アイアトン
あいあとん
Henry Ireton
(1611―1651)
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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アイアトン
Henry Ireton
生没年:1611-51
イギリス,ピューリタン革命期の軍人,政治家。オックスフォードと法学院に学び,1642年内乱勃発とともに議会軍に参加。O.クロムウェルを支持して独立派の理論的スポークスマンとして,対国王交渉,47年秋のレベラーズ(平等派)との〈パトニ討論〉で活躍した。46年クロムウェルの娘ブリジットと結婚。48年暮れからの国王裁判に裁判官として出席し,その死刑判決書に署名した。翌年クロムウェルのアイルランド征服に同道し,代理として現地に残り病没した。
執筆者:今井 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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アイアトン
英国,ピューリタン革命期の軍人。オックスフォード大学と法学院に学び,革命の勃発とともに議会派に参加。オリバー・クロムウェルを支持して,1646年彼の娘のブリジットと結婚。独立派の理論的なスポークスマンとして〈パトニ討論〉においてレベラーズ(平等派)の人民主権論に対抗して活躍した。国王処刑に賛成し,その死刑判決文に署名した国王弑逆者のひとり。共和政の成立後,クロムウェルのアイルランド遠征に加わり,彼の帰国後アイルランド副総督となって現地に留まったが,疫病にかかって死去。
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アイアトン
Ireton, Henry
[生]1611. ノッティンガムシャー,アッテンバラ
[没]1651.11.26. リマリック
イギリス,清教徒革命期の軍人,政治家。議会軍に参加し,O.クロムウェルの部将として各地を転戦して武功をあげ,1646年その娘ブリジットと結婚。独立派のスポークスマンとなり,一方では長老派に,他方では平等派に対抗して,クロムウェル体制の確立に努めた。アイルランド遠征中に病死。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のアイアトンの言及
【晒首】より
…〈もの〉によるコミュニケーションである。1660年,ピューリタン革命のあと王政復古したイギリスのチャールズ2世が,父チャールズ1世処刑の責任者として,すでに死んでいるクロムウェル,アイアトンらの墓をあばき,首を矛(ほこ)に刺して晒したことは,すでに死んでいる者の首に意味をこめておりその典型である。 日本の近世には,晒首は中国にならって梟首(きようしゆ)とよばれ,また梟首した首を獄舎の門に懸けたので獄門ともよばれた。…
※「アイアトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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