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アフリカ史 アフリカし

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アフリカ史
アフリカし

アフリカ大陸の大部分には固有の文字がなかったため,アフリカの先史時代歴史時代を区分することは困難である。北アフリカについては,エジプトエチオピアのように,古代から文字をもっていた国もあり,また,地中海沿岸は古代ギリシアローマの植民地となったこともあるので,サハラ以南のブラックアフリカとはまったく事情を異にした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アフリカ史
あふりかし

一般的に1960年の「アフリカ独立の年」以前の植民地期におけるヨーロッパ人のアフリカ観は、イギリスの西アフリカ史ホプキンズによると、アフリカを自然や人間の楽園とみる「メリー・アフリカ」か、原始的で未開とみる「プリミティブ・アフリカ」かの両極端の「神話」に彩られ、そこに住むアフリカ人を主体とする真の意味での歴史は書かれなかった。しかし独立を達成し、あらゆる面でのアフリカ人化が進むにつれ、歴史研究の分野でも従来の「神話」を粉砕して、ヨーロッパ人史家にかわってアフリカ人史家が自らの立場にたって自らの歴史を書こうとする気運が高まった。現在その潮流はしだいに大きくなるとともに、従来のヨーロッパ人中心史観の歴史が徐々に書き改められつつある。
 その際、アフリカ史の特色として、以下の2点を指摘しておきたい。第一は、アフリカ大陸に住む人々は、ごく少数を除いて、「無文字社会」に生きてきたことである。従来の歴史研究が文字による史料を重視する限り、アフリカ史研究は大きなハンディキャップを負っているといわざるをえないが、文字がないことが即歴史がないとみるのは大きな誤りで、アフリカ社会の歴史は口頭伝承を通じて後代に語り継がれている。もちろん、口頭伝承は伝承の過程で意図的または無意識的に曲げられることは当然おこりうることで、厳しい伝承批判や比較研究、または言語学、文化人類学などの歴史補助学の助けを借りなければならないし、なによりも、口頭伝承のもとになっている部族語の修得を欠かすことはできない。その意味でアフリカ人史家の今後の活躍が期待される。
 第二の特色は、アフリカ大陸はけっして孤立した大陸ではなく、古くからさまざまな他の民族との接触による影響を受けてきたことである。古代ギリシア、ローマの北アフリカ植民、アラブ人のサハラ越え交易や、東アフリカ海岸への影響、ヨーロッパ人の奴隷貿易とその後の植民地化過程でのヨーロッパ人の影響をみれば、このことは明らかであろう。ましてヨーロッパ人の植民地化は、19世紀末から20世紀なかばまでわずか70年間にすぎず、アフリカ史全体の流れのなかではごく短期間にすぎない。その意味で、以下、植民地化前、植民地期、独立以降期の3期にアフリカ史を大別し、各時期をさらに細分化してアフリカ史の流れをみていくことにする。[林 晃史]

人類のアフリカ起源説

最近の考古学の成果によると、人類のアフリカ起源説はかなり有力なように思われる。その有力な根拠として、イギリスの考古学者リーキー博士夫妻によってタンザニア北西部のオルドワイ渓谷で発見されたジンジャントロプス・ボイセイの化石があげられる。この化石は約180万年前と推定され、直立歩行の、おそらく粗製の石器を使用したヒト科といわれる。さらに最近ケニア北部で発掘された化石は、約1400万年の古さと推定されている。このような化石が、現在のアフリカ人の祖先と直接つながりがあるのかどうかは現段階では不明である。しかし、アフリカに人類がずっと住んでいたことは、エチオピアやケニアその他各地で、ホモ・サピエンスすなわち現生人類の祖先の人骨が発見されていることから間違いないと思われる。しかしその詳しい経路が明らかになるまでにはまだかなりの時間がかかるであろう。
 この人類の祖先が長い年月をかけて混血し、また環境に適応していく過程で、アフリカでは以下に述べる五つの種族に分かれていった。すなわち、コンゴ森林部に住む狩猟民ピグミーをさすネグリロ型、現在南部アフリカのカラハリ砂漠で狩猟生活を営むサン(俗称「ブッシュマン」)をさすボスコポイド型、サハラ以南の農耕民の大部分を占めるネグロイド型、現在おもにサハラ以北とエチオピアに住む牧畜民コーカソイド型、かつてアジアからマダガスカルに移住し、その後ネグロイド型と混血していったモンゴロイド型の5種族である。このようにアフリカ人は狩猟、農耕、牧畜、またはその混合など、さまざまな文化を発展させていった。[林 晃史]

