ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説
ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ
Lorenzo di Piero de' Medici, duca di Urbino
[没]1519.5.4. フィレンツェ
イタリア,フィレンツェの政治家。1513~19年にフィレンツェを統治した。ニッコロ・マキアベリから『君主論』を献上され,国民軍を編成して外国の侵攻を排除しイタリアを統一すべきだと進言された。1512年,メディチ家はフィレンツェに返り咲き,ロレンツォの父ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノ・デ・メディチが 1年間フィレンツェを統治したが,1513年8月ロレンツォに統治権を禅譲した。しかし野心家のロレンツォは,フィレンツェ政府の頂点に立ったものの共和制機関による数々の制限のため身動きがとれず,絶えず教皇レオ10世の支配を受けるという状態に不満をいだいた。一方,教皇は親族の勢力拡大を望み,ウルビノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローベレを口実を設けて追放,ロレンツォをウルビノ公にして権限を正式に授与した。やがてローベレが臣民の歓迎を受け帰還すると,ロレンツォは公位の奪還のため長い戦争を経なくてはならず,戦闘中に負傷した。1519年に病気と不摂生のため死亡。オーベルニュ伯女マドレーヌと結婚し,カテリーナ(→カトリーヌ・ド・メディシス)をもうけた。
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