精選版 日本国語大辞典 「印象主義」の意味・読み・例文・類語
いんしょう‐しゅぎ インシャウ‥【印象主義】
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19世紀後半にフランスを中心に行われた美術上の運動および様式をいう。これを推進した画家たちは印象派と総称される。19世紀なかば、フランスの文芸や思想の分野では実証主義の風潮が強く、これを受けて美術界でも1850年ごろ以降クールベの写実主義が頭角をもたげつつあった。可視的なものをあるがままに描写しようとする態度で、色彩は暗く、あるいは渋い。自然をすなおに見つめ、歴史的・文学的な主題を否定する点で、マネも初期の印象派たちもクールベの主張を受け継いだ。だが、彼らはしだいに色彩の明るい輝きに魅せられ、自然のなかの光と空気の変幻きわまりない戯れに、もっとも強く創作意欲を刺激されることになった。明るい絵画へ、光の効果の分析へ、空気の存在感の描写へ、という方向である。換言すれば、マネと印象派は実証的な客観主義に出発しながら、自己の個性や感性を解放する主観主義へと向かったことになる。各画家の画風の進展深化とともに、印象主義はフランス美術史上空前の黄金時代を生み出し、写実を基礎とする西洋美術の最終段階を形成し、同時に20世紀美術の諸傾向にもさまざまな作用を及ぼすこととなった。
[池上忠治]
1860年ごろのパリで、モネ、ルノワール、シスレー、ドガ、ピサロ、セザンヌらが相次いで知己となり、いずれもクールベの写実とドラクロワの色彩を学び、他方では美術学校や官展を支配する伝統的なアカデミズムに強い不満と疑問を感じていた。たまたま1863年春の落選者展でマネの『草上の昼食』がスキャンダルを巻き起こすと、彼らはこの作品に重要な造形的啓示を読み取り、おのずからマネを中心とするカフェ・ゲルボアのグループ(またはバチニョル街の集い)が形成され、芸術革新についての熱心な論議が闘わされるようになった。アストリュクZacharie Astruc(1833/1835―1907)やゾラ、デュレThéodore Duret(1838―1927)といった作家、批評家が加わることもあった。さらにはヨンキントやブーダンの外光主義、戸外制作の作用やモネとピサロがロンドンで見た近代イギリス風景画の影響も加わり、グループ展開催の気運も高まるが、1870年夏のプロイセン・フランス戦争で彼らは一時的に四散してしまうことになる。これが印象派成立の前段階である。
[池上忠治]
印象主義の基本的な考え方はすでに1869年、モネとルノワールがブージバル近くのラ・グルヌイエールで描いた何点かの作品にみられる。光を色彩に置き換えること、可能な限り原色を多用して画面の明るさを確保すること、物の影や水面の反映、水の揺らめきなどに注目しつつ固有色にとらわれない描写に努めること、などである。こうした考え方と技法が2人からシスレーやピサロに伝えられ、ピサロからセザンヌにも教えられてゆく。1872、1873年のことである。こうして「色調分割」という理論が生まれる。画面に用いる色彩をプリズムが光を分割する7色に限定し、混色を避けてこれらの純粋色を小さな斑点(はんてん)として塗り、わけても補色関係にある色彩を並置してさえざえとした効果をねらう。隣り合う色彩どうしはパレットにおいてではなく見る者の網膜の上で溶け合うので、画面では明るさや鮮やかさが確保される。これが色彩分割の考え方であり、絵を見る者の視覚の働きに即して「視覚混合」といわれることもある。もう一つの理論は絵の具の「盛り上げ」である。従来の常識では、完成された油絵の表面は油を流したように、とろりと平滑でなければならないとされていたが、それでは光のきらめきや大気の揺れ動きの微妙さを表現しにくい。印象派が風景画を多作するだけにいっそうこの点は重要である。そこで彼らはあえて筆触や絵の具の凹凸をそのまま画面に残す方向をとった。これによって画肌(えはだ)は複雑にざらついて視神経を刺激する力を増し、凹凸の細部におのずから光る部分と暗い部分が生じて新鮮な臨場感をも高める結果となる。ただし、ここで留意しておく必要があるのは、印象派がまず確固たる理論体系を樹立してからこれを作品に適用したのではないこと、むしろ個々人の作風の展開と、思索の深化が自然と前記のような理論に行き着く運びとなったことである。創意あふれる彼らの作品の拠(よ)ってたつもっとも重要な基盤は理論ではなく、あくまでも自然の注意深い観察から引き出されるサンサシオンsensation(感覚の働き)なのである。