古代アフリカ諸王国の興隆

アフリカ最古の黒人王国として現在知られているのは、紀元前10世紀ごろエジプトの南方に興ったクシュ王国である。ナイル川中流部ナパタを首都とした同王国は、古代エジプト王朝の衰退に乗じてエジプトを征服し、第25王朝を築いた。しかし前667年にアッシリア軍の侵入を受け、南方のメロエに都を移してメロエ王朝を開いた。同王朝は、インド洋に達する交易ルートと製鉄技術によって繁栄し、独自のメロエ文字を発明した。その文化はギリシア、ローマの影響を強く受け、多くの大構築物を建設した。しかし紀元前後にローマ軍の侵略を受け、また紀元後350年には、交易ルートを握るアクスムの侵入を受けて滅亡した。アクスム王国は現在のエチオピアの前身といわれ、アラビア半島と強いつながりをもち、またインド洋交易で繁栄した。6世紀にビザンティン帝国と結んでペルシアと対抗したが、逆にペルシアに滅ぼされた。
 西スーダン地方では、8世紀にガーナ帝国が栄えたが、その経済的基盤は、ワンガラ人の掘る金と北方のアラブ人のもたらす塩との交易の仲介者としてであった。首都はクンビサーレに置かれ、アラブ人旅行家アル・バクリが11世紀初めの宮廷の繁栄を記している。11世紀後半、北方のムラービト朝が、ガーナ帝国のイスラム改宗を企てて南下し、1076年に帝国は滅びた。
 その後1240年、マンディンゴ人が同地域にマリ帝国を建国した。同帝国は勢力をさらに西方に拡大し、産金地ワンガラ、バンブクを含めてガンビア川に達する一大帝国に発展した。その経済的基礎はサハラ越え交易に課した税収であり、14世紀には、ニジェール川湾曲部にあるトンブクトゥが、商業、学問の中心地として栄えた。第3代マンサ・ムーサ王は、1324年多くの従者とともに黄金を持ってメッカ巡礼を行い、途中立ち寄ったカイロで黄金を湯水のごとく使い、そのためカイロの金相場が10年以上下落したといわれている(アル・オマリ『エジプト王国見聞記』)。王の死後、帝国はしだいに衰退し、息子のマガ王の時代にはモシ人にトンブクトゥを奪われた。第5代スレイマン王は版図の回復に努め、この時期にマリ帝国を訪れたアラブ人歴史家イブン・バットゥータがその繁栄ぶりと国内秩序の整然としたようすを記している(『三大陸周遊記』)。しかし15世紀初め、北方から遊牧民トゥアレグ人、南方からモシ人の侵略を受け、1473年にはソンガイ帝国によりジェンネを占領され、マリ帝国は滅びた。
 ソンガイ帝国のソンニ・アリ王は、トゥアレグ人、モシ人を追放し、ニジェール川上・中流域に一大帝国を築いた。1493年に即位したムハンマド王は広大な版図の統治組織を確立し、課税制度を整えて国家の財政を安定化した。王はまたイスラム教を保護したため、サハラ越え交易は盛んになり、ジェンネ、トンブクトゥ、ワラタの諸都市は交易、宗教、学問の中心地となった。16世紀初めには南方のカチナ、ザリア、カノのハウサ系諸国家を滅ぼして領土は大西洋岸まで達し、北方ではトゥアレグの根拠地エイルとアガデスを占領した。しかし、王の死後、継承権をめぐって争いが続き、1590年には北方のモロッコ軍が南下したため、1594年ソンガイ帝国は滅亡した。
 東アフリカ海岸では、7世紀にアラビア半島でのイスラム教徒の後継者争いで破れたシーア派の人々が、オマーンから東アフリカ海岸に移住した。アラブ人はこの地域をザンジとよび、ラム、マリンディ、モンバサ、ペンバ、ザンジバル、キルワ、モザンビーク、ソファラに都市を建設し、インド洋交易によって繁栄した。アラブ人はザンジの産物である金、鉄、象牙(ぞうげ)、奴隷を、遠く中国や東南アジア、インドに運び、逆にインド産の布類やビーズ、中国製の陶磁器を東海岸にもたらした。海岸諸都市の繁栄については、10世紀のアラブ人地理学者マスウーディーや12世紀のモロッコ人地理学者アル・イドリーシーが記している。1417~1419年には、中国(明(みん)朝)の鄭和(ていわ)が大艦隊を率いて東アフリカ海岸に来航している。これら東海岸諸都市は、インド洋交易という商業活動を共通の経済的基盤にしているほか、イスラム文化とスワヒリ語を共有しながら発展していった。1498年のバスコ・ダ・ガマの東海岸到来に続いて、ポルトガル人たちが海岸諸都市を襲って貢物を強要し、それに背くと武力で都市を略奪した。海岸諸都市は単独または連合してポルトガル人に対抗したが、そのほとんどは敗れ、海岸部およびインド洋交易はポルトガルの支配下に入った。
 以上の古代アフリカ諸王国のほとんどは、その経済的基盤を「長距離交易」に依存しており、フランスの経済史家C・ビドロビッチは「アジア的生産様式」の一変種として「アフリカ的生産様式」の存在を主張している。[林 晃史]

