ポピュラー音楽(読み)ポピュラーオンガク(その他表記)popular music

デジタル大辞泉 「ポピュラー音楽」の意味・読み・例文・類語

ポピュラー‐おんがく【ポピュラー音楽】

ポピュラーミュージック

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ポピュラー音楽」の意味・わかりやすい解説

ポピュラー音楽 (ポピュラーおんがく)
popular music

大衆音楽もしくは通俗音楽を指す。欧米でも日本でも,音楽をクラシック(芸術音楽,シリアス・ミュージック)とポピュラーに二分したり,クラシックとポピュラーと民俗音楽に三分したりするのは広く行われている。クラシックが,規模が大きく変化に富んだ劇的な表現様式を備え,高度な精神性を内包するものと見られているのに対し,ポピュラーは,民衆の日常生活の中にある喜怒哀楽を直截に表現する娯楽性の強い音楽であり,ダンス音楽としての実用性を備えるなど,その享受のされ方も日常生活の中に深く溶け込んでいる。さらに,楽譜に固定された作曲家の作品としての完結性を強くもつクラシックが,永久不変の芸術的価値の追求に重きを置くのに対し,ポピュラー音楽は作り手と聴衆が同時代に生き,同じ社会意識を共有しているのが原則で,それはポピュラー音楽が一般にレコードカセットテープなどの形で商品化され,ある程度まで〈売れる〉ことを前提として成立している社会・経済的側面とも関連する。ヨーロッパ諸国で資本主義社会の形成と同時に発生した上層中産階級が,既存の貴族階級とともに,エリート文化としてのクラシックの担い手となったが,一方,ポピュラー音楽は労働者層に親しまれ,20世紀半ばの大量生産・大量消費の経済形態とマス・メディアの形成が可能にした大衆社会の中で,映画,プロスポーツ,通俗読み物,テレビドラマなどと並んで大衆文化の一環を成している。

ポピュラー音楽は,その本質からして当然のことであるが,先進資本主義国におけるものと旧植民地諸国におけるものとでは,あらゆる点で大いに様相を異にする。《音楽と中産階級Music and the Middle Class》(1975)の著者ウェーバーWilliam Weberによれば,ロンドン,パリ,ウィーンにおいて,18世紀後半にエリート家庭内で音楽会が催されることが多くなり,1830年代から40年代には公開の演奏会が急増し,70年にかけて近代的興行形態による演奏会が確立する。つまりこの時期に,クラシック音楽の聴衆層が形成される。一方,19世紀後半から20世紀初期にかけて,資本主義の成熟に伴って労働者の生活が安定度を増し,余暇を娯楽に費やす時間的・経済的余裕が生じたのに対応して,民俗音楽から変化したワルツ,ワンステップなどの社交ダンスの音楽が,ギターやアコーディオンを含むバンドで演奏されるようになる。またパリやベルリンキャバレー,カフェ,レビュー小屋などではシャンソンが盛んに歌われ,ロンドンではミュージック・ホールで寸劇や踊りとともに多くの歌手たちが人気を集め(1868年にイギリスには500を超えるミュージック・ホールがあった),アメリカでは1880~90年代から,楽譜出版業者たちが流行歌を作り出すための宣伝合戦を展開することが盛んになった。

先進資本主義諸国の都市大衆文化としてのポピュラー音楽は,初期のシャンソンやアメリカのフォスターの作品に見られるように,クラシック歌曲の通俗版としての性格をもち,歌い手も美しい声ではっきりと歌うのが普通だった。それに対し,まったく別の価値観に立ったポピュラー音楽が,その頃すでにいくつかの旧植民地国で生まれていた。しかもそれらのほとんどが,アフリカから新大陸に奴隷として連れて来られた人たちの子孫である黒人の音楽と,新大陸に伝えられたヨーロッパ系の音楽との融合によって生み出されたものであり,安定した労働者層ではない船乗りや日雇労働者,賭博師,売春婦といったいわゆるルンペン・プロレタリアート層がその担い手であった。植民地においても,農村部ではヨーロッパの民俗音楽が,都市中心部の中産階級にはヨーロッパのポピュラー音楽やクラシックがそのまま移入されたのに対し,植民地での都市の発展の中で形成された周辺部スラム地区の底辺層こそ,文化融合と新しい大衆文化創造の担い手であった。彼らの美意識はクラシックとはまったく規準が異なり,基本的にリズムの肉体性を重視し,歌手の声や楽器の音もわざと濁った音色を好むといった傾向をもち,また楽譜どおりに演奏するのでなく,なんらかの即興性を含む場合が多い。こうした音楽は,その地域のエリート層からは下級な音楽として蔑視され,20世紀に入って以後,ヨーロッパの民衆によって価値が見いだされて,世界的な流行音楽となっていった例が多い。