しかし印象派の理論や技法が革新的であればあるほど、その作品は世人の理解を得にくいことになる。彼らはサロンに応募するがかならずしも入選せず、審査員の多くは旧態依然たる新古典主義的なアカデミズムを信奉していた。そこで、モネ、ルノワール、ピサロ、ドガらは自分たちのグループ展を構想し、様式上の共通性をもつシスレー、セザンヌ、ギヨーマンのみならず、反サロン的な態度に共鳴するラファエリJean-François Raffaeli(1850―1924)、デ・ニッティスGiuseppe De Nittis(1846―1884)らをも加えて「画家、彫刻家、版画家の無名協会」を組織した。グループ展は1874年、1876年、1877年、1879年、1880年、1881年、1882年、そして1886年と計8回パリで開催され、会員数は50人を超えた。たび重なる勧誘にもかかわらず参加を断った画家に、マネとティソJames Tissot(1836―1902)がいた。運動をもっとも熱心に推進したのはピサロ、ドガ、ルノワールの3人で、これに様式上の中心的存在をなすモネ、セザンヌ、シスレーを加えた6人が主要なメンバーであった。「印象派」という呼称は、モネが第1回展に出品した『印象―日の出』に由来し、第3回展では彼らがこれをグループ名として採用したが、ドガは「非妥協的独立派」という名のほうを好んでいた。印象派には田園ないしは都会を描く風景画家が多く、これに対してドガは人物を中心として近代的な都会風俗を描いた。ルノワールは風景と人物、風俗をほぼ等分に描き、またセザンヌとルノワールは水浴図をも多作した。グループの様式上の等質性と作風の円熟がもっともよくみられたのは、ルノワールが『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を、セザンヌが『ショケ像』を出品した第3回展においてであった。
[池上忠治]
1880年ごろ印象派の人々は40歳前後になる。集団的活動よりは自己の芸術を深める方向へ進む時期である。もともと印象派展はサロンと同時期に開催され、会員はサロンに応募しないという約束だったが、セザンヌ、シスレー、ルノワール、モネらがこのころ相次いでサロンに応募し、ドガの非妥協的な精神をいたく刺激した。そのため第5回展にはモネやルノワール、セザンヌが不参加、逆に第7回展ではドガやカサット、ラファエリが不参加というグループ結束の不統一がみられた。生活の不安と社会的な評価の有無が絡むだけに、こうした内部分裂はきわめて深刻な問題であり、また個性的表現の追求が最大の関心事であるため、元来グループとしての活動にはおのずから限界がある。他方では、ゴーギャン、スーラ、シニャック、ルドンら新会員の参加という側面もある。彼らはけっして純然たる印象派ではないが、これに影響されたり反発したりしながら画境を開拓していた。また、印象派展はよくも悪くも団体展なので、これにかかわる制約もなくはなかった。そこで1884年には「無審査、無賞」を旗印とするアンデパンダン展がより進んだ作品発表の場として誕生し、さらに印象主義の理論的側面をより厳密化したものとして、1885、1886年にスーラの新印象主義が成立するに至った。だが、これら両者はいずれも印象派の大運動なしには生まれえなかったはずのもので、その意味でも印象派の活動は近代西洋美術における画期的なできごとだった。さらに付け加えるならば、ゴンクールやプルーストの小説、ドビュッシーの音楽、ロダンの彫刻、マラルメの詩などにも印象主義的な特質を認めることができる。またドイツや北欧、イギリスやアメリカなどにも印象派の影響は遅かれ早かれ広まってゆく。近代フランスの印象主義はイタリア・ルネサンスに匹敵するほどの重要性をもつといっても、過言ではなかろう。
なお、印象主義的な作風は過去にまったく類例がないわけではなく、ポンペイなどに残る古代ローマ絵画のある段階を印象主義的様式とよぶこともある。
[池上忠治]
印象主義の影響は1880年代以降すこしずつ欧米に広まってゆくが、同じころフランスではジョルジュ・スーラが新印象主義を唱えた。これは印象派が直観的、経験的に樹立した考え方や技法をより理論的に推し進めたもので、シュブルール、ヘルムホルツ、シャルル・アンリCharles Henry(1859―1926)らの行った光学研究、色彩研究に多くを負っている。新印象主義は色調分割を徹底的に行うので分割主義divisionnismeともよばれ、また絵の具を小さな丸い斑点として塗るので点描主義pointillismeといわれることもあった。だが点描といういい方は、色調分割の意味を含まない点で新印象主義をさすには適当でない。スーラの死後はシニャックが終生この新印象主義の立場を堅持した。ほかにはクロスHenri Cross(1856―1910)や、デュボワ・ピエAlbert Dubois-Pillet(1846―1890)らがあり、ピサロ、ゴッホ、ゴーギャン、初期のマチスらも一時的にこの影響を受けた。スーラとシニャックの作品発表の場は主として印象派展とアンデパンダン展だった。印象主義を擁護した批評家としてデュレ、デュランチ、ゾラ、マラルメらがあったのに対して、新印象主義の論客としてはフェリクス・フェネオンFélix Fénéon(1861―1944)が重要である。
[池上忠治]