奴隷貿易から合法貿易へ

15世紀のヨーロッパ人による大航海時代の始まりは、従来の北アフリカからのサハラ砂漠越え交易と、インド洋による東アフリカのアラブ人交易にかわって、アフリカ海岸部へのヨーロッパ人の接触をもたらした。しかしその初期には、ヨーロッパ人の目的は東インドとの香料貿易であり、アフリカ海岸線は遠洋航海のための単なる補給基地としての意味しかもたなかった。
 しかし、新大陸が発見され、そこでの鉱山開発と、サトウキビ、タバコ、インジゴ(染料)などのプランテーション農業が進むにつれて、労働力としてのアフリカ人奴隷の価値が高まり、ポルトガル、スペインをはじめオランダ、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が、大西洋奴隷貿易に従事するようになった。とくに西インド諸島への奴隷の輸出、西インド諸島からヨーロッパへの熱帯産品の輸出、それを受け入れ加工した製品をアフリカに運び、奴隷と交換する、いわゆる三角貿易が成立した18世紀には、奴隷輸出は最高潮に達した。
 この大西洋奴隷貿易の規模に関しては、正確な記録がないため従来さまざまな推定が試みられてきたが、通説としては1500万~2000万人といわれていた。この通説に対して、近年ウィスコンシン大学歴史学教授のP・カーティンが科学的根拠に基づく推定を行い、従来の通説をくつがえした。すなわち、まず従来の通説の形成過程の筋道を明らかにし、その非科学性を指摘した。そののち自らは、直接証拠として、限界はあるが奴隷輸入値を使い、さらに船積み記録(奴隷貿易に関与した船の数、積載量、航海中の損失、つまり病気、飢餓、反抗による死亡など)を使い、さらに間接資料として、利用しうる人口統計や西インド諸島およびアメリカの生産力などに基づいて推計を行い、4世紀半にわたる奴隷貿易の規模を956万6100人とした。その時代別輸出数は、1451~1600年27万4900人、1601~1700年134万1100人、1701~1810年605万1700人、1811~1870年189万8400人で、最盛期は18世紀である。
 輸出先としては、全期間を通じて最大は南アメリカで470万人、ついでカリブ海諸島の404万人、北・中央アメリカの65万1000人、ヨーロッパの17万5000人となり、国別ではブラジル、ハイチ、ジャマイカ、キューバが多かった。また輸出側の西アフリカでは、セネガンビアから穀物海岸、象牙(ぞうげ)海岸に至る上ギニアは奴隷輸出が比較的少なく、ゴールド・コーストからカメルーンに至る下ギニア、なかんずくニジェール川河口周辺が圧倒的に多かったことが明らかにされた。奴隷の捕獲は、ヨーロッパ人が海岸部族に武器、火薬を提供し、内陸部族に戦争をしかけ、その戦争捕虜をヨーロッパ人に引き渡したが、その取引には金銀貨ではなくさまざまなヨーロッパ製品が使われた。たとえば男女2人の奴隷に対して、たばこ1巻き、管状サンゴ1連、マスケット銃1丁、短剣3口、ラッパ銃1丁、リンネルのハンカチーフ24枚、小裂(こぎれ)5枚、ラム酒3本、鉄地金12個、1パイント入り容器12個などであり、とくに銃、火薬、酒類、布類が主要な取引商品であった。
 この奴隷貿易が西アフリカ社会に与えた影響は大きかった。第一に、奴隷狩り戦争による社会の不安定と、戦死者および輸出によるアフリカ人人口の激減がある。とくに奴隷として多くの成年層が失われたことは、アフリカ社会の生産活動に大きな影響を及ぼした。第二に、アフリカ人社会のなかにも、海岸部のダオメー、オヨ王国のように、ヨーロッパ人と結託して奴隷狩りに加担し発展した若干の国家があったことを忘れてはならない。
 18世紀後半に入ると、イギリスで、おもに人道的理由から奴隷制および奴隷貿易廃止を訴える声が高まった。W・ウィルバーフォースはT・クラークソンらとともに1787年奴隷貿易廃止協会を設立し、1807年奴隷貿易は廃止された。ついで彼らは1823年反奴隷制協会を創立して議会に働きかけたが、奴隷制によって利益を得ている商人やプランテーション所有者の強い反対にあい、ようやく1833年にイギリス帝国内の奴隷制は廃止された。ついでイギリスは、他のヨーロッパ諸国に対しても奴隷貿易および奴隷制廃止を呼びかけ、次々に廃止されていった。しかし、廃止後も奴隷の密貿易は続き、最終的に奴隷貿易が終焉(しゅうえん)を迎えたのは1870年代になってからであった。
 奴隷貿易の廃止後、奴隷にかわる商品としてヨーロッパがアフリカに求めたものは、熱帯産品であった。すなわち、西アフリカ海岸部のパームオイル(やし油、のちにパーム核も)と、セネガルのラッカセイがその代表である。産業革命を経過したヨーロッパ諸国にとっては、せっけん、潤滑油、ろうそくの原料としてのパームオイル、マーガリンや飼料の原料としてのパーム核、植物油としてのラッカセイの需要は大きかった。パームオイルの輸出量は、1810年のわずか1000トンから1842年2万トン、1855年4万トンへ、ラッカセイは1840年代のゼロの段階から、19世紀末には毎年平均3万トンへと飛躍的に増大した。これら合法貿易の生産面をみてみると、ほとんどはアフリカ人小農によって小規模に栽培され、ヨーロッパ人は、集荷された産品を海岸部で取引したにすぎなかった。[林 晃史]

伝道、探検の時代

奴隷貿易の廃止とともに、ヨーロッパ各国の宣教師たちは、「未開人」と彼らが考えたアフリカ人にキリスト教の教えを伝え、同時にヨーロッパ文明を伝えるために独自に内陸部に入っていった。19世紀中葉イギリスは自由貿易主義全盛期であり、領土的野心はもたず、したがって宣教師たちに国家による保護を与えるということもしなかった。宣教師たちは布教とともに教育も行い、後の植民地期にはアフリカ人初等教育はほとんどこれら宣教師たちによって担われた。
 一方、それまでアフリカの海岸部はヨーロッパ人によって知られていたが、内陸部はほとんど「空白部」のまま残されていた。この未知の空白部を明らかにするため、イギリスで1788年アフリカ内陸発見協会(のちに王立地理学協会と改称)が設立され、協会が財政的援助を与えて、さまざまな探検家を内陸部に送り込んだ。まず19世紀中葉、ロンドン伝道協会が派遣した宣教師D・リビングストンは、南部アフリカでの伝道に従事し、さらに内陸への布教を目ざして中東部アフリカへの3回の探検を行い、地理上の重要な発見とともに、内陸部でのアラブ人による奴隷狩りの悲惨さとその廃止を訴えた。ついで、西アフリカにある大河ニジェール川の水源、水流、河口の謎(なぞ)が問題となり、内陸発見協会はマンゴ・パーク、デンハム、クラッパートン、レイング、レインダー兄弟らを派遣し、1830年にはニジェール川の謎はすべて明らかにされた。
 第三に、古代ギリシアの地理学者プトレマイオスによって、その水源に「月の山」があるといわれたナイル川水源の謎への関心が高まった。王立地理学協会は19世紀中葉、バートン、スピーク、グラント、ベイカーらを派遣し、その水源と内陸部にあるアルバート湖、ビクトリア湖、タンガニーカ湖が次々と明らかにされていった。そして、この探検期の最後を飾って、1870年代にスタンリーがコンゴ川の水源から河口までを踏査した。この旅は、従来の純粋に地理学的関心による探検と、その後のベルギー王レオポルド2世による同地域の私有化を引き金とするヨーロッパ各国の領土的野心むき出しの「アフリカ分割」との、橋渡しの役割を果たした。[林 晃史]

