オランダがその植民地としていた現在のインドネシア共和国全域(旧ポルトガル領ティモールを除く)に与えていた名称(オランダ語ではNederlandsch-Indiëと書き,多くの場合〈東〉という語は入れない)。すでに18世紀ごろから,オランダ東インド会社の公式文書にこの名称が用いられているが,名実ともにインドネシア全体を含むに至ったのは1915年以後とされる。
東インドに初めて到達したオランダ船は,1596年6月,ジャワ島西部のバンテン港に停泊したコルネリス・ド・ハウトマンの船隊である。やがて東インドに来航する船は激増し,各地の航海会社間の競争を解消するために,1602年にオランダ東インド会社が設立された。バンテン王国の藩属国ジャカルタは良港であったため,イギリス,オランダ両国の争奪の的となり,イギリス・バンテン連合軍はオランダの要塞を19年に包囲したが,第4代オランダ東インド総督J.P.クーンはこれを守り通し,正式にこの地をバンテン王から譲り受けてバタビアと改称した。クーンはモルッカ諸島の香辛料貿易にも進出し,バンダ諸島の原住民を殺したり移住させたりしてニクズクの収穫をほとんど独占した。また23年のアンボン事件の結果,競争者イギリスはインドネシア進出をあきらめてインド亜大陸に関心を転じた。
中部ジャワに興ったマタラム・イスラム王国は西に勢力を伸ばし,1628-29年にかけて2度バタビアを包囲したが,ついに攻略できなかった。また西部ジャワのバンテン王国も次第にオランダの勢力に圧倒されるようになった。マタラムは46年にオランダとの間に平和条約を結び,その後77年にマタラムに王位継承戦争が起こり,オランダ東インド会社は新王の即位に助力した代償として西ジャワの地味肥沃なプリアンガン地方を獲得した。会社は次第に商業利潤から領土獲得へと方向を転じ,18世紀前半に3回起こった同国の内紛の度ごとに領土を拡張して,ついに1755年,マタラム王国をスラカルタとジョクジャカルタとに二分する調停案を示し,これを実施させてジャワ島の大半を直接支配下においた。またジャワ以外では1641年にマレー半島の良港マラッカをポルトガルから奪い,67年にマカッサル王国(ゴワ王国)との間に結んだボンガヤ条約により,インドネシア東部の海域における優位を確立した。
領土拡張と共に新しい商業用作物が相次いで導入され,なかでも1699年にジャワに移植されたコーヒー苗はバタビア周辺やプリアンガン地方で盛んに栽培された。会社は原住民首長から収穫物を買い上げる際に,一方的に価格を決めたが,義務供出制度と呼ばれるこの方式は,のちの強制栽培制度の先駆となった。コーヒーのほかに,サトウキビ,藍,茶,綿花,のちにはゴムなどが紹介された。
このような多角経営にもかかわらず,オランダ東インド会社は領土拡大による支出の激増や会社職員の不正利得などによって負債を重ね,保守派の牙城として本国の進歩派政治家の攻撃の的となっていた。フランス革命の5年後の1794年,フランス革命軍はオランダ本土を占領し,オランダは十数年間バタビア共和国となり,旧体制の象徴とも言うべきオランダ東インド会社は1799年に正式に解散した。
バタビア共和国は次第にフランスの支配下に入り,ナポレオンに心酔する軍人ダーンデルスが総督に任命され,フランス最大の敵国イギリスのインドネシア進出に備えた。イギリスはこのころマラッカを占領していたが,イギリス東インド会社職員ラッフルズは強力にジャワ進攻を提案し,ついに1811-16年ジャワを占領した。副総督に就任したラッフルズは土地制度や税制の近代化を試みたが,ナポレオン戦争の終結後ジャワはオランダに返還されることになり,復帰したオランダ植民地政庁は次第にラッフルズの近代的政策を放棄し,土着首長を利用する従来の間接統治方式に戻った。とくに30年以後は反乱の続発等により,強制栽培制度実施に踏み切った。これは政府所有地の1/5に政府が指定した商業用作物を作らせ,それを一定価格で買い取るもので,収穫物の納入やある程度の加工まで義務が課せられたため,農民は自分達の食糧を生産する余裕がなく,43年から48年にかけて飢饉が連発した。オランダはこれによって8億2300万ギルダーの利益を上げ,財政危機を乗り切ったと伝えられる。この制度はオランダの人道主義者たちの非難を受け,コーヒーを除いて70年に廃止された。
オランダの支配に対する原住民の抵抗は各地で頻発し,強制栽培制度実施以前にも1825-30年,ジョクジャカルタ王族の一人ディポネゴロの指導する反乱が起こり,また西スマトラでは同じころイマーム・ボンジョールの率いるミナンカバウ・イスラム教徒の反乱(パドリ戦争)があり,37年にようやく鎮圧された。さらに73年から1912年にかけて,スマトラ北端のアチェ王国に起こったアチェ戦争はオランダ軍多数の投入を必要とし,東インド最大の戦争と言われた。この戦争を境にオランダはジャワ以外のいわゆる外領への実質的支配の浸透に心がけるようになり,農業のみならず鉱産物の開発等にも力を注いだ。このような動きは何よりもイギリスのマレー半島およびボルネオ島北部への急速な進出に刺激されたためで,最後の自治領であったシンガポール南方海上のイスラム王国リアウも1911年にオランダ領となった。ただし,最東部に位置するニューギニア島への進出はかなり遅く,1884年以後一連の条約で東経141°以西がオランダ領と確定したものの,内陸部への進出はあまり行われなかった。
太平洋戦争中,1942年3月に日本軍はインドネシアに進攻し,オランダ軍は無条件降伏をしてオランダ領東インドはいったん消滅した。戦後にオランダは植民地回復を意図したが,インドネシア共和国の激しい抵抗にあい,49年のハーグ協定の結果,インドネシア連邦共和国への主権委譲が決定され,オランダ領東インドの歴史は終わった。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1619年バタヴィア(ジャカルタ)に拠点を構えたオランダが徐々に勢力を拡大し,1942年3月に日本軍の占領を受けるまで領有した,今日のインドネシアの領域の植民地時代の呼称。オランダは1670年代にはインドネシアの海域世界で優位を確立。また同じ頃マタラム王国の内紛や18世紀には同王家の王位継承に介入し,ジャワに領土を獲得し始める。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の影響で19世紀初めにイギリスがオランダ領の東インドを一時期占領するが,1824年のイギリス‐オランダ協定によりマラッカ海峡を挟んで,イギリス側とオランダ側との勢力圏が画定される。その後オランダが植民地支配を強化すると,在来勢力の抵抗を受け,ジャワ戦争やミナンカバウでのパドリ戦争,バリ戦争,バンジャルマシン戦争,アチェ戦争などが生じた。こうした抵抗勢力を排したのち,1910年代にはオランダ領東インドの領域が完成した。
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