アイアトン
あいあとん
Henry Ireton
(1611―1651)
イギリス、ピューリタン革命期の独立派指導者。ノッティンガムシャーのピューリタンの家庭に生まれる。内戦の開始と同時に議会軍に参加してオリバー・クロムウェルの信任を得、1646年彼の女婿となった。第一次内戦終了後は国王、長老派、レベラーズ(水平派)三者の間にたって、クロムウェルにかわり軍の政治的立場を代弁した。政治的改革案「人民協定」を提出した急進派レベラーズとの間で国制の基本的問題に関して行った1647年の「パトニー討論」Putney Debateはとくに有名である。その後もクロムウェルとともにアイルランド遠征に参加し、1650年にクロムウェルが帰国した後はその代理を務めるなど活躍したが、翌1651年に病没した。(書籍版 1984年)
[小泉 徹]
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アイアトン
Ireton, Henry
[生]1611. ノッティンガムシャー,アッテンバラ
[没]1651.11.26. リマリック
イギリス,清教徒革命期の軍人,政治家。議会軍に参加し,O.クロムウェルの部将として各地を転戦して武功をあげ,1646年その娘ブリジットと結婚。独立派のスポークスマンとなり,一方では長老派に,他方では平等派に対抗して,クロムウェル体制の確立に努めた。アイルランド遠征中に病死。
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アイアトン【Henry Ireton】
1611‐51
イギリス,ピューリタン革命期の軍人,政治家。オックスフォードと法学院に学び,1642年内乱勃発とともに議会軍に参加。O.クロムウェルを支持して独立派の理論的スポークスマンとして,対国王交渉,47年秋のレベラーズ(平等派)との〈パトニ討論〉で活躍した。46年クロムウェルの娘ブリジットと結婚。48年暮れからの国王裁判に裁判官として出席し,その死刑判決書に署名した。翌年クロムウェルのアイルランド征服に同道し,代理として現地に残り病没した。
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世界大百科事典内のアイアトンの言及
【晒首】より
…〈もの〉によるコミュニケーションである。1660年,ピューリタン革命のあと王政復古したイギリスのチャールズ2世が,父チャールズ1世処刑の責任者として,すでに死んでいるクロムウェル,アイアトンらの墓をあばき,首を矛(ほこ)に刺して晒したことは,すでに死んでいる者の首に意味をこめておりその典型である。 日本の近世には,晒首は中国にならって梟首(きようしゆ)とよばれ,また梟首した首を獄舎の門に懸けたので獄門ともよばれた。…
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