植民地化の時代


アフリカ分割
1870年代の帝国主義期に入ったヨーロッパ諸列強は、工業製品の市場と原料供給源を求めてアフリカの分割を行っていった。北アフリカでは、1870年のプロイセン・フランス戦争後、統一ドイツのビスマルクは、フランスの敵対感情をそらすためフランスの関心を植民地獲得に向けさせ、フランスは1881年チュニスを併合した。エジプトでは、1879年副王イスマイルがイギリス、フランスの財政官を解任したことを理由に、両国政府は副王を退位させ、傀儡(かいらい)政権を樹立した。この事件を契機にアラービー・パシャの反乱が起こり、イギリス、フランスは共同してその鎮圧に向かったが、フランスの国内危機のため、イギリスが単独で1882年にエジプトを占領した。スエズ運河開削に多額の投資をしていたフランスは、その代償として西アフリカに進出することになった。
 中央・西アフリカでは、ベルギー国王レオポルド2世が、コンゴ盆地の支配を目ざして1876年国際アフリカ協会を設立したが、それに対してフランスは、探検家ド・ブラザを派遣して1882年コンゴ河口の北側の地域を獲得した。一方イギリスは、1884年のイギリス・ポルトガル協定によってポルトガルのコンゴ河口領有を認めるのと引き換えに、そこでの自由な交易権を得た。ドイツは1883年、商人リュデリッツの要請に応じて南西アフリカ(ナミビア)の領有を主張し、西アフリカでも同年トーゴランドとカメルーンを獲得した。このようにして、コンゴ盆地の支配を決めるためのベルリン会議が1884年11月に始まり、同会議はポルトガルの同盆地支配を拒否し、レオポルド2世のコンゴ自由国による支配とそこでの各国の自由貿易を認めた。一方フランスは、ニジェール川上流域から河口に向かって勢力を伸ばそうとしたが、途中マンディンゴ帝国の再建を目ざすサモリ・トゥーレの抵抗にあって遅れ、その間イギリスは商人ゴルディの要請によって海岸部を領有した。
 東アフリカ海岸部はザンジバルのスルタンの支配下にあったが、ドイツ植民協会のC・ピータースが内陸の首長たちと結んだ協定を盾に、ドイツは1884年にベルリン会議でドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)の領有を認めさせた。一方イギリスは、1879年マッキノンのイギリス東アフリカ会社が得た特許を盾に、イギリス領東アフリカ(ケニア)の領土を主張し、1886年の英独協定によって東アフリカ内陸部を二分した。ついでイギリス、ドイツの関心はナイル川水源に向けられ、両国の各特許会社はブガンダ王国に使節を派遣したが、ドイツが一歩先んじた。しかし1890年の英独協定によって、ドイツはイギリスのウガンダ領有とザンジバルの保護領化を認め、かわりにイギリスは北海のヘリゴランド島をドイツに割譲した。イタリアはすでにエリトリアとソマリランドを領有していたが、1888年、1889年にフランス、イギリスとそれぞれ協定を結び、同地域を3分割した。
 東アフリカ海岸部のスルタンの主権を認めた英仏協定(1862)にもかかわらず、イギリスが英独協定によってザンジバルを保護領化したことに対し、フランスはマダガスカルの保護領化をイギリスに認めさせた。さらにフランスは、イギリスのロイヤル・ニジェール会社の北方拡大を恐れて、1890年同社の支配地域をニジェール川中流のセイからチャド湖を結ぶ線に決めたが、東西の線は未確定であった。エジプトを支配するイギリスは、フランスがガボンから東進してナイル川上流に接近することを恐れた。1896年イギリスは、スーダン再征服を目ざしてキッチナーの率いるエジプト軍を派遣し、1898年オムデュルマンの戦いでマフディー軍を破りハルトゥームに入った。一方フランスは、マルシャン司令官の軍隊が東進してファショダに進軍し、1898年両軍はファショダで対峙(たいじ)したが、外交交渉の結果フランスは撤退した(ファショダ事件)。
 南部アフリカでは、1889年イギリス女王から特許を得たセシル・ローズのイギリス南アフリカ会社は、北方のマタベレランドとマショナランドの併合(ローデシア)を企て、同時にバロツェランド(ザンビア)、ニアサランド(マラウイ)も併合した。しかしマニカランド(モザンビークの一部)ではポルトガルと対立し、1890年イギリス・ポルトガル協定で国境が確定した。ついでローズはブーア人共和国(トランスバールとオレンジ自由国)の併合を企て、1895年ジェームソン侵入事件を起こしたが失敗し、ローズの政治生命は終わった。その後、イギリスの南アフリカ政策はチェンバレン植民相とミルナー南アフリカ高等弁務官に引き継がれ、1899年彼らはついにブーア人共和国と開戦し、1902年イギリスの勝利で終わった。このブーア戦争の終結で、列強のアフリカ分割は事実上終わった。[林 晃史]
初期抵抗運動
分割とその後の支配に対して、アフリカ人はけっして黙っていたわけではなかった。分割期から20世紀初頭にかけて、アフリカ各地で抵抗が起こった。エジプトのアラービー・パシャの反乱(1881~1882)、スーダンのマフディーの反乱(1881~1898)、アビシニアのアドワの戦い(1896)、ソマリアのサイイッド・ムハンマドの反乱(1891~1920)、ウガンダのブンニョロの反乱(1891~1920)、タンガニーカのヘーヘ人の反乱(1891~1898)とマジマジの反乱(1905~1907)、ニアサランドのチレンブウェの反乱(1915)、ローデシアのマタベレ人とマショナ人の反乱(1896)、ナタールのズールー人の反乱(1906)、南西アフリカのヘレロとナマの反乱(1904~1906)、ゴールド・コーストのアシャンティの反乱(1900)、西スーダンのサモリ・トゥーレの反乱(1884~1898)、チャドのラビーフの反乱(1897~1900)、リビアのサヌーシーの反乱(1912~1931)などである。これら初期抵抗に共通する特徴として、第一に宗教が闘争を組織する際の重要な原理となったこと、第二に部族単位の闘争が多かったことが指摘できる。そのため、結局は近代的装備を有する植民地軍の力の前に屈していった。[林 晃史]
各国の植民地政策
初期抵抗を武力で弾圧したヨーロッパ各国は、ついで植民地統治に乗り出したが、その形態は国によって異なった。一般的にイギリスの方式は間接統治とよばれ、統治の費用を節約するため白人行政官の数を減らし、かわってアフリカ人首長層を行政の末端に組み入れた。さらに総督の下に行政審議会、立法審議会を設け、初期には白人だけで構成されたが、のちにアフリカ人首長層を入れ、アフリカ人の近代政治への適応のための訓練を行った。それに対し、フランスの方式は同化政策とよばれ、フランス文化を植民地に普及し、アフリカ人を開化して同化吸収しようとするものであった。したがって、アフリカ人のなかでフランス文化を身につけた一部エリート(同化民)と、大多数の非同化民とが分けられ、同化民に対しては本国人と対等に扱った。また、ベルギーの方式は温情主義(パターナリズム)とよばれ、アフリカ人を子供として扱い、本国植民省の力が強く、植民地行政は末端までベルギー人によって行われた。その代償として福利厚生施設などの保護措置はとられたが、アフリカ人の政治的権利はまったく認めようとしなかった。[林 晃史]
モノカルチュア経済の形成
経済開発の面では、最初は多くの植民地で、本国のリスクを避けるために特許会社による開発が行われた。すなわち、民間企業に特許を付与し、特許会社はアフリカ人首長から鉱山利権を得て鉱山採掘にあたったが、利権は拡大解釈され、土地収用、徴税まで行った。さらにこの時期に、鉄道建設をはじめ、地域開発の基盤となる施設の整備が行われ、その完了とともに沿線地域が白人入植者のために収用された。入植者は広大な農場でアフリカ人労働力を使い、輸出向けの換金作物(コーヒー、茶、ゴム、タバコなど)を栽培し、輸出が特定の農産物に偏る、いわゆるモノカルチュア経済が形成されていった。[林 晃史]

