日本大百科全書(ニッポニカ) 「ンドゥール」の意味・わかりやすい解説
ンドゥール
んどぅーる
Youssou N'dour
(1959― )
セネガルの歌手。ダカール生まれ。最も有名なアフリカのミュージシャンの一人である。印象的な歌声と明るくバイタリティーに溢れ、また真摯な姿勢で、静謐で祈るかのようなスピリチュアルな曲から多数のパーカッションが前のめりなリズムを打ち鳴らすダンス曲までを歌う。
セネガルは1960年にいったんマリと連邦を形成して独立した後、同年のうちにセネガルとして独立した。独立の前年に生まれたンドゥールが成長して目指したのは、自国の音楽の刷新だった。1950、60年代のマリではキューバ音楽が席巻していた。もともと、アフロ・キューバン音楽の起源の一つが西アフリカで、40年代に船乗りがキューバ音楽をダカールにもち込んだこと、59年のキューバ革命をはじめとした社会主義と第三世界主義の影響などが、その理由として考えられる。ンドゥールはキューバ音楽に対し「リズム的には合わすことはできるのだが、ハーモニー的には外来のものであり、もちろん言葉の問題もあった」と述べている。キューバ音楽はスペイン語で歌われたが、ンドゥールは日常言語であるウォロフ語で歌いたかったのである。セネガルの公用語はフランス語だが、植民地主義以降、宗主国の言語が公けに用いられる一方で、日常的に話されている言語のなかではウォロフ語が勢力をもっていた。ンドゥールらが演奏する現代セネガルのポピュラー・ミュージックは「ンバラ」と呼ばれ、これはウォロフ語で「ンバラ・ンバラ」というドラムを意味する言葉が転化して「ドラムのリズム」の意となったものである。
ンドゥールはさらにンバラの刷新を目指した。ダカールを拠点にスーパー・エトワール・ド・ダカールというバンドで歌い、一気にスター歌手になる。83年には初めてヨーロッパでコンサートを行い世界的に注目される。以後、セネガル盤と世界発売の盤ではサウンドを使い分け、『イミグレ』Immigrés(1984)、『セット』Set(1990)、『アイズ・オープン』Eyes Open(1992)、『ザ・ガイド』(1994)などを発表していく。後にンドゥールを支えることになるフランス人キーボード奏者ジャン・フィリップ・リキエルJean Phlippe Rykiel(1961― 。デザイナーのソニア・リキエルSonia Rykiel(1930― )の息子)、イギリス人ミュージシャンで世界中の音楽を紹介してきたピーター・ゲイブリエルPeter Gabriel(1950― )、大ヒット曲「7セカンド」(1994)でデュエットしたネナ・チェリーNeneh Cherry(1964― 。ジャズ・ミュージシャン、ドン・チェリーの娘)、ジャズ・サックス奏者ブランフォード・マルサリスBranford Marsalis(1960― )など多くの人たちと出会い、ンドゥールはみずからの音楽世界を広げていった。歌詞のテーマも環境問題などを扱い、人権団体アムネスティ・インターナショナルのイベントに参加するなど、オピニオン・リーダー的な役割も果たしている。
またアルバム『ナッシングス・イン・ヴェイン』(2002)のゲストに同郷の大先輩ドゥドゥ・ニジャエ・ローズDoudou N'Daiye Roseを招いたり、ンドゥール以前のセネガルの人気バンド、オーケストラ・バオバブの『スペシャリスト・イン・オール・スタイルズ』Specialist in All Styles(2002)をプロデュースしたりとセネガル音楽をあらためて世に出そうとしている。ローズは、セネガル独立時から80年まで大統領を務めたサンゴールのもとで、文化大使的な役割を任されてきたパーカッション奏者。サンゴールは、1930年代パリで起こった「ネグリチュード(黒人詩)」運動の提唱者でもある。
ンドゥールの80年代セネガルでの疾走感に溢れた爆発的なサウンドを収めた現地テープは入手困難だが、そのころの作品を集めたCDに『イネディッツ84-85』Inedits 84-85(1997)、『ベスト・オブ・ジ・エイティーズ』Best of the 80's(1998)がある。
[東 琢磨]
『ルイ=ジャン・カルヴェ著、林正寛訳『超民族語』(文庫クセジュ)』▽『Timothy D. TaylorGlobal Pop ; World Music, World Markets(1997, Routledge, New York)』▽『Simon Broughton, Mark Ellington, Richard TrilloWorld Music Vol.1; Africa, Europe and the Middle East(1999, The Rough Guides, London)』