イギリスの批評家ロジャー・フライが1910~1911年にロンドンで催した「マネと後期印象派」展に由来する呼称。印象派や新印象派とは異なる大画家で後世に多大な影響を及ぼした人々という程度の漠然としたことばで、おもにセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホの3人をさすが、セザンヌは印象派の主要メンバーの1人だし、残る2人も印象主義の洗礼をひとたび受け、そしてこれを消化してより個性的な芸術を開拓している。もとより3人がなんらかの運動を行ったこともない。したがって、これは語義のあいまいなことばだが、便利なこともあるので主として英語圏で用いられている。近年ではジョン・リウォルドJohn Rewald(1912―1944)が新印象主義やルドン、ナビ派などまで含めて、おもにアンデパンダン展系統の画家たちを一括する呼称としてこれを用いている。
[池上忠治]
1880年代以降、印象主義の影響は様式としても近代的芸術運動としても世界各地に広まってゆく。日本でも当時は油絵の具による洋画を摂取しようとする段階にあり、たまたまパリで画業を学んだ黒田清輝(せいき)と久米桂一郎(くめけいいちろう)の帰国(1893)により、この影響がもたらされる。ただし2人はいずれもパリ美術学校に学び、ラファエル・コランその他のアカデミックな指導を受けていて、印象派の画家や作品と直接に対面してはいなかった。2人は温和で折衷的な、やや印象派化されたフランス・アカデミズムの様式を日本に持ち込んだわけだが、それでも画面の明るさや感覚の自由さ、主題選択の大胆さなどによって世の人々を驚かせ、従来の「脂派(やには)」に対して「紫派」と形容され、また旧派に対して新派ともよばれた。なお、近代版画の分野では小林清親(きよちか)の画業が印象派的な感覚の新鮮さによって注目に値する。1900年(明治33)ごろには林忠正(1853―1906)が若干の印象派作品を日本に送ってもいる。やがて黒田が東京美術学校洋画科の初代教授となり、白馬会をも主催するにつれて、彼の折衷的作風が日本洋画壇の主流をなすに至るが、ほどなく清新さを失い、形式主義に陥るという悪い面をも露呈することとなる。だが全体としては、これが明治期の急速な近代化の宿命だったともいえよう。
[池上忠治]
『John RewaldHistory of Impressionism (1973, Museum of Modern Art, New York)』▽『『ファブリ版世界の美術 印象派の画家たち』全12巻(1975~1976・小学館)』▽『ピエール・クールティヨン解説、山梨俊夫訳『世界の巨匠シリーズ別巻 印象派』(1985・美術出版社)』
シスレー『ビルヌーブ・ラ・ガレンヌの橋…
スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の…
セザンヌ『水浴図』
ドガ『踊りの稽古』
ピサロ『冬の午後のチュイルリー庭園』
ブーダン『ボーリュー フルミ湾』
モネ『積み藁 夏の終わり』
ヨンキント『オンフルール』
ルノワール『テラスにて(二人の姉妹)』
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… 18世紀には,C.A.コアペル,ブーシェらが下絵を提供したが,フランス革命以後ゴブラン製作所は衰退する。その後,19世紀後半に,ゴブラン製作所の染色監督官の任(1824‐89)にあった化学者シュブルールらによって再び活気が取り戻された(シュブルールが在官中に公刊した色彩理論は,印象主義,とくにディビジョニスムの形成に大きく寄与する)。20世紀になってジャノーG.Janneauの指導下(1935‐45)に,絵画の模倣ではなく,織物としての独自の価値をもつ作品を制作するための努力が行われた。…
… 19世紀末において抽象芸術を予告していた動向は,次の三つに要約できる。第1は,眼に映るとおりの印象を描こうとしたという意味で写実主義の極致であった印象主義が,たとえばモネの晩年の作品がほとんど抽象と呼びうる画面を実現したように,実は一種の抽象化へのきっかけになったという事実。第2は,ゴーギャンを師とするナビ派の画家たちがきわめて装飾性の強い絵画を実現したこと。…
…また高村光雲の長男光太郎は欧米に留学,ロダンに傾倒して09年に帰国し,《ロダンの言葉》を翻訳して,実作による荻原とともにロダン紹介に大きな役割を果たした。
【大正時代美術】
[印象主義の導入]
日本に印象主義が移植されたのは,ようやく1910年前後に至ってのことである。フランスにおける印象派展は,すでに1886年第8回をもって幕を閉じていたが,日本におけるこの遅れは,一つには黒田清輝の外光主義がいち早くアカデミズムとして確立してしまったことによる。…
※「印象主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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