 植民地のポピュラー音楽の最も早い例は,スリランカインドネシアに見いだされる。16世紀初頭にポルトガルの軍隊が南アジアに侵入したあと,彼らの音楽と現地の音楽との接触によって,少なくとも現在知られているところではスリランカでカフリンナkaffrinnaとバイラbaira,インドネシアでクロンチョンという混血音楽が生まれ,いずれも今日まで大衆に愛好され続けている。スリランカの例では,ポルトガル兵の中にモザンビークで徴発されたアフリカ人が含まれていたため,カフリンナとバイラにはアフリカ音楽の要素も混入していたと報告されているが,インドネシアのクロンチョンの場合はその点は明らかではない。しかし今日,レコード化されたもので判断する限り,同じポルトガルの音楽が,19世紀にブラジルでアフリカの音楽との接触から生み出された混血音楽と類似する点が認められるので,クロンチョンにもアフリカ音楽の要素が入り込んでいる可能性は否定できない。

 ラテン・アメリカの黒人居住地域である西インド諸島,ブラジルなどは,スペイン,ポルトガルの音楽とアフリカ音楽との混血による植民地型ポピュラー音楽の宝庫といえる。ブラジルでは18世紀にルンドゥーlundúという踊りの音楽が成立し,最初は野卑なものとして上・中流階層の非難を浴びたが,やがて洗練されて都会的な歌謡形式へと変容した。このルンドゥーはブラジルより前にペルーヘ,アフリカから奴隷によって伝えられたものだとする説もある。キューバでは1800年ごろにハバネラhabanera(発音はアバネーラ)が生まれ,19世紀中葉にヨーロッパにも伝えられた。ルンドゥーもハバネラも付点8分音符と16分音符を組み合わせた軽く跳ねるリズム感をもち,ポルトガルもしくはスペインの音楽にアフリカ的リズム感を加味したものと考えられるが,これがその後のラテン・アメリカの音楽の基調となったといってよく,19世紀半ばにブラジルで生まれた器楽の音楽ショーロも,19世紀末にアルゼンチンのブエノス・アイレスで生まれた踊りの音楽タンゴも,このリズムがもとになっている。また,有名なアメリカのポピュラー・ソング《セント・ルイス・ブルース》の一部にもこのリズムが使われている。1930年代以降に一世を風靡したキューバのルンバ,ブラジルのサンバといったダンス音楽も,このリズムが発展したものといえる。

アメリカがポピュラー音楽の一つの中心地であることは広く認められているとおりだが,この国はかつて南部に多数の黒人奴隷を抱えていた特殊事情により,先進国型と植民地型の両方のポピュラー音楽をもつこととなる。前者は,ニューヨークの音楽業界が資本主義的生産様式に従って作り出すポピュラー・ソングブロードウェーミュージカルミュージカル),つまりアメリカでよく使われる言葉でいえば〈メーンストリーム(主流)〉音楽であり,後者は,ローカルなセミプロ的ミュージシャンが民族的基盤から生み出したブルース,ラグタイム,ジャズ,リズム・アンド・ブルース,ロックンロールなどである。上記の2種は,白人系音楽と黒人系音楽にそれぞれ当てはまるものではない。メーンストリーム音楽で活躍した黒人歌手もいるし,白人が担い手でありながら,カントリー・ミュージックはローカルな下層大衆の音楽であった。そして,本来はサブカルチャーとして作り出されたジャズやロックンロールが,次々に音楽業界の生産様式の中に組み込まれてメーンカルチャー化してゆく,というのがアメリカのポピュラー音楽に典型的な図式であるが,アメリカが世界資本主義の覇者となった第1次世界大戦以後,この図式はアメリカ国内だけでなく国際的な規模で適用されることとなる。すなわち,アメリカのメーンストリーム音楽のエネルギー枯渇による音楽産業の停滞を打破するために,世界の植民地型ポピュラー音楽のうちのどれかを拾い上げて商業主義路線に乗せ,アメリカ国内をはじめ,成熟した音楽産業をもつ先進資本主義諸国(それらの国々の音楽資本は国際的に系列化されている)で流行させ,レコードを売る,という方式である。

