フランスの地方名。マシフ・サントラル(中央山地)の,そのまた中央に位置するのがオーベルニュ地方で,中心都市クレルモン・フェランの南西にあるモン・ドール山が,フランスの水脈を南北に分かつ分水嶺である。この地方はブルターニュやバスク地方と並んで,古くからの伝統がよく保たれていることで知られる。オーベルニュの名称は,紀元前この地方に定着していたケルト人の一部族アルウェルニ族Arverniの名に由来するもので,非常に古い地名である。
オーベルニュといえば,すぐ思い浮かぶのは典型的な山国のイメージである。この地方はもともと,火山の噴出によって形成されたものだが,〈ピュイpuy〉と呼ばれる円錐状の火山が南北に連なってこの地方の骨格をなしている。最高峰のピュイ・ド・サンシーでも標高1886mであるから,峨々たる山岳というわけではないが,山あいには時に深い渓谷が刻まれ,幾重にも重なる山並みのつくり出す景観は他に類を見ない。火口湖やビシー,モン・ドールなど名高い温泉地にも恵まれて,夏には多くの観光客を集める。1960年代まで農村人口が過半を占めていた農業地域だが,牧牛を主体とする山村であるから,穀作中心の平地の農村とはまったく性格が異なる。山あいの台地には放牧地や牧草地が連なり,夏の朝は牛の鳴声と首につけた鈴の音で目を覚まされる。村人がいちばん忙しいのは,夏の乾草刈りの時期で,天候をにらみながら一家総出で乾草の取入れに当たる。乾草刈りのあと,夏の終りか秋口には,牛,羊,豚などの盛大な市が開かれ,かつてはたいへんな賑いであったという。酪農品としては,牛の乳からつくるカンタルやサン・ネクテールなどのチーズが名高く,ロクフォールと似た風味のブルー・ドーベルニュもよく知られている。もっとも,オーベルニュ地方にも平地がないわけではなく,特に中心都市クレルモン・フェランから北に広がるリマーニュ盆地やアリエ川の流域は,古くから豊かな穀作地帯として知られていた。山地に比し人口密度も高く,経済的には重要な役割を果たしていたことを忘れてはならないだろう。この地域では,ブドウ酒もつくられていたが,19世紀後半の〈根あぶら虫(フィロクセラ)〉による虫害ですっかりやられてしまった。今ではサン・プールサンの地酒が知られている程度である。
オーベルニュは,早くより人類が定着した土地であり,旧石器時代からの遺跡がいくつも発見されている。ケルト人が侵入し定着してからは,ラ・テーヌ文化の一つの中心となった。ローマの支配下にあっては,すでにクレルモンが中心都市となり,ガリアの東西を結ぶ交通の要衝として重要な位置を占めていた。中世のオーベルニュは,政治的には不安定であった。地域全体を統轄する強力な支配権が確立されなかったため,小規模な在地領主が一国一城の主として割拠し,領民の上に君臨していた。16世紀以降,絶対主権が強化されると,フランスの貴族の多くは宮廷貴族への道を歩むが,オーベルニュはブルターニュと並び,所領にとどまる中小貴族が最も多く残存した地方であった。司法の面ではパリ高等法院の管轄に属していたが,パリからははるかに離れた僻遠の地であり,その監視の眼も及ばぬことが多かった。1665年ルイ14世が,特別の巡回法廷をクレルモンで開かせた時には,暴虐な地方貴族に対する訴えが1200件を超えたといわれる。高等法院はなかったが,クレルモン・フェラン(1731年クレルモンとフェランが合併)には租税法院が置かれており,これが王国の機関としては最も重要なものであった。哲学者パスカルの父親エティエンヌ・パスカルはその評定官であり,パスカル自身もクレルモンで生まれている。彼が空気の重さを証明する実験を行ったのは,ピュイ・ド・ドームの山頂においてであった。
フランス革命期の行政改革で,オーベルニュは,その主要部分が北のピュイ・ド・ドーム県と南のカンタル県に分かれ,周辺部はアリエ県,オート・ロアール県,アベロン県に併合された。長いこと純農業地域としてとどまり,農村人口と都市人口の比率が逆転したのは戦後の1962-68年のことにすぎない。第2次大戦でドイツに降伏したペタン政権は,ビシーに政府を移し,また開戦時の首相ポール・レノーらの裁判はリオンで行われるなど,第2次大戦中は思わぬところでオーベルニュは政治の舞台となった。
