アサド(英語表記)Assad, Hafez al-

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アサド
Assad, Hafez al-

[生]1930.10.6. カルダハ
[没]2000.6.10. ダマスカス
シリアの軍人,政治家。 1966年2月のクーデターでバース党左派が権力を掌握した際,国防相兼空軍司令官となり,次第にバース党内で勢力を強めて 70年 11月には無血クーデターで首相に就任。 71年2月の憲法改正により,71年3月大統領 (任期7年) に選ばれ,5月バース党書記長にも就任。 78年,85年,91年と大統領に4選され,軍最高司令官,バース党書記長,与党連合である民族進歩戦線の議長を兼務。イスラム教アラウィ派に属しているため,多数派のスンニー派から不満がくすぶり,78年から 82年にかけてムスリム同胞団の大規模な反政府暴動が起ったが,アサド政権はこれを徹底的に弾圧。 83年 11月には病気のため数ヵ月政務を離れたが,その後健康を回復。イラン=イラク戦争ではイランを支援,湾岸戦争ではアメリカ軍主導の多国籍軍に加わって西側への接近をはかり,中東和平や対イラク外交でも手腕を発揮した。

アサド
Assad, Bashar al-

[生]1965.9.11. ダマスカス
シリアの政治家。大統領(2000~ )。父で大統領のハフェズ・アル・アサドのあとを継いで大統領に就任した。ダマスカス大学で医学を学び,1988年に一般医の課程を卒業。その後ダマスカスの軍病院で眼科医になる研修を受け,1992年にイギリスのロンドンに渡った。1994年,父の後継者に指名されていた兄のバジルが交通事故で死亡したため,兄の代わりを務めるべく帰国。2000年6月10日に父が死亡すると,6月18日に与党バース党の総書記に任命され,2日後には党会議で大統領候補に指名された。国会がこれを承認し同 2000年7月10日,対立候補なしで大統領(任期 7年)に選出された。2005年初頭にレバノンのラフィク・アル・ハリリ前首相が暗殺されたあと,欧米とアラブ諸国からの圧力を受け,1976年以来レバノンに駐留していたシリア軍と諜報機関の撤退を約束した。国際連合の調査委員会による捜査の結果,シリアがハリリ暗殺になんらかの関与をした疑いがもたれたが,アサド政権の関与を裏づける確定的な証拠は示されていない。2007年,大統領に再選された。

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知恵蔵の解説

アサド

アラブ統一を目指すバース党の指導者で、シリア・アラブ共和国の現大統領。前大統領で30余年独裁体制を敷いた父ハーフェズ・アサドの跡を継ぎ、2000年に第16代大統領に就任した。07年に再選される。眼科医の資格を持ち、IT(情報技術)にも強く、英語、フランス語も堪能。
1965年9月11日、首都ダマスカス生まれ。シリアでは少数派のイスラム教アラウィー派(シーア派)に属している。ダマスカス大学医学部を卒業後、軍事病院で兵役(軍医)を務め、92年、ロンドン大学に留学した。専攻は眼科。94年、後継と目されていた兄バーシルが交通事故で急逝すると、帰国を余儀なくされた。温和な性格で、政治には無関心とみられていたが、帰国後は父ハーフェズの意向を受け、帝王学を学ぶことになる。士官学校、高等軍事アカデミーで軍籍を上げ、99年には大佐に昇任した。
2000年6月、父ハーフェズが死去すると国軍総司令官に任命され、翌7月には、ハーフェズの実弟で後継候補リファートを退けて、34歳の若さで大統領に就任した。それまでシリアの憲法は大統領の条件を40歳以上と規定していたが、人民議会がこれを改正し、34歳以上に引き下げたという経緯がある。
就任直後は、約600人の政治犯を釈放し、情報治安当局(ムハバラート)による市民の監視を緩和するなど、強権支配を改める姿勢を国民に示した。しかし、バース党による一党支配体制を改めることなく、枢要なポストには一族や学友、アラウィー派を就けた。その一方で、大統領就任の翌年に結婚したアスマ・アッハラスはスンニ派であり、その後、国防大臣にキリスト教徒のラジハ氏(12年自爆テロで死亡)を指名するなど、アラウィー派にこだわらない柔軟性を備えているという見方もある。
05年からは、市場開放を軸とした経済改革を進め、石油依存からの脱却を図った。しかし、もう一つの主要産業である農業が、07年から4年連続の天候不順で低迷し、また、9・11同時多発テロ以来、悪化している欧米諸国との関係も改善されず、国内経済は逼迫(ひっぱく)の一途をたどった。
そんな中、10年末からチュニジア、エジプトで起こった民主化の動き(アラブの春)が、シリアにも波及。11年3月に民衆の反政府デモが起こると、アサド政権は治安当局による監視体制を強化させ、武力による弾圧へと転じた。これに周辺諸国からの武器供与を受けた反体制派組織が抗戦し、内戦状態に突入した。国際社会は平和的政権移譲による解決を打診しているが、アサド政権は応じることなく、政府軍による武力攻撃を強化させている。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2012年)