 アメリカ国内の音楽の動きをもう少し具体的にたどってみよう。フォスターの時期,すなわち19世紀中葉にすでに幅広い活動を行っていた楽譜出版業界は,先述のように1880~90年代に音楽の商品化のシステムを確立する。これは,業者が作詞家に具体的な詞の内容にまで注文をつけて作詞させ,作曲家にも細かい指示のもとに作曲させて,その曲を楽譜に印刷して販売し,曲が話題になるように宣伝マンに店先などで歌わせ,その曲が人々に広く歌われれば楽譜が売れて商業的に成功する,というわけだが,最初から流行しそうな曲を作詞家,作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と,それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントとなる。プロモーションのためその曲を人気芸人に歌ってもらい,それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラpayola〉と呼ぶ。こうした手口によって1880~90年代に商業活動の基盤を確立したアメリカの楽譜出版業界を〈ティン・パン・アリーTin Pan Alley〉と称するが,メーンストリーム音楽はすなわちティン・パン・アリーによって生産される音楽であり,彼らの確立した生産・販売システムは,その後レコード業界にも踏襲されてゆく。

 一方,1863年の奴隷解放後,アメリカ南部では黒人たちの音楽活動が活発となり,ブルース,ラグタイム,ジャズなどが,19世紀の終りころ相次いで生み出された。いずれも黒人が白人から学び取った音楽技法や楽器を,彼ら独自の感覚に消化して生み出した混血音楽であるが,とくに黒人底辺層の民族音楽の要素を強くもったブルースが,その後も黒人の生活感覚に密着しつづけていったのに対し,ヨーロッパ的な音楽要素を多分に取り入れたラグタイムとジャズは,ただちにメーンストリーム音楽との接触が生じて,ティン・パン・アリーから,例えば1911年にバーリン作の《アレクサンダーズ・ラグタイム・バンドAlexander's Ragtime Band》といった大ヒット曲が生み出される一方で,ジャズでもティン・パン・アリー製の曲を素材として盛んに取り上げた。1930年代初めには,ジャズの感覚を吸収した歌手B.クロスビーが,メーンストリーム音楽で最高の人気を占め,ポピュラー・シンガーがジャズ風の楽団を伴奏にして歌うのはごくありふれたこととなり,社交ダンスの音楽にもジャズの要素が大幅に取り入れられた。

 それとともに,1910年代にはハワイ音楽やアルゼンチンのタンゴ,30年代にはキューバのルンバとコンガ,40年代にはメキシコやブラジルのいくつかの曲,50年代にはキューバのマンボが輸入され,音楽業界だけでなくハリウッドの映画産業をも含めて,アメリカの大衆文化に刺激を与えた。

第1次世界大戦と第2次世界大戦にはさまれた時期は,1930年代初頭の大不況による落込みはあったにせよ,アメリカの音楽業界が最も順調に進展した,メーンストリーム音楽の黄金時代であった。1910年代にレコード,20年代にラジオ,映画といった新しいマス・メディアが国民の間に定着したことにも助けられ,ポピュラー音楽は大衆文化の中で確固とした位置を占めた。しかし大衆の興味をつねに引きつけておくためには,ティン・パン・アリー流の,プロダクションとプロモーションの手腕をもってしても限界があり,例えば1930年にキューバから伝えられた《南京豆売りEl Manicero(The Peanut Vendor)》がヒットしてルンバ・ブームが突如巻き起こるなど,植民地型のポピュラー音楽が国外から入ってきて人気を奪い,音楽産業がそれを追いかけるといった現象もしばしばであった。それがさらに大きな形で起こり,音楽産業のあり方が根本からゆさぶられることになったのは,第2次世界大戦直後である。

