アッタール(読み)あったーる(英語表記)Farīd al-Dīn Muammad ‘Aār

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アッタール」の意味・わかりやすい解説

アッタール
あったーる
Farīd al-Dīn Muammad ‘Aār
(1142ころ―1230ころ)

ペルシア詩人。イラン東部のニシャプールで生まれ、モンゴル軍の侵入時、1221年に殺害されたという説もある。医薬を業とした父を継いだが、のちに神秘主義の道を歩み、多くの神秘主義詩をつくり、サナーイールーミーと並んでペルシア神秘主義三大詩人の一人に数えられる。晩年に生地で若いルーミーに会い、その将来の大成を予言して自作詩集を贈ったという逸話は名高い。非常に多作な詩人で、その作品は詩集、散文あわせて114編にも達したといわれる。現存するのは約20編で、神秘主義叙事詩の開拓者として知られる。代表作には『鳥の言葉』『アッタール詩集』『神秘の書』『神の書』『ホスローの書』『非運の書』『選択の書』などがあり、とくに『鳥の言葉』は名高い。75人の著名な神秘主義者の伝記を収めた散文作品『神秘主義聖者列伝』は貴重な研究資料として高い評価を受けている。

[黒柳恒男]

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改訂新版 世界大百科事典 「アッタール」の意味・わかりやすい解説

アッタール
`Aṭṭār
生没年:1136ころ-1230ころ

ペルシア系神秘主義詩人。ニーシャープールに生まれ,その地で没す。一説にモンゴル軍侵入時に,モンゴル兵の手により虐殺されたと伝えられている。神への愛,神との合一,神秘主義修行の諸相を,寓意比喩を交えた叙事詩体の詩で巧みにうたう。ペルシアにおける神秘主義的叙事詩の伝統の創始者である。晩年に,当時少年のルーミーに会い,その才能を見抜いて自作の書《神秘の物語》を与えたといわれる。主著は《鳥の言葉Manṭiq al-ṭayr》《聖者列伝》。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アッタール」の意味・わかりやすい解説

アッタール
`Aṭṭār, Farīd al-Dīn

[生]1150頃.ニーシャープール
[没]1220頃
ペルシアの神秘主義者,詩人。郷里で父の職業であった薬種屋または医業を継いだが,のちに神秘主義道に入った。きわめて多作。代表作『鳥の言葉』 Manṭiq al-ṭayrは神秘主義者の宗教経験を比喩的に描いた詩。ほかに『忠言の書』 Pandnāme,『神の書』 Ilāhī-nāme,『神秘の書』 Asrār-nāmeなどの叙事詩集もよく知られる。『アッタール詩集』 Dīwān-e `Aṭṭārもあり,神秘主義抒情詩の先駆者とされる。『神秘主義聖者列伝』 Tadhkirat al-Auliyāは散文作品。

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世界大百科事典(旧版)内のアッタールの言及

【薬屋】より

…この店はサイダラーニーṣaydalānīと呼ばれたが,それは当時の新薬ともいうべきサンダル(白檀)を専門的に扱うことに由来する。またアッタール‘aṭṭārと呼ばれる薬種商は,香料と生薬(しようやく)を扱い,その調合にも熟達していた。やがてヨーロッパでも僧院のほかに,市中にも薬局が出現した。…

【ペルシア文学】より

…中世イスラム世界の精神界で支配的影響をもつようになった神秘主義は,現世への欲望を断ち,自我を消滅して〈神人合一の境地〉への到達を究極の目的としたが,この境地や神への愛が最も情熱的・官能的に表現されたのはペルシア詩においてであった。サナーイーアッタールらの優れた神秘主義詩人がこの分野における基礎を築いた。 13世紀前半からモンゴル族のイラン侵入が始まり,ペルシア文化は致命的な打撃を受けたが,文化的伝統は保持された。…

※「アッタール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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