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百科事典マイペディアの解説

アサド

シリアの政治家。現大統領。ダマスカスでハーフィーズ・アル=アサド(1930〜2000)の次男として生まれる。父は1970年,クーデターでシリアのバース党一党独裁政権を樹立し2000年の死まで30年にわたって独裁者の座を保持した人物である。ダマスカス大学医学部を卒業後,軍医として勤務(眼科医),1992年イギリス留学,ロンドンの病院で研修医として働く。帰国後,1994年,軍事アカデミー参謀コースに進み,1999年参謀本部付大佐。2000年父の死去を受けて,陸軍大将に昇進,軍最高司令官,バース党書記長に就任。国民投票による信任によって大統領職を継承した。夫人はイギリス育ちのシリア人,ロンドン大学卒業後世界的な投資銀行で働いた経験のあるキャリアウーマン。2011年2月,中東諸国で民主化要求運動(アラブの春)が拡大するなか,シリアでも民主化を求める市民デモが全土に拡大。アサドは,同年4月,約50年続いた非常戒厳令を撤廃する大統領令を出す一方,市民に対しても無差別発砲や戦車の投入など武力で鎮圧する方針をとり,反政府勢力も武力闘争を開始,事態は大規模な内戦に発展した。アサドは一方では憲法改正を含む野党との対話の意向を表明しながら,他方では徹底鎮圧の手をゆるめず,トルコなど近隣諸国への難民が相次いだ。反アサドグループはトルコのイスタンブールで国民評議会を結成,国連安保理のアサド政権への非難決議はシリアに権益を持つロシアと中国が拒否権を行使し,否決された。2012年,内戦は激化の一途をたどり,国際社会もアサド辞任に圧力をかけたが,反アサドの国民評議会とシリア軍からの脱走兵を中心とする自由シリア軍の関係も一体と言えず,反体制側の政権担当能力を疑問視する見方も国際的に根強く存在した。アサドは中国・ロシアを国際的な後ろ盾として,強固な支持勢力と軍の支持を基礎に指導力を維持,反政府軍の攻勢を押さえ込み。内戦は一進一退の状況が続いた。2013年1月,反政府軍が北部の最大の空軍基地を制圧,アサド政権への圧力は強まったが,アサドは3月,十数年続いている非常事態宣言の撤廃を表明,国民との協調をはかる改革計画を打ち出し,政権を持ちこたえた。2013年4月アサド政権がサリンなど化学兵器を使用しているという疑惑が指摘された。化学兵器の使用は米国の対応を一気に軍事介入に変えさせる可能性がある一方,反政府軍にはアル・カーイダ系イスラム武装勢力も加わっており,アサド政権は反政府勢力が化学兵器を使用したと主張。国連人権委員会の調査は,シリア政府により化学兵器を用いた根拠が発見されず,反政府勢力が使用した可能性が高いと発表。ロシアはシリアが化学兵器禁止条約に加入することを要請。アサドはこれに応じる姿勢を明らかにし,化学兵器禁止条約への加入を表明,シリアの化学兵器廃棄に向けて米ロが合意し,アメリカ,フランスなどによるシリア攻撃を回避させることに成功した。アサドはロシア・中国と西欧諸国の国際的対抗関係を巧みに利用して独裁体制を確保し,2014年6月には内戦下で大統領選挙を実施,実際は政府軍制圧下の地域のみでの投票といわれるが,圧倒的支持率で3選され,国内支持が依然衰えていないことを誇示した。その間も内戦は続き,反政府側ではイスラム過激派組織ISが急速に力を持ち支配地域を拡大,他の反アサド組織との戦闘も起こった。イラク・シリアに勢力を広げたISは〈イラク・レバントのイスラム国〉という〈カリフ制国家〉の建国を宣言,ISは中東のみならず国際社会全体の脅威となり,アメリカをはじめとする有志連合はシリアのISの拠点にも空爆を開始した。アサドは対ISでこれまで敵対してきた諸国とも連携する動きを見せている。

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世界大百科事典 第2版の解説

アサド【asado】

スペイン語で焼肉一般を指すが,南アメリカのアルゼンチン,ウルグアイではとくに牛肉の焼肉を意味することが多い。パンパでは16世紀末からガウチョが野生牛を捕獲して牛皮を売ることを生業としたが,彼らは屠殺した牛の肉を野原で焼き,食用としたことからアサドの習慣が生まれた。今日でも休日になると郊外でアサドを楽しむ家族づれが多く見受けられ,両国の名物料理となっている。【松下 洋】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アサド
あさど
fi al-Asad
(1928―2000)

シリアの軍人、政治家。ラタキアの貧家に生まれる。アラウィー教徒。1955年ホムスの陸軍士官学校を卒業。のち当時のソ連で軍事訓練を受ける。アラブ連合共和国時代にエジプトでオムラーンMuammad Omranやジャディードa-l Jaddらとともに秘密結社「軍事委員会」を設立した。これはのちにバース党の核となり、1963年に同党が政権をとるや事実上の支配グループとなった。1964年空軍司令官、1966年2月のクーデター後は国防相も兼ねる。1969~1970年の権力闘争でジャディード派を追放しシリアの実権を掌握、首相兼国防相となる。1971年3月大統領に就任。1999年2月には5選を果たした。当初はバース党本来のアラブの統一を第一義とし、これを阻止するあらゆる勢力、とくにシオニズムと闘う姿勢を堅持してきた。しかし、エジプト、パレスチナ解放機構(PLO)、ヨルダンが和解・妥協へと転換したため、現実的な対応を迫られ、対イスラエル和平交渉や対米関係改善に本格的に取り組むようになった。1990年イラクによるクウェート侵攻時には、多国籍軍に参加。1998年4月エジプトの大統領ムバラクと会談、イスラエル軍のレバノン南部からの無条件撤退の要求を確認した。しかし、アメリカを仲介役とした中東和平交渉では、イスラエルに対するゴラン高原全面返還要求をゆずらず、交渉を中断したまま、2000年6月10日に死去。
 それまで閉塞(へいそく)状態にあった経済を建て直し政権の基盤を確立するために、現実的な経済政策を採用し、従来の社会主義的体制から、国家の規制を緩和し、民間セクターの役割を増大させ、投資を奨励するなど、経済自由化のプロセスを段階的かつ選択的に実施した。[木村喜博]

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