 第2次大戦の直後は,アメリカ大衆の価値観に大きな変化が生じた時期であったが,ポピュラー音楽もその例外ではなく,黒人がブルースをもとに作り出した新しい音楽リズム・アンド・ブルースを,白人の若者までも熱狂して聞きあるいは踊るという現象が起き,そこから,リズム・アンド・ブルースの白人版であるロックンロールが1950年代の中ごろ生み出された。音楽産業もただちにこの新しい音楽を取り込んでゆき,ロックンロールはアメリカの新しいメーンストリームとなったが,ティン・パン・アリーの旧来のやり方がなんとか通用したのはこの時期までであった。ロックンロールが普及する過程で,ティン・パン・アリーを象徴する用語であるペイオーラに関して,1959年と60年に下院の委員会で聴聞会が開かれ,ラジオのディスク・ジョッキーとレコード会社との癒着が国民の目にさらされるという事件が起こったが,これは旧来の音楽業界のやり方に終止符を打つできごとであった。メディアはLPレコード,テレビ,FMラジオに切り替わり,音楽産業は多国籍複合企業体の支配下に置かれ,新しい情報産業の一環として,ペイオーラといった姑息な手段でなく,もっと大がかりで巧妙な大衆の意識操作による大量販売方式へと進んできている。

 こうした音楽業界の内情とは裏腹に,1960年代のフォーク・ソングと新しいロックの台頭以後,ボブ・ディランビートルズに代表されるスーパースターたちは,音楽産業によって作り出されたというよりも,自分自身の音楽的姿勢のもとに自身が作詞・作曲し,手づくりでサウンドを発展させてきた。まして70年代にカリブ海の小さな黒人国ジャマイカで起こったレゲエ,80年代にアフリカのナイジェリアやザイール(現,コンゴ民主共和国)から世界に飛び出してきたアフロ・ミュージックなどは,巨大音楽産業の関知せぬところからこそ,真にインパクトのあるポピュラー音楽が生まれてくるということを示す。この傾向は今後も続くものと思われ,インドネシアなどアジアからも新しいポピュラー音楽が起こりつつある。他方,アメリカ国内の黒人音楽は,1960年代のソウル・ミュージック,70年代のフュージョン(商業化したジャズ)とディスコ・ミュージック(商業化したロックとソウル),80年代のマイケル・ジャクソンなど黒人による新種の商業主義音楽など,高度音楽産業による大量消費商品と化してしまった。

 このようにポピュラー音楽は,基本的に資本主義経済のもとでの商品としての側面と,下層大衆の意識の表現様式としての側面との二重の性格を有し,資本主義の矛盾の増大とともにこの二つの面の間の矛盾も大きくなり,今後の動きは予測できないほど混沌としているのが現状だといえる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポピュラー音楽」の意味・わかりやすい解説

ポピュラー音楽
ポピュラーおんがく
popular music

大衆に親しまれている音楽。民俗音楽と芸術音楽の中間の広い領域にわたる。ローマ時代にすでにギリシアの吟遊楽人や,シリアの踊り子,黒人の音楽家によるものや,劇場のヒット・ソングが流行したことがあり,中世にはヨーロッパ各地の吟遊楽人によって広められた。ドイツではギルドの集会所でのしろうとによる演奏などに用いられたが,19世紀以降,大都市の出現によりミュージック・ホールや軽演劇場とともに発展した。

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世界大百科事典(旧版)内のポピュラー音楽の言及

【軽音楽】より

…本来はクラシック音楽の中の通俗的な小品を指す〈セミ・クラシック〉とほぼ同義語であったが,日本では,クラシック以外の大衆音楽を指す言葉として1935年ごろから使われるようになった。しかし戦後は,NHK内部などごく一部を除いては使われなくなり,現在では〈ポピュラー音楽〉という語がそれに代わっている。【中村 とうよう】。…

【民謡】より

…ヨーロッパやアメリカ,カナダで,民謡や民俗音楽という言葉がよく使われているのは,こうした社会層の違いによる複数の音楽ジャンルがあって,それらを区別するのに便利だからである。とくに北アメリカでは芸術音楽と民俗音楽の区別だけでなく,都市と大衆とマス・メディアに結びついたポピュラー音楽,それにアメリカ・インディアンに代表される小規模の民族のもつ部族音楽tribal musicの間の区別も用いる必要が出てきている。しかし,この種の社会層の区別がなかったり,あるいは,区別はあっても,それぞれが固有の音楽ジャンルをもたない場合には,その文化に対して民俗音楽という用語を適用することは無意味である。…

※「ポピュラー音楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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