アフリカ人の民族運動


両世界大戦間期
この時期は、一般にアフリカ人民族運動の「萌芽(ほうが)期」といわれている。すなわち、分割直後の初期抵抗のほとんどすべては弾圧されたが、アフリカ人は植民地支配に対する抵抗をやめたわけではなかった。アフリカ人民族運動の指導者たちは、初期抵抗の組織、戦術面での弱点を批判しながらも、その精神面においては高く評価し、それを継承していった。南アフリカ連邦では、1912年、都市のアフリカ人インテリ層を中心にアフリカ人民族会議が結成され、政府の人種主義政策に反対していった。ケニアでは白人入植者によって土地を追われたキクユ人のハリー・ツクが、1921年キクユ青年同盟を結成した。しかしこの時期の運動は、アフリカ人の待遇改善のための請願、陳情などの合法的手段をとる穏健なもので、独立はまだ目標として掲げられていなかった。[林 晃史]
第二次世界大戦以降
前の「萌芽(ほうが)期」に対し、この時期の運動は「開花期」といえよう。20世紀初めに西インド諸島でおこったパン・アフリカニズム運動は第5回マンチェスター会議(1945)で、アフリカ大陸の民族運動と合体したが、これが植民地からの解放、独立を希求する一大潮流となった。この会議には、のちにアフリカ人民族運動を指導していくゴールド・コーストのエンクルマ、ナイジェリアのアウォロウォ、ケニアのケニヤッタらが出席した。また、第二次世界大戦後のアジア諸国の独立と、その結果開かれたバンドン会議(1955)の影響を強く受けたことや、第二次世界大戦に連合軍側として参戦し、アフリカ以外の世界を経験した多くのアフリカ人が帰国したことによって、運動は加速された。
 すなわち、イギリス植民地ゴールド・コーストでは、1948年ココアの独占的買い上げに対してアフリカ人の暴動が起こり、イギリス政府はその原因調査のための委員会の勧告に基づいて、アフリカ人に大幅な自治を与えることを約束した。だが、これに協力的なゴールド・コースト会議党(党首ダンカー)を批判したエンクルマは、同党を離脱して会議人民党を結成、即時独立を要求して国民にゼネストを呼びかけたため、逮捕、投獄された。その間、1951年の新憲法に基づいて立法審議会選挙を実施した結果、会議人民党が多数議席を占めたため、エンクルマは釈放された。そして1956年選挙でふたたび多数派を占めた会議人民党が組閣を行い、1957年3月、ブラック・アフリカ最初の独立国としてガーナが誕生した。
 フランス植民地では別の道をたどった。第二次世界大戦後に開かれたフランス国民議会で、すべてのアフリカ人に完全な市民権を与える新憲法提案がなされたが、当時フランス政府は祖国復興とインドシナ問題に目を奪われ、アフリカには関心が払われなかった。1946年アフリカ人はバマコ会議を開き、セネガルを除く七つの植民地が参加し、ウヘ・ボワニを中心にアフリカ民主連合(RDA)を結成し、フランス共産党と連合した。フランス政府はRDAを危険視し、1950年にRDAの集会を禁止した。1956年「基本法」が制定され、アフリカ人に大幅な自治が与えられたが、独立に関しては独立後のフランスとの関係が重要議題となった。1958年ドゴールの第五共和政発足とともに、本国との関係を維持するフランス共同体構想が出され、ギニアを除くすべてのフランス領西アフリカは共同体に加入した。ギニアのセク・トゥーレは、「隷属のなかの富裕よりも自由のなかの貧困を選ぶ」として加入を拒否したため、フランスの援助はただちに打ち切られた。かくしてギニアを除くフランス領西アフリカは、1960年にフランス共同体の枠内で独立を達成した。
 ベルギー領コンゴでは民族運動は抑えられてきたが、イギリス、フランス植民地の独立への動きに刺激され、急速に動きだした。すなわち、1959年、バコンゴ人のアバコ党(党首カサブブ)に対する集会禁止に端を発した首都レオポルドビルの暴動、虐殺が起こり、これが契機となって独立への要求が高まった。1960年初めブリュッセル円卓会議が開かれ、独立の期日に関して協議がなされたが、即時独立を主張するアフリカ人代表の声に、ベルギー政府は事態を投げ出す形で独立を認め、同年6月、カサブブ大統領、ルムンバ首相のもとに独立が達成された。[林 晃史]

