レオ10世(読み)レオじっせい(その他表記)Leo X

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レオ10世」の意味・わかりやすい解説

レオ10世
レオじっせい
Leo X

[生]1475.12.11. フィレンツェ
[没]1521.12.1. ローマ
フィレンツェ出身の第217代教皇在位 1513~21)。本名 Giovanni de' Medici。ロレンツォ・デ・メディチの二男。8歳で剃髪,1489年に枢機卿(→カーディナル)となり,ピサで神学教会法を学ぶ。1494年メディチ家がフィレンツェを追放されるとドイツ,オランダ,フランスを旅し,1500年ローマに帰還。1513年にユリウス2世の後継として教皇に選出された。同 1513年,ミラノなどをねらい進軍してきたフランスに対しスペインと組みこれを破ったが,1515年に再び侵攻されて敗れ,パルマなどを割譲。1516年第5回ラテラノ公会議ブールジュの国事詔書を破棄しボローニャの政教協定を締結した。1519年カルル5世が新たな神聖ローマ皇帝となると,これと結んで失地回復のためフランスに戦争を仕掛けた。1520年には人文学者ヨハネス・ロイヒリンを断罪。対トルコ十字軍の計画,サン・ピエトロ大聖堂の再建,戦争遂行などで莫大な乱費をし,財源確保のため聖職増設と売却,贖宥状(→免罪符)の販売を進めた。それが直接のきっかけとなり,1517年マルチン・ルターから九十五ヵ条の提題を突きつけられたが,ルター説を排斥し 1521年にルターを破門教皇権確立に尽力し,文学や芸術の保護政策を強力に推し進めた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「レオ10世」の解説

レオ10世(レオじゅっせい)
Leo Ⅹ (本名 Giovanni de' Medici)

1475~1521(在位1513~21)

ローマ教皇メディチ家の出身。13歳で枢機卿となり,即位後はフランスのイタリア経略に対抗してフランソワ1世と戦った。政治力があり,1516年フランスと政教条約を結んで司教叙任権を確保した。他方,ドイツの大司教叙任について聖職売買の誤りを犯し,サン・ピエトロ大聖堂再建のための贖宥状(しょくゆうじょう)についてルター批判を招いた。ルネサンス学芸の保護者であった。

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改訂新版 世界大百科事典 「レオ10世」の意味・わかりやすい解説

レオ[10世]
Leo Ⅹ
生没年:1475-1521

ローマ教皇。在位1513-21年。フィレンツェの銀行家ロレンツォ・デ・メディチイル・マニフィコ)の次男として生まれ,7歳で修道士,13歳で枢機卿となる。1494年のメディチ家のフィレンツェ追放後ヨーロッパ各国を回り,1500年ローマに帰る。11年教皇特使,13年38歳で教皇となる。徳性や敬虔さに欠けるところはなかったが,浪費家でわずか2年で教皇庁財政危機に陥れたという。フランソア1世との〈ボローニャ協定〉,ルターの破門は有名である。
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367日誕生日大事典 「レオ10世」の解説

レオ10世

生年月日:1475年12月11日
教皇(在位1513〜21)
1521年没

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世界大百科事典(旧版)内のレオ10世の言及

【教皇】より

…パパPapaという親称は,本来ギリシア語のパパスpapas(〈父〉の意)に由来し,東方世界において修道院長,主教,総主教に対して使われていた。ローマでは初めてローマ司教リベリウスLiberius(在位352‐366,以下同)の墓碑に記され,レオ1世Leo I(440‐461)あての東方教会からの手紙にはしばしば現れる。西方教会では5世紀中葉以来ローマ司教のみが〈パパ〉すなわち〈信仰上の父〉〈教皇〉と呼ばれるようになった。…

【宗教改革】より

…これら両論著がドイツ語でひろく読まれ,まさに国民的な影響を及ぼしたのに対し,《教会のバビロン捕囚》はラテン語の神学者ないし聖職者向けの著述であるが,ここで彼がカトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)に聖書主義の立場から批判を加え,サクラメントを洗礼と聖餐の二つだけに限定したことは注目すべきである。
[改革の進展]
 ローマでは,1520年6月に教皇レオ10世が,いまや異端の判決を下されたルターに対し,所説の撤回を破門の威嚇によって強要する教勅(《エクススルゲ・ドミネ》)を発していた。ドイツ各地に反ローマ感情が高まる中で,さまざまな妨害を受けつつ,この教勅がルターのもとに届いたのは,秋に入ってからだった。…

【メディチ家】より

…1512年,カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の後ろ楯により,ロレンツォの次男で枢機卿のジョバンニGiovanni de’ M.がフィレンツェに入城,メディチ家の復帰は成るが,このためフィレンツェは長らくスペインの勢力下に置かれる。翌13年,彼が教皇レオ10世となったため,追放されたピエロの子ロレンツォ2世Lorenzo II de’ M.が,次いでイル・マニフィコの甥で枢機卿のジュリオGiulio de’ M.が当主の座に就くが,この地位は親メディチの寡頭市民グループに支えられた。なおこのジュリオの尽力でフランス王家に嫁ぎ,妃となったカトリーヌ・ド・メディシスと,後代,アンリ4世妃となったマリアという,2人のフランス王妃をメディチ家は出している。…

※「レオ10世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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