オーベルニュは,11~12世紀に,独特のロマネスク芸術を開花させた土地である。ノートル・ダム・デュ・ポール(クレルモン・フェラン),サン・ネクテール,オルシバル,イソアールなど,中世美術史を飾る数々の教会が,端正なたたずまいを見せている。この地方のロマネスクの特色は,とくに後陣の部分にあり,後陣とそのまわりを取り巻く祭室の丸屋根が円筒を組み合わせたような構造で,独特の印象を与える。火山岩を材質とするため石肌は黒ずんでおり,全体として小づくりだが,単純な線が実に力強い。ロマネスクの特徴である柱頭彫刻もみごとに保存されており,ブルゴーニュやポアトゥーのロマネスクと並んで,中世美術の宝庫である。オーベルニュの南東の隅にあるル・ピュイのノートル・ダム大聖堂は,岩山の上に特異な姿を示す,12世紀に建立されたロマネスクの教会堂だが,東方ビザンティン様式の影響を受けており,オーベルニュ独自のロマネスクとはいえない。しかし,この大聖堂はフランスでのマリア信仰の中心地として多くの信者を集め,また,中世における指折りの巡礼地であったスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラに至る重要な道筋のひとつとして,巡礼が列をなしたという。なお,オーベルニュ地方東端のラ・シェーズ・ディウ修道院付属教会には,内陣裏手に〈死の舞踏〉の壁画があり,中世末の時代精神をみごとに表現した作品として名高い。
山里に生きるオーベルニュの人々は,しんぼう強い剛毅の人として知られていた。その剛毅さは,第2次大戦中の対独レジスタンスにもよく表れており,オーベルニュがもっとも強固な抵抗の拠点となった。山の生活は厳しく,手工業としては,ティエールの刃物,アンベールの製紙,ル・ピュイのレース編などわずかなものしかなかったから,雪に閉ざされる冬場には,男たちは大挙して出稼ぎに出るのが習わしであった。アンシャン・レジーム期には,地中海沿岸の穀作地帯や遠くスペインに出かける季節労働が主であったが,19世紀に入ってからは故郷を離れパリに移り住む者がふえ,オーベルニュの最大の都市はパリだといわれるまでになった。石工やいかけ屋,水売や炭屋などの仕事にたずさわり,古鉄商として産をなす者も出た。同郷人の結束が固く,庶民街の11区や18区には,行きつけの酒場に集まり,故郷の祭りを祝い,冠婚葬祭の習俗を守るオーベルニュ出身者のコロニーができた。
クレルモン・フェランに鉄道が通じたのは1854年のことだが,牧畜を中心とする山村は,しだいに人口の流出が目だつようになり,過疎現象が生じた。それに代わって,平地のクレルモン・フェランを中心とする地域が発展を遂げた。とくにミシュランのタイヤ工場の成功により,クレルモン・フェランはフランスのゴム加工業の中心地となる。オーベルニュにはまた,立地に恵まれて多くの水力発電所が建設され,豊かな電力を基礎に近代工業の誘致が進んでいる。
執筆者:二宮 宏之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランス中南部の旧州名。現在も行政地域名として用いられ、アリエ県、オート・ロアール県、カンタル県、ピュイ・ド・ドーム県に分かれている。面積2万6013平方キロメートル、人口130万8878(1999)。この風光明媚(めいび)な土地の大部分はマッシフ・サントラル(中央群山)からなり、ドーム山地、ドール山地、カンタル山地をはじめとする休火山の山頂が点在する。オーベルニュ西部は大西洋の影響を受け、湿潤で風が強く、夏は涼しいが冬は厳しい地方で、荒野、草原地帯となっている。一方、東部は内陸式気候で、気温の年較差は著しいが降水量は比較的少なく、耕地が卓越する。全体としてみると、オーベルニュの居住環境はあまりよくなく、人口密度は1平方キロメートル当り約50人で、フランスの平均値の半分である。農村からの人口流出も著しく、クレルモン・フェラン、ビシーなどの都市に人口が集中している。山地での牧畜、肥沃(ひよく)な土地での耕作を主体とする農業人口が、生産人口の4分の1を占める。工業人口は全体の3分の1を占め、加工業が中心である。
ケルト人が住んでいたが、彼らはカエサルを破り、ガリアをローマの支配から解放した。4、5世紀に、オーベルニュはゲルマン系民族に次々に占拠され、6世紀にフランク王国の支配下に入った。中世初頭、メロビング王朝とカロリング王朝の一部をなしたが、後者が分裂した9世紀に別の国となった。12世紀にはイギリス国王の支配下に入ったが、13世紀初めフランス王領になった。
[大嶽幸彦]
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