アフリカ諸国の独立

以上みてきたように、植民地統治の方式の相違によって独立の過程もかなり異なったが、いずれの場合も独立運動はけっして平坦(へいたん)なものでなく、要求、暴動、弾圧、投獄、対立、抗争の過程を経過している。まず1956年にはスーダン、チュニジア、モロッコが独立、ついで翌1957年にはブラック・アフリカで初めてゴールド・コーストが独立してガーナとなった。さらに、翌1958年のギニアの独立に続いて、1960年には、1月にカメルーン、4月にトーゴ、6月にコンゴ(のちザイールと改名、さらに現コンゴ民主共和国)、セネガル、マリ、マダガスカル、7月にソマリア、8月にコートジボワール、ダオメー(現ベナン)、オートボルタ(現ブルキナ・ファソ)、ニジェール、中央アフリカ、コンゴ(現コンゴ共和国)、ガボン、チャド、10月にナイジェリア、11月にモーリタニアと、合計17か国が次々と独立し、いわゆる「アフリカの年」となった。ついで翌1961年にはシエラレオネ、タンガニーカ(現タンザニア)、1962年には、ルワンダ、ブルンジ、アルジェリア、ウガンダ、1963年にはケニア、1964年にはニアサランド(現マラウイ)、北ローデシア(現ザンビア)が続々と独立を達成し、南部アフリカと若干の国を残して、アフリカ大陸のほとんどの国は独立国となった。
 以上を概括していうと、次の諸点が指摘できる。イギリス植民地の場合、比較的初期からアフリカ人を政治へ参画させたことにより、独立後の政治運営がベルギー領と比べてスムーズにいっている。フランス植民地の場合は、「同化政策」によってフランスとの一体化が進み、独立後もイギリス植民地に比べて本国とのきずながより強い(ただしギニアは、はっきりとそれを拒絶した)。一般的に鉱物資源の豊富な国(コンゴ民主共和国)や、ヨーロッパ人の入植地(ケニア)のような所では、ヨーロッパ人の権益保持のため、ほかに比べて独立が難航した。
 とくにもっとも悲惨であったのは、アフリカ人の近代政治への参加を許さず、アフリカ人の独立要求に対し、いわば責任を放棄する形で事態を投げ出したベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)であった。すなわち、世界有数の銅、コバルトなどの鉱産資源を有するコンゴに外国企業があくまでも利権を保持しようと画策したことが、独立直後の同国を政治的混乱に陥れた。1960年6月の独立5日後、ベルギー司令官に対する軍隊の反乱が起こり、さらに7月には産銅地帯カタンガ州(現シャバ州)のチョンベが同州の「分離独立」を宣言した。ルムンバ首相は国連軍の出動を要請し、コンゴ問題は国際化した。9月にはルムンバ首相とカサブブ大統領の意見が衝突し、相互に解任しあう事態となり、その間に陸軍参謀長モブツ大佐がクーデターを起こし、ルムンバ首相を逮捕して、のちに殺害した。[林 晃史]

独立後の諸問題

独立後のアフリカ諸国が直面した問題は、政治面では国家建設の方向を決めること、経済面ではモノカルチュア経済構造を払拭(ふっしょく)することであった。まず多くの国々が採用した方向として、社会主義路線がある。第一は、アフリカ社会主義とよばれるもので、1967年のアルーシャ宣言に基づくタンザニアのウジャマー社会主義がその代表例である。その骨子は、植民地化以前のアフリカ社会がもっていた共同体の原理を生かして、農民と労働者だけからなる搾取のない平等な社会を建設していこうとするものである。この原理に基づいて、従来白人が握っていた銀行、保険会社、外国貿易企業などの基幹産業の国有化、ないし政府の過半数株式取得による経営参加が行われた。一方、国民の90%以上が従事する農業に関しては、従来の小農形態から共同農場、共同作業、労働に応じた生産物の配分という集団化が行われた。第二は、マルクス・レーニン主義に基づく科学的社会主義の採用である。モザンビークやアンゴラでは、すべての基幹産業は国有化され、人民の所有となった。さらに前衛党として一党独裁制をとり、経済の計画化、労働組合を通しての人民の経営参加を推し進め、対外的には旧ソ連・東欧、中国などとの関係を深めた。
 経済面での問題は、植民地的経済構造の破壊による経済自立化である。その手段として第一にとられたのが、白人入植地域では入植地のアフリカ人への返還であり、1962年のケニアの「100万エーカー入植計画」はその例である。入植地を細分化してアフリカ人に再入植させ、アフリカ人の中農を育成するとともに、都市に滞留している失業者への土地再配分を行った。また入植地以外では、灌漑(かんがい)施設の建設や肥料の導入など、制度的、技術的面での改革がなされ、それを金融面で援助するための土地銀行や公社などが創立された。第二に、植民地期に白人、インド人が占めていた部門へのアフリカ人化政策が実施された。しかし、熟練者、技術者の少ないことから運営面でさまざまな問題が起きた。
 以上を含め、経済全体を多角化し、バランスのとれた経済構造を創出していくために、ほとんどの国は経済開発計画を作成し、その目標に沿って経済開発を進めている。それに共通していえることは計画実現のための資金不足で、その資金を外国からの援助(借款、供与)に依存した。さらに農産物など圧倒的に一次産品輸出に依存しているアフリカ諸国は、国際経済の変動の影響を受けやすく、1973年の石油危機以降、経済開発計画が大幅に修正されなければならなくなった。
 このように交易条件の悪化と債務の累積による経済的危機は、国民の不満を増大させ、その不満を先取りした軍部による政権転覆を企てるクーデターが、独立後のアフリカ諸国では頻発している。1965年のアルジェリア、1966年のガーナ(エンクルマの失脚)、ナイジェリア、ブルンジ、オートボルタ(現ブルキナ・ファソ)、中央アフリカ、1967年のダオメー(現ベナン)、トーゴ、シエラレオネ、1968年のマリ、コンゴ(現コンゴ共和国)、1969年のリビア、ニジェール、ソマリア、スーダン、1971年のウガンダ、1972年のダオメー(現ベナン)、ガーナ、マダガスカル、1973年のルワンダ、1974年のニジェール、エチオピア、1975年のナイジェリア、チャドと、クーデターの例は枚挙にいとまがない。軍事政権のなかには、「過渡的」使命を果たして文民政権へ移行しているものもあるが、逆に軍事政権が長期化しているケースもある。[林 晃史]

