カトリーヌ・ド・メディシス(読み)かとりーぬどめでぃしす(英語表記)Catherine de Médicis

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

カトリーヌ・ド・メディシス
Catherine de Médicis

[生]1519.4.13. イタリア,フィレンツェ
[没]1589.1.5. フランス,ブロア
フランス王アンリ2世の妃。メディチ家のウルビノ公ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの娘。1533年アンリと結婚,3人の国王フランソア2世シャルル9世アンリ3世)を生んだ。シャルル9世の摂政となり,ユグノー戦争のなかにあってカトリックとユグノー派プロテスタント両教徒の均衡の維持に努め,1563年アンボアーズの和解勅令に署名した(→アンボアーズの陰謀)。しかし,プロテスタントの首領コリニー伯の勢力拡大からシャルル9世を守るためにカトリックの首領と手を結び,1572年8月24日,サン=バルテルミ祭の鐘を合図にコリニー以下の虐殺を行なった(→サン=バルテルミの虐殺)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

カトリーヌ・ド・メディシス
かとりーぬどめでぃしす
Catherine de Médicis
(1519―1589)

フランス国王アンリ2世の王妃。父はメディチ家のウルビーノ公ロレンツォ2世、母はフランス王家の血を引くマドレーヌ。1533年14歳のときオルレアン公(後のアンリ2世)と結婚し、10人の子宝に恵まれた。3人の国王と2人の王妃の母として、16世紀後半の政治と社会を大混乱に陥れた宗教戦争のなか、弱体化しつつあったバロア王家の権威の確立に寄与した。初期は寛容精神に基づく新教、旧教両派の協調の実現を目ざしたが、挫折(ざせつ)すると新教徒幹部の抹殺を企て、サン・バルテルミーの虐殺を引き起こした。彼女の個性は、美術、文化の領域でいかんなく発揮され、宮殿造営に力を注ぎ、王権高揚のため宴と祭りを頻繁に開催し、絵画や美術品の収集に専念し、歌謡、音楽、演劇を一つにしたバレエを創作して後のオペラの起源とした。現存の膨大な『書簡集』にその秀でた文章の資質を読み取れる。

[志垣嘉夫]

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