翻訳|Zionism
ユダヤ人を独自の民族とみなし,ユダヤ人差別・迫害の究極的克服をユダヤ人国民国家の建設によって達成しようとする運動をいう。シオンはエルサレムをさす古い呼称で,パレスティナを父祖以来の約束の地とし,同地へのユダヤ人の移住を〈離散からの帰還〉として考える観念は,ユダヤ教の最も重要な信仰内容に属する。その意味では,19世紀後半にシオニズム(ヘルツルの盟友ビルンバウムNathan Birnbaum(1864-1937)の命名によるとされる)の名のもとに起こったこの運動はユダヤ教の伝統の継承・発展とみることができる。しかし〈離散からの帰還〉はまた,キリスト教におけるキリストの再臨と同じように,本来は,人間の力では実現不可能なものであり,神意にのみすがろうとする敬虔な祈り以上のものではなかった。むしろその願いが深ければ深いほど,これを人間の努力によって実現しようとするのは神に対する冒瀆でさえあった。その限りでは,シオニズムはユダヤ教の伝統への反逆であり,革新の思想でもあった。
伝統の継承とこれへの反逆という二面性は,19世紀ヨーロッパ思想に対するシオニズムの関係についても指摘できる。一方で,それはナショナリズムの受容という点でまさに19世紀ヨーロッパの正統な子でありながら,他方,ユダヤ人の西ヨーロッパ社会への同化によるユダヤ人問題の解決という19世紀自由主義の基本的立場の否定であり,これへの挑戦でもあった。さらにまた,この運動は,ユダヤ人国家の創出というナショナル(国民的)な目標を,諸国に居住するユダヤ人のインターナショナル(国際的)な連帯によって(ドイツのシオニスト,ボーデンハイマーMax Isidor Bodenheimer(1865-1940)の用いたスローガン〈万国のシオニストよ,団結せよ!〉によく表れている)実現していこうとする,それ自体二面的な性格をもつ運動でもあった。このようにシオニズムは,ユダヤ人国家の創出という目標だけを共通項とする,多様な理念と傾向によって担われる運動であるといえよう。ユダヤ人国家の建設という考え方それ自体を見ると,16世紀以来キリスト教徒の立場からこれを唱えた人びとは決して少なくない。またナポレオン1世は政治的・戦略的関心からこれに興味を寄せた。しかし,ユダヤ人国民国家の建設は,ヨーロッパにおける最後の民族問題の解決を意味すると考えた最初の思想家はモーゼス・ヘス(《ローマとエルサレム》1862)であった。
しかし,この思想が具体的に組織されたかたちをとるにいたったのは,19世紀末ロシアにおいてである。1881-82年の激しいユダヤ人迫害(ポグロム)の波とツァーリズム政府の反動的な政策は,ユダヤ人解放の望みを打ち砕いた。ここに始まったユダヤ人の西ヨーロッパおよびアメリカへの大量移住と,因襲的・封鎖的なユダヤ人ゲットー社会の崩壊の開始とともに,ユダヤ人知識人のあいだにナショナリズムと同時に社会主義,さらに一種のロマン主義の混合し合った思想がひろがり,その具体的な実践としてピンスカー,スモレンスキンPerets Smolenskin(1842-85)の呼びかけで青年・学生らによる〈シオンへの愛〉の運動が生まれた。彼らは小集団でパレスティナへ移住し,そこにユダヤ人入植地を建設しようとした。この運動に依拠しつつ,同時にこれを批判しながら,アハド・ハアムは,ユダヤ民族の観念を鮮明に打ち出し,その精神的・文化的中心をパレスティナに求めた。
