界大戦後には、インド、パキスタンなど開発途上国が綿糸・綿織物の自給化を達成してゆき、輸出にも当然に進出し、さらにはアジアの新興工業国の急速な発展もみられるなど、戦後の日本綿織物工業は、経営的にはきわめて不安定にならざるをえなかった。こうしたなかで、過剰設備の廃棄を中心とする構造改善事業が繰り返し提唱・推進され、あわせて、設備の近代化、中小零細経営のグループ化ないしは集約化が進められている。さらにアジア諸国への世界の織機の集中に加え、織布工程の技術革新が進行し、有杼(ゆうひ)織機の自動化は大幅に実現し、1980年代以降のエアジェット織機導入をはじめ「高生産性・高織布品質」を生かすためにマイクロ・コンピュータを搭載したマイクロエレクトロニクス(ME)化が急速に進められている。その結果、大量生産方式による多品種生産の実現が可能となっている。同時に、アジア諸国からの安価な織物製品の輸入が増大するにつれて国内のニット・タオル産業も打撃を受け、1990年代末からは「繊維セーフガード」(緊急輸入制限)措置を緊急に実現するよう、経済産業省に強く要請している。
[加藤幸三郎]
『三瓶孝子著『日本機業史』(1961・雄山閣出版)』▽『楫西光速編『現代日本産業発達史11 繊維 上』(1964・現代日本産業発達史研究会)』▽『三輪芳郎編『現代日本の産業構造』(1991・青木書店)』▽『武部善人著『綿と木綿の歴史』(1997・御茶の水書房)』▽『富沢修身著『構造調整の産業分析』(1998・創風社)』▽『丸屋豊二郎編『アジア国際分業再編と外国直接投資の役割』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』▽『伊丹敬之他編著『日本の繊維産業――なぜ、これほど弱くなってしまったのか』(2001・NTT出版)』▽『藤井光男編著『東アジアにおける国際分業と技術移転――自動車・電機・繊維産業を中心として』(2001・ミネルヴァ書房)』▽『日本化学繊維協会編『繊維ハンドブック』各年版(日本化学繊維協会資料頒布会)』