南部アフリカの解放闘争

1960年のアフリカ独立の波は南部アフリカには波及せず、この地域に独立の夜明けが訪れたのは約5年後の1960年代なかばであった。その最大の理由は、同地域は金、バナジウム、ダイヤモンド、白金、クロム、マンガン、ウラン、銅など鉱産資源が豊富で、それを目的に多くの白人が入植し、また欧米の投資の対象となり、白人の権益が深く根を下ろしているためであった。
 この地域では独立の過程は以下の3段階に分けることができる。第一は、1960年代なかばに独立した国々、つまりマラウイ、ザンビア(1964)、レソト、ボツワナ(1966)、スワジランド(1968)で、いずれも宗主国イギリスとの平和的交渉によって独立した点で、1960年に独立した他のイギリス領アフリカと共通点をもっている。
 第二は、さらに約10年後に独立したポルトガル領モザンビークとアンゴラ(1975)で、いずれも長期にわたる激しい武力闘争を経過した。モザンビークでは、1964年から全民族的なモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によるゲリラ闘争が行われた。また1961年から始まったアンゴラでの武力闘争では、民族主義的なアンゴラ解放人民運動(MPLA)、部族を基盤とするアンゴラ国民解放戦線(FNLA)、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)の各解放勢力が分裂、対立した。分裂は東西勢力の介入を招き、旧ソ連、キューバがMPLA、ザイール(現コンゴ民主共和国)と中国がFNLAを、アメリカ、南アフリカ共和国がUNITAをおのおの支援し、結果的には1974年にポルトガルで軍事クーデターが起こり、植民地解放は早められた。
 第三は、さらに5年後のジンバブエ(旧南ローデシア)の独立(1980)と、1990年のナミビア(旧南西アフリカ)の独立である。第一と第二段階が宗主国対アフリカ人解放勢力という二極構造であったのに対し、ジンバブエでは宗主国イギリス対白人入植者対アフリカ人解放勢力、ナミビアでは国連対南アフリカ共和国対アフリカ人解放勢力と、それぞれ三極構造になっている。さらに武力闘争の過程で、東西勢力および周辺アフリカ諸国が介入し、いっそう複雑化している。ジンバブエでは、1965年に白人入植者が宗主国の命令を無視して一方的独立宣言をしたのが問題の発端である。このためイギリスは入植者政府とたび重なる交渉をし、アフリカ人の意見を聴取したうえで独立を与えると主張したのに対し、入植者政府は傀儡(かいらい)的アフリカ人首長層の同意がアフリカ人全体の意志であるとして譲らず、交渉はつねに決裂した。初めその交渉を見守っていたエンデベレ人のジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)と、ショーナ人のジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)のアフリカ人解放勢力は、1975年のビクトリア・フォールズ会談を契機に団結し、統一アフリカ民族評議会(UANC)を結成した。しかしこの会談は決裂し、UANCはふたたび分裂して、以後交渉による解決を断念し、ZAPUはザンビアに基地を置き、旧ソ連が武器援助した。ZANUはモザンビークを拠点にして中国の支援を受け、激しい武力闘争を繰り返した。この事態を打開するため、アメリカの国務長官キッシンジャーは、南部アフリカ往復外交によって妥協案を提示し、それに基づいて1976年ジュネーブ会談が開かれたが失敗した。その後、イギリスがアメリカと協力して新提案を準備している間に、入植者政府は国内穏健派アフリカ人と「国内解決」を図り、1979年6月「ジンバブエ・ローデシア」傀儡政権が成立した。それに対し、アフリカ人解放勢力とイギリス、アメリカは反対し、周辺諸国がイギリスに働きかけ、同年秋から制憲会議が開かれ、全当事者が出席して討議した結果、和解が成立し、1980年4月独立が実現した。
 ナミビアはドイツ領であったが、第一次世界大戦後、南アフリカ連邦の委任統治領となり、南アフリカ政府は人種差別政策をこの地域にも適用した。第二次世界大戦後、国連は南アフリカ連邦に対しこの地域を信託統治領として、人種差別をやめるように勧告したが、南アフリカ政府はこれを無視した。そのため、国連はこの問題を国際司法裁判所に提訴したが、1966年裁判所が南アフリカ政府の言い分を認めたため、それを契機に南西アフリカ人民機構(SWAPO)は武力闘争に踏み切った。国連はナミビア問題理事会を設置して解決にあたると同時に、1968年国名をナミビアと改め、1971年には裁判所も南アフリカ政府の統治を不法と裁定した。一方、南アフリカ政府は、SWAPOを除く穏健派アフリカ人と謀り、国連の勧告を無視して1978年末総選挙を実施し、「国内解決」を目ざした。これに対し、国連安保理事会5か国は、国連監視下での一人一票制に基づく公正な選挙を実施させるため働きかけ、南アフリカ政府と交渉し、1981年ジュネーブ会談までこぎつけたが、南アフリカ政府側の一方的理由によって決裂した。1988年南アフリカはキューバ軍のアンゴラからの撤退を条件に独立を認めると提案、関係各国で和平交渉が開始された。翌1989年11月には国連・南アフリカ共同監視下のもと、独立のための憲法制定議会選挙が行われ、SWAPOが過半数を制し、1990年3月ナミビアは独立を達成した。
 そして最後に残った白人支配の南アフリカ共和国は、周辺でのアフリカ人解放闘争の高まりに対し、国内では全国土のわずか13%にアフリカ人を押し込める分離発展政策を実施した。部族ごとに10のホームランドをつくり、初めの段階ではアフリカ人に若干の自治を許し、ついで「独立」を与え、トランスケイ(1976)、ボプタツワナ(1977)、ベンダ(1979)、シスケイ(1981)が「独立」したが、国際社会はこの「独立」を認めなかった。対外政策では、周辺諸国に対してデタント(緊張緩和)政策をとり、1979年のコンステレーション(南部アフリカ国家連合)政策では南部アフリカへの共産勢力の浸透を阻止するため、経済面での地域協力を呼びかけたが、これに対し周辺諸国は逆に、南アフリカ共和国の経済的支配を脱するために、1979年に南部アフリカ開発調整会議を結成し、それに対抗しようとした。
 国際社会の非難が高まるなか、南ア政府は1984年に黒人を除外した人種別三院制議会を発足させたが、これを契機に黒人の反アパルトヘイト闘争は激化した。1986年6月政府は非常事態宣言を発令し弾圧を強化したのに対し、国際社会は対南ア経済制裁を断行した。1989年9月に発足したデクラーク政権は、従来の国民党の方針を転換し、黒人との対話を通して将来の南アフリカを決めていくという対話路線を採用し、アフリカ民族会議(ANC)を合法化して、ANC最高指導者マンデラを含む政治犯を釈放した。そして翌1990年にANCと二度にわたる予備交渉を経て、1991年12月と1992年5月に全人種代表からなる民主南アフリカ会議(CODESA)を開催、さらに1993年4月と7月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムを開催し、1993年末には選挙までの移行期間の政体として暫定執行評議会(TEC)を発足させ、暫定憲法を制定した。
 この暫定憲法に基づき、1994年4月、南ア史上初の全人種参加の選挙が実施され、ANCが圧勝し、同年5月、ANC議長マンデラが大統領に選ばれ、国民統合政府(GNU)が発足し、アパルトヘイト体制は崩壊した。[林 晃史]