ヘブライ語の復活をはじめユダヤ人の伝統文化の再活性化こそユダヤ人国家建設の基礎であり,また新国家の課題でもあると考える,この文化的あるいは精神的シオニズムに対し,ヘルツルら西ヨーロッパ諸国の社会にみずからは同化し,ユダヤ人文化とユダヤ教に対してはまったく,あるいはほとんどまったく関心をもたず,ユダヤ人国家をロシア,東ヨーロッパのユダヤ人のための〈世界的なゲットー〉(ヘルツル)として,もっぱら政治的な手段によりその建設をはかろうとする人びとの運動は,政治的シオニズムと呼ばれる。ドレフュス事件に衝撃をうけ,同化によってはユダヤ人に対する差別・迫害は克服できないと考えたヘルツルは,《ユダヤ人国家Der Judenstaat》(1896)で,ユダヤ人国家の建設を構想するにいたったが,彼の場合,パレスティナはあくまで選択の一つの可能性でしかなく,むしろ一時期アフリカのウガンダでの国家建設を真剣に検討したことは特徴的である。シオニズム運動は,バーゼルでの第1回シオニスト会議(1897)により世界シオニスト機構を設立して組織的統一を果たし,ヘルツルをその指導者としたが,第1次世界大戦以前はユダヤ教徒のなかでも,少数者の夢想とあざけられ,神に対する冒瀆と非難され,あるいは反ユダヤ主義を刺激するものと批判され,少数者の運動でしかなかった。
それが〈パレスティナでのユダヤ人の民族的郷土national home樹立に賛成する〉というイギリス政府のバルフォア宣言(1917)によって,にわかに国際政治における有力な要素となるにいたったについては,東方問題をめぐる帝国主義列強の角逐との関連を見のがすことはできない。同宣言の成立はワイツマンらの努力によるところ大であったとはいえ,イギリスがドイツとの戦争においてその戦略的優位を確保し,またフランスをおさえ,さらにアラブ・ナショナリズムを牽制しようとするための帝国主義戦争遂行上の政策の一環をなすものであった。第1次大戦後,反ユダヤ主義の再燃,とくにナチズムの成立とこれによるユダヤ人迫害,さらにはその大量虐殺はシオニズムの主張の正当性を裏づけたかたちとなり,パレスティナへの移住は大いに促進された(1925年の移住者10万8000人,35年30万人)。同時にアメリカ系資本の導入によって,パレスティナのユダヤ人社会の経済的安定がはかられた。これと並んで,19世紀末以来すすめられてきたキブツによる集団入植が,独自の理念と文化を築き,シオニズム運動の重要な要因となった。
1948年イスラエル国家の成立により,シオニズムの目標は達成されたが,宗教原理に基づくこの国家の基本的性格をめぐる議論,国内でのヨーロッパ系市民(アシュケナジム)の支配による事実上の人種差別の問題,パレスティナ問題,アラブ・ナショナリズムとの対立の問題,国際共産主義運動とシオニズムとの関係等,その直面する状況はなお複雑である。シオニズムは,ヨーロッパにおけるユダヤ人問題を,これを輸出することによって解決しようとしたが,かえってこの問題を全世界的規模にまで拡大したとみることができるであろう。
執筆者:下村 由一
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19世紀末、ヨーロッパで始まったユダヤ人国家建設を目ざす思想および運動。シオンは聖地エルサレム南東にある丘の名。ユダヤ人がその地を追放されて離散の歴史をたどるという『旧約聖書』の記述中の「シオンの地」は、宗教的迫害を味わってきたヨーロッパのユダヤ教徒にとって解放への希求とあわさって象徴的意味をもっていた。19世紀後半、帝政ロシアを中心に高まってきたユダヤ教徒迫害(ポグロム)の嵐(あらし)のなかで、シオンの地という宗教的象徴性に「ユダヤ人」国家という現実的領土の概念を重ね合わせるシオニズムが誕生した。ユダヤ民族国家実現への取り組みは1897年、ハンガリー出身のテオドール・ヘルツルTheodor Herzl(1860―1904)によって準備された、スイスのバーゼルにおける第1回世界シオニスト会議で具体化した。同会議は、「ユダヤ民族のためにパレスチナに公法で認められた郷土(国家)を建設する」ことを決議した。第一次世界大戦中の1917年、パレスチナにおけるユダヤ人の郷土建設に対する保障(バルフォア宣言)をイギリスから引き出したシオニズムは、パレスチナがイギリス委任統治領となる1920年以降、ユダヤ人入植を推進した。30年代、ナチズムのユダヤ人虐殺は入植に拍車をかけ、一方、現地パレスチナでは、シオニスト機関によって、非ユダヤ教徒アラブ住民に対する土地没収や労働機会の締め出しが推し進められ、シオニズム勢力とアラブとの対立はイギリス委任統治を動揺させるほど激化した。
