イタリア,フィレンツェの外交官,政治思想家。その前半生は不明であるが,1498年フィレンツェ共和国の書記官に任命され,主として軍事,外交を担当した。1512年に共和国が打倒されるまで,弱小国の代表としてイタリアはいうに及ばず,フランスやスイスなどに東奔西走の日々を送った。有名なチェーザレ・ボルジアとの出会いもそのなかで生まれた。彼はこの活動を通して傭兵隊中心のイタリアの軍制を批判し,農民からなる軍隊の創設に力を尽くした。それとともに彼は政治の問題を外交,軍事の方向から考察するようになる。1512年共和国がメディチ家によって打倒されると,マキアベリは危険人物として職を追われ,フィレンツェ郊外に隠棲を余儀なくされた。有名な《君主論》(1532)をはじめ,《リウィウス論》(1531),《マンドラゴラ》(1524)などの作品はこの不遇の時期に執筆された。この間も彼はイタリアをめぐる政治情勢に関心を向け,また《君主論》にみられるようにメディチ家への接近を開始する。とくに彼はメディチ家のジュリオ(のちのクレメンス7世)の好感を得,やがてその依頼で《フィレンツェ史》(1532)を書くことになる。しかしその反面,彼は若い貴族たちのサークルである〈ルチェラーイ家の庭園〉にも出入りし,ローマの歴史家リウィウスを読んでいる。そしてやがてこのグループを中心に共和制の復活を目ざす,反メディチ陰謀が発生する。
彼のメディチ家や共和制に対する態度には機会主義的な側面がみられるが,これは彼が内政よりも対外的支配権や軍事政策のあり方に主たる関心を向け,君主制か共和制かをそれに従属するものと考えていたからである。したがって,《君主論》と《リウィウス論》(ローマの歴史家リウィウスの著書に依拠した共和国についての考察)は単純に矛盾するものではなかった。メディチ家との関係が好転するや,彼はクレメンス7世を中心とするイタリア政治の状況を改善すべく,動き始める。皇帝カール5世の進出がイタリアの政治的隷従を生み出すことを察知した彼は,教皇庁の行政官グイッチャルディーニとともに慰め合いつつ献策を続けた。しかしイタリア傭兵隊の無力の結果,皇帝軍の〈ローマ劫掠〉(1527)が起こるとフィレンツェはメディチ家を追放した。この新生共和国はマキアベリをメディチ派として弾劾し,その任を解いた。イタリアの政治的没落とみずからの政治的挫折の衝撃のなかで,マキアベリはその翌月この世を去った。
→君主論
執筆者:佐々木 毅
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…46年に創刊した《ベルファゴール》は人文科学の批評誌として今も独自の役割を果たしている。著作には名著《マキアベリ》(1945)ほか多数の作家論,主要古典に対する注釈,さらに文学史の叙述もある。【林 和宏】。…
…彼は《宝石箱》などあわせて5編の戯曲を書き,ルネサンス時代の喜劇に新風をもたらした。しかし,アリオスト以上に時代に対する風刺を表現した作品《マンドラゴラ》を書いた作家にN.マキアベリがいる。彼は《君主論》を書いた思想家として知られるが,1編の小説と2編の戯曲作品を残した。…
…マキアベリの主著で,1513年から翌年にかけて執筆された。彼は君主論という古代以来の伝統的スタイルにのっとりつつ,まったく新しい内容を展開した。…
…しかし,いずれの時代をも通じて,他者の身体への強制力すなわち暴力を集中し独占すること,すなわち武力や警察力の掌握が,権力の究極的な基盤であることに変りはない。したがってマキアベリは,近代国家の出発に際して,何よりもまず,頼りになる軍隊を創出して国家の基礎とすることを説いたのである。その教訓は,今日のすべての国家に受け継がれている。…
…ヨーロッパ中世世界が,宗教的な聖なる秩序から現実の秩序を弁証するスコラ学によっておおわれたなかで,現実の秩序の由来を現実的に追求する思考は,ルネサンス時代とともに開けた。この意味で,新しい近代国家の秩序が,国民軍という権力的基盤と君主の人心収攬(しゆうらん)術によって保たれることを説いたマキアベリは,近代政治学の開祖とされる。また,国家主権を説いたJ.ボーダン,国際法の存在を主張したH.グロティウスは,近代の国家秩序,国際秩序の法的基盤を整備した。…
…混合政体論は,等族国家体制の弁証にとどまらず,教会内部の公会議運動にも結びついていった。 伝統的政体論に対する正面からの挑戦はマキアベリによってなされる。彼が強力な君主の権力装置としての国家像を提示したことにより,今や,政治社会の構成員の幸福を左右する条件として,国家の存亡それ自体が問題であることが明らかとなった。…
…1502年にピエロ・ソデリーニが終身の統領(ゴンファロニエーレ)に選ばれた。第二書記官長として起用されたマキアベリは外交に活躍し,軍事制度の改革を試みたが失敗に終わった。
[斜陽の文化・経済]
1512年,教皇ユリウス2世とスペイン軍の援助を得たメディチ家が復帰した。…
…そしてフランスとの紛争に乗じてナバラを武力で征服(1512),これの自治体制を温存したままカスティリャ王権の版図に組み入れた。マキアベリから〈名声と栄光においてキリスト教国第一の王〉と評されたことは有名。【小林 一宏】。…
…目的を達成するためには非道徳的な手段をも是認する権謀術数をいう。これがマキアベリズムと呼ばれるのは,マキアベリがその著《君主論》の中でこうした主張をなしたからと考えられている。たとえば彼は,信義に厚く,気まえがよく,慈悲深いという君主のあるべき姿を認めつつ,現実にはそうした行動をとる君主は邪悪な人間が多い中では没落するであろうといい,場合によっては約束を踏みにじり,〈けち〉に徹し,冷酷であることが是非とも必要であると述べた。…
…1510年代にフィレンツェの豪族ルチェラーイ家に集った文学,学問のサークル。マキアベリがその《ティトゥス・リウィウスの最初の10巻についての論議》(いわゆる《政略論》ないし《ローマ史論》)をここで朗読した。1522年にはそのグループの一部が当時フィレンツェを支配していたジュリオ・デ・メディチ(翌年教皇クレメンス7世となる)に対するクーデタを企てて失敗した。…
…ペトラルカは共和政的自由の終焉にローマ没落の兆しをみ,フラビオ・ビオンドFlavio Biondoは没落の内因にも目を向けつつ,最終的には西ゴートによるローマ市略奪の年(彼は412年とする)から没落が始まるとした。イタリアの現状救済を第一義としてローマ盛衰原因論を考えたマキアベリは,ポリュビオスの政体循環論を継承しつつ,共和政体をよしとし,カエサル以後の独裁を堕落形態とした。 なおキリスト教的史観はルネサンス以後完全に払拭されたわけではなく,ボシュエの《万国史論》は,私利と暴力の支配などさまざまなローマ没落原因を考察しながらも,なおアウグスティヌス的摂理史観を基幹としていた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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