構造調整下のアフリカ経済

1970年代の二度にわたる石油危機、アフリカ大陸を広く覆った旱魃(かんばつ)、主要輸出品である農鉱産物の価格低迷、高い人口増加率、独立以来の一党支配体制下での経済運営のまずさと政治腐敗等により、アフリカ諸国の対外債務は進み、経済危機に陥った。このため1980年代以降、アフリカ諸国は援助・融資と引き換えに国際通貨基金(IMF)・世界銀行の構造調整政策(SAP)を受け入れざるを得なくなり、市場原理に基づく経済自由化が進んだ。このSAP実施に伴って社会的弱者へのしわ寄せなど社会的側面が問題化し、国民の不満は政治への不安定要因となった。また冷戦終結により、アフリカ大陸の戦略的地位は低下し、主要先進国の関心は薄れ、援助が減少し始め、アフリカの「周縁化」が起こっている。このため世界銀行は1988年以降、3次にわたる特別援助計画(SPA)、国連は1996年に国連システムワイド・アフリカ特別イニシアティブを発表し、アフリカ向け支援を増大させた。[林 晃史]

アフリカの政治的民主化

1980年代末の冷戦構造の崩壊の影響を受けて、アフリカ大陸各地で政治的民主化が進んだ。その現象としては、独立以来続いた一党制から複数政党制への移行、複数政党制下での民主的選挙の実施(多くの場合、国連の派遣する選挙監視団の監視下で)、社会主義路線をとった国ではマルクス・レーニン主義の放棄、内戦が続いた国では内戦の終結であった。この政治的民主化は1990年代なかばにほぼ完了したが、政治的民主化即政治的安定とはなっていない。不安定の要因はさまざまあるが、アフリカの多くの国が多民族国家であることから起こる民族対立、民族を基盤とする政党間の対立、政権党の政治腐敗、また構造調整政策による公務員削減、公社の民営化に伴う失業増大などで各地でデモやストライキが起こっている。このため世界銀行は1990年以降融資の条件として、アフリカ諸国の政策担当者にグッド・ガバナンス(行政の責任性、透明性、予測可能性、公開性、法の支配)を要求している。[林 晃史]

南アフリカの民主化

マンデラ政権が目ざしたのは、政治的には民族和解・協調、経済的には経済成長と経済格差是正を二本柱とする復興開発計画(RDP)の実施、対外的には国際社会への復帰、とくに周辺諸国との関係改善であった。
 民族和解・協調では、アパルトヘイト体制下の白人と黒人の対立ばかりでなく黒人間の対立の解消を目ざした。この政策の重要な一環として実施されたアパルトヘイト期の人権侵害、政治的抑圧の真相究明を目ざす真実和解委員会(委員長、D・ツツ大司教)は1994年12月に発足し各地で公聴会を重ねた後、1998年10月に最終報告書を公表した。これによって多くの事実が明らかにされたが、アパルトヘイト期の対立はただちに解消されたわけではない。
 第二のRDPの実施は、制度、資金、人材の不足から大幅に遅れ、失業問題と社会犯罪は深刻化した。このため政府は1996年以降、経済成長を重視するマクロ経済成長戦略(GEAR)を採用した
 外交面では南アフリカはイギリス連邦、国際連合に復帰し、また周辺諸国からなる南部アフリカ開発共同体(SADC)に加盟、また台湾と断交し中国と国交を樹立した。
 このような状況下で1997年12月に開かれたANC党大会で、政界からの引退を表明していたマンデラにかわり、副大統領のムベキThabo Mbeki(1942― )が新議長に就任した。ついで1999年6月に実施された第2回総選挙でANCが再度勝利し、ムベキ政権が発足した。新大統領ムベキはGEARを押し進めるとともに、対外的には全アフリカ大陸の再生を目ざすアフリカン・ルネサンス構想を打ち出し、冷戦終結後、周縁化したアフリカ大陸を貿易と投資を通じて再活性化しようとしている。[林 晃史]
『R・オリバー他著、アフリカ協会訳『アフリカの歴史』(1964・時事通信社) ▽西川潤編『ドキュメント現代史12 アフリカの独立』(1973・平凡社) ▽ウォルター・ロドネー著、北沢正雄訳『世界資本主義とアフリカ』(1978・柘植書房) ▽星昭他著『アフリカ現代史』(1978~1986・山川出版社) ▽林晃史編『アフリカの21世紀第1巻 アフリカの歴史』(1991年・勁草書房) ▽宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』(1997・講談社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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