1940年代に入りシオニズムは、アメリカの支援をよりどころに、ユダヤ人国家承認に向けて国際的根回しを図り、47年、イギリス委任統治終了後のパレスチナにユダヤ人、パレスチナ人双方に主権を与えるという国連パレスチナ分割決議を手にした。48年5月15日、イギリス委任統治終了の翌日にイスラエル国家が樹立され、シオニズムは目的を達成した。建国に先だち、シオニズム武装組織はアラブ住民に対するテロ・虐殺を行って人々を逃亡へと駆り立て、「無人化」したアラブ村落を併合し、ユダヤ人国家の膨張を企てた。そうした企ては、ユダヤ教徒以外を容認しない宗教的排他的民族主義であるシオニズムの当然の帰結であった。シオニズムはイスラエル建国後も国家イデオロギーの支柱であり続ける。それは、シオニスト改訂派(後のリクード)のような、「イスラエルの地(エレツ・イスラエル)回復」という宗教的熱狂に駆り立てられ、武力によって際限なく領土拡張意欲を満たそうとする運動潮流において典型的である。
[藤田 進]
『板垣雄三編『ドキュメント現代史13 アラブの解放』(1974・平凡社)』
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シオンとはイェルサレムの雅名で,シオニズムとはこの名にちなんでユダヤ人の国家を聖地パレスチナに建設しようとする運動をさす。政治運動となったのは19世紀であり,1897年バーゼルで第1回シオニスト大会が開かれ,諸国への働きかけが続けられた。1917年バルフォア宣言に力づけられて多数のユダヤ人がパレスチナに移住し,第二次世界大戦後,この地にイスラエル国が誕生した。
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(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)
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… 17年11月のバルフォア宣言は,パレスティナにユダヤ人の民族的郷土(ナショナル・ホーム)を樹立する計画に対し,イギリス政府が支持を与えるものであったが,パレスティナの地域的枠組みは,同宣言を実行すべき場として,むしろ後から組み立てられたものなのであった。ここからパレスティナをエレツ・イスラーエール(イスラエルの地)として理解する立場も生じるが,シオニスト改訂派をも含むシオニズム運動が聖書における神の〈約束〉に依拠して,その〈約束の地〉(《創世記》12:7,13:15,15:18,28:13)の範囲を現代国際政治における領域問題として議論しようとする傾向をすらもったことにより,パレスティナの範囲はそれ自体20世紀の政治的争点となる。しかし,イギリスによるパレスティナ委任統治(1922‐48)がこうして設定したパレスティナの地域的枠組みを前提として,パレスティナ人という存在や,さらにやがてパレスティナ民族主義が成立してきたのであった。…
…シオニズムと社会主義の統合をめざす労働者シオニズム運動の理念上の先駆者。ウクライナに生まれ,若くしてロシア社会民主党に入党するが,やがて離党してシオニズム運動に参加し,その内部にユダヤ人労働者社会主義民主党(ポアレ・シオンPoale Zion)を創立する上で重要な役割を果たす。…
…19世紀後半,帝政ロシア末期の混乱の中で,ユダヤ人を無差別に殺戮(さつりく)するポグロムが広がったため,多数のユダヤ人がアメリカに逃げた。同時に,ユダヤ民族主義シオニズムが勃興し,それをT.ヘルツルが政治運動に組織した。第1次大戦後,ヒトラーのナチス・ドイツは,組織的アンチ・セミティズム政策により,ユダヤ人600万人を殺戮した。…
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