イギリスの機械技術者。ウーリッジに生まれる。12歳のときウーリッジ兵器廠(しょう)で働き、弾丸、薬包の製造に従事した。15歳になると鍛冶(かじ)職のもとへ徒弟として入り、きわめて短期間に技術を習得した。やすりの使用では彼の右に出る者がないほどであった。18歳のとき、当時安全錠の製造で有名なブラマーのもとで仕事をする。モーズリーは正確に動く錠前を製作するために、新しく工作機械をつくった。このほか、ブラマーの工場にはほかの工場ではみられないモーズリーのくふうした珍しい機械があった。
職長として働いていた彼は、26歳になって賃金の引上げをブラマーに申し出たが受け付けられなかった。やむなくブラマーの工場をやめ、1797年独立して、オックスフォード街の近くに工場を建設した。彼は旋盤の加工精度を向上させるために、卓上旋盤に工具を取り付ける送り台を備え、ねじで自動送りするようにした。送り台についている刃物は主軸の回転によって自動的に移動するので、切削物を正確な寸法に仕上げられるようになった。最初の注文主は芸術家で、イーゼル(画架)の製作であった。続いて注文が相次ぎ、彼は第一級の機械技術者として広く知られるようになった。同じ年、全金属製送り台付き旋盤を製作して、金属加工機械の基礎を築いた。後年、アメリカの機械技術者セラーズが工場を訪れ、この旋盤を見て「モーズリーは旋盤の父である」と絶賛した。この旋盤はねじを切るのに使用され、ねじ製作の標準化にも役だった。
仕事量が増え手狭になったので、1802年マーガレット・ストリートに工場を移し、80人の従業員を使うようになる。1810年にはさらにランベスに移り、共同出資者を得てモーズリー・アンド・フィールド商会と改称した。商会設立後も、蒸気機関の改良や、ボイラー用鉄板の穴あけ機の発明などを行っている。
彼の工場からは機械技術分野で活躍した多くの人が輩出した。精密機械製作者クレメントJoseph Clement(1779―1844)、船舶機関発明者シーウォードSamuel Seaward(1786―1858)、工作機械製造のミュアWilliam Muir(1805―1888)、蒸気機関や自動ミュール機の発明者R・ロバーツ、19世紀最大の工作機械製造者ホイットワース、蒸気ハンマーの発明者ナスミスなどである。1830年フランスに重病の友人を訪れ、帰途、悪質の風邪(かぜ)にかかり、フランスで死亡した。
[中山秀太郎]
イギリスの物理学者。ドーセットシャー生まれ。オックスフォード大学トリニティ・カレッジに学ぶ。1910年マンチェスター大学の物理学実験助手となり、ラザフォードの下で放射性物質の原子から放出されるβ(ベータ)粒子の計測実験を行い、高真空と放射能に関する技術を学んだ。1912年秋から研究に専念し、ラウエのX線回折実験の成功を聞くと、ダーウィンCharles Galton Darwin(1887―1962)とともにX線の回折実験を行い、ブラッグ父子にすこし遅れて彼らと同様の結果を得た。ついで多くの元素の特性X線を系統的に測定し、元素の原子番号と特性X線の振動数の間にある関係を導いた。この関係はモーズリーの法則として知られる。彼は、当時発表されたボーアの原子模型と関連して原子核の電価数、すなわち原子内電子数が原子番号と等しいと主張した。1913年オックスフォード大学に戻り、研究を続けたが、第一次世界大戦が始まると志願兵となり、トルコのガリポリで戦死した。
[川合葉子]
イギリスの政治家。陸軍士官学校卒業。1918年保守党下院議員となり、その後無所属を経て、1924年労働党に入った。将来の指導者とみなされ、1929年マクドナルド内閣のランカスター公領相に就任したが、失業救済策がいれられなかったために1930年辞任、1931年脱党して新党(ニュー・パーティー)を結成、これが1932年イギリス・ファシスト連盟となった。以後イギリスのファシズム運動の中心にたち、第二次世界大戦中は投獄された(1940~1943)。戦後もその活動を続けた。
[木畑洋一]
イギリスの物理学者。ドーセットシャーのウェーマスの生れ。オックスフォードのトリニティ・カレッジで物理学を学び,1910年の秋マンチェスター大学のE.ラザフォードを訪ね,学生実験の助手職を得た。ラザフォードのもとで,ラジウムB(214Pb)やラジウムC(214Bi)の1個の原子から放出されるβ粒子数を決定するための研究を行い,放射性物質や放射線の扱いを学んだ。12年の秋からは特別研究員制度の適用をうけて研究に専念,同年M.vonラウエによる結晶のX線回折の成功の知らせをきき,これを契機としてX線の波動性の研究を開始した。数理物理学者のC.G.ダーウィンとの共同研究によって,ブラッグ父子におくれたものの,同様な回折の関係式を得,反射線が同一の透過能力をもつことやその強度が角度によって変化することを見いだした。さらにこの変化に生じたピークが,使用したX線管の対陰極物質である白金の単色X線の特性に一致していたことから,対陰極物質の原子量または原子番号と放出される特性X線の波数(波長の逆数)との関連を追究し,13年モーズリーの法則を見いだした。同年の12月にはオックスフォードに移って研究を継続,未知元素同定に特性X線を使用する研究などを行っていたが,第1次世界大戦が始まると志願兵として入隊,15年8月にトルコのガリポリで戦死した。
執筆者:日野川 静枝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの物理学者.イートン校とオックスフォード大学トリニティ・カレッジで学ぶ.1910年マンチェスター大学の物理学実験助手になり,E. Rutherford(ラザフォード)のもとで放射性物質の原子から放出されるβ粒子の計測実験を行い,高真空と放射能に関する技術を修得した.1912年からW.L. Bragg(ブラッグ)のもとでX線技術を学んだ後,X線の回折実験をはじめ,全元素の特性X線を系統的に測定し,その振動数と原子番号の間の関係式モーズリーの法則を導き,原子番号が実験的に決定でき,しかもそれがN.H.D. Bohr(ボーア)の理論の原子核の正電荷数と等しいと主張した.1913年末にはオックスフォード大学に戻って研究を続けていたが,第一次世界大戦がはじまるとイートン校卒業生の義務感から従軍を志願し,トルコのガリポリ(ゲリボル)半島最南端ヘッレス岬で戦死した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ここでKとsはスペクトル線の種類によって決まる定数である。1913年H.G.J.モーズリーが実験的に見いだしたもので,N.H.D.ボーアの原子模型に理論的な根拠を与えるとともに,原子核の周囲の電子構造解明の手がかりを与え,元素の周期律表は原子量よりも原子番号によって整理されるべきもの,いいかえれば原子番号のほうがより基本的な量であることを明らかにした。X線【細谷 資明】。…
※「モーズリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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