目次 自然 住民,社会 歴史 政治 経済 基本情報 正式名称 =マダガスカル共和国République de Madagascar 面積 =58万7041km2 人口 (2011)=2130万人 首都 =アンタナナリボAntananarivo(日本との時差=-6時間) 主要言語 =マラガシ語,フランス語 通貨 =アリアリAriary
アフリカ大陸の南東方,モザンビーク海峡を間にインド洋上にある島国。マダガスカル島は世界4位の大きさで,〈大きな島〉と愛称されてきた。
自然 マダガスカル島はゴンドワナ大陸に属し,古生代末期以来の大陸移動に伴って切り離されたものと考えられる(大陸移動説 )。アフリカ大陸と同様,基盤は先カンブリア界の花コウ岩や片麻岩で,これをおおって古生代末から中生代にかけての堆積岩,いわゆるカルー系(下部は陸成,上部は海成)が発達している。現在の地形は,東側から直線的な海岸線と狭い海岸平野,階段状の急斜面,波状の中央高地,ケスタ地形を示しながらゆるく低下する斜面,比較的屈曲に富む(とくに北部)海岸低地に大別される。中央高地の北端部にあるツァラタナナ山地のマルムクトル山(2886m)は島の最高峰である。新生代に入って弱線に沿う火山活動が起こり,中央部のアンカラトラ山地(最高はチアファジャブナ山。2643m)をはじめ,いくつかの火山体が形成された。ケスタ状の西斜面はカルー系で構成され,古生物研究の好適地が多い。東斜面の河川は短く,急流であるが,西斜面には北からベツィボカ,ツィリビヒナ,マンゴキ,オニラヒなどの諸水系が発達している。これらの河口部にはマングローブ林がみられ,海岸(とくに北岸と南西岸)にはサンゴ礁が形成されている。
気候は熱帯性で,暖季の南東貿易風と冷季の北西季節風,地形などに大きく支配される。東斜面は年平均気温20~25℃,一年を通して降水に恵まれ,年2500~3500mmにもおよぶ。これに対して,西斜面では夏の雨季と冬の乾季が目だち,その北部の年降水量は1500mmをこえるが,南にいくにつれて少なくなり,南端部では400mmに満たなくなる。気温は東岸より暑さがきびしい。中央高地では,気温は年平均15~20℃と和らげられ,年降水量は北部の1500mmから南部の1000mmへと変化する。島の北半部は夏にサイクロンに襲われる。
自然植生は人間活動によってほとんど失われ,東斜面の一部に降雨林や季節風林が残されているにすぎず,東岸低地や中央高地の大部分はサボカsavokaと呼ばれる低木性二次林に占められている。西斜面では乾季に強いバオバブやユーフォルビアを伴うサバンナが卓越し,南西部では有棘種や多汁種の目だつ半砂漠の景観となる。またインドリ,アイアイ,キツネザルなどの原猿を代表に,大陸から分離した後に独自の進化をとげた生物群が興味をひく。 執筆者:戸谷 洋
住民,社会 マダガスカルの住民は,インドネシアやマレーシアの住民と近縁で,言語もアウストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)の,とくにボルネオ南西部の言語と近いと考えられている(アウストロネシア語系諸族 )。またマレー系やインドネシア系に加えて,アラブやアフリカ黒人も移住し混血しており,多様な文化要素が混在している。
中央高地に住むメリナ族Merinaは最も人口が多く,総人口の約30%を占めている。インドネシア系の形質が最も明確に認められ,毛髪も黒く縮れている。おもに灌漑による米作農業に従事し,牛も飼養する。祖先崇拝を守り,立派な石の墓をつくる。木彫が巧みで,家屋の装飾が見事なことで知られている。19世紀にヨーロッパの植民地勢力の間隙をぬって,メリナ族の王国は勢力を広げ,全島の2/3を支配した。中南部の高地に住むベツィレオ族Betsileoは人口が3番目に多い部族で,米作を行う。
東海岸の熱帯降雨林に住むアンタイサカ族Antaisaka,ザフィマニリ族Zafimaniryや2番目に人口の多いベツィミサラカ族Betsimisarakaは,森の民を意味するタナラ族 と総称されることもある。彼らは焼畑農業に従事し,イネ,バナナ,キャッサバなどを主作物として栽培するほか,コーヒー,バニラなどの商品作物も生産する。タナラ族は統一的な政治組織をもたず,おのおの孤立した村々は長老の権威で支配されるにすぎない。住居は一部屋だけの簡素なものであるが,壁や窓,扉の幾何学模様の彫刻が有名である。
中央高地と東海岸の間の急斜面には,シハナカ族Sihanaka,ツィミヘティ族Tsimihetyが牧畜を行うかたわら,陸稲や水稲の栽培も行っている。シハナカ族はアラオトラ湖付近に住み,一部は漁労にも従事する。
西部や南部の平原にはアンタンドロイ族Antandroy,バラ族Bara,マハファリ族Mahafaly,サカラバ族Sakalavaが居住する。彼らは牛を飼養する牧畜民であるが,サカラバ族とマハファリ族は王国を形成したことがある。また西海岸に住むベゾ族Vezoは漁労に従事している。
島の北端部の山中に居住するアンタカラナ族Antakaranaは,マダガスカルの住民のなかで最も黒人系に近く,牛を飼育するが,海岸地域に住む者はアウトリガー付きカヌーを用いて漁業に従事する。アンタカラナ族はイスラムの影響を受けている。
このようにマダガスカルの社会,文化は,インドネシア系,アフリカ黒人系,アラブ系などの要素が互いに入りまじっており,それらを識別して取り出すことも可能であるが,全体を通じてみると,混交の結果としての同質性が認められる。住民の言語は部族ごとに少しずつ異なるが,マラガシ語に統一されている。公用語はマラガシ語と,かつての宗主国のフランス語である。最近では英語も学校で教えられている。19世紀初めから,メリナ族などでキリスト教の布教が進んでいる。北部ではイスラム教徒を自称する住民が多い。 執筆者:赤阪 賢
歴史 原住民は上述のように東南アジア系で,初めアフリカ大陸東海岸に移住し,10世紀ごろマダガスカル島に移住したといわれている。17世紀初め中央高地に中央集権的なアンドリアナ王国(のちのメリナ王国)が建国された。19世紀初めからイギリスとフランスの布教活動が開始され,1869年に女王ラナバロナ2世がキリスト教に改宗して新教が国教となり,キリスト教は全土に広がった。1884-85年のベルリン会議 によってマダガスカルはフランス植民地となったが,カトリックのフランス支配に対して住民はしばしば抵抗した。96年のメナランバの反乱,1904年の反乱はいずれも武力で鎮圧されたが,13年最初の民族運動組織である〈ビ・バト・サケリカVy Vato Sakelika(鉄と石)〉が結成された。
第2次世界大戦中,マダガスカル植民地政府がフランスのビシー政府を支持したため,イギリスは42年にマダガスカルを占領し,43年ド・ゴールの自由フランス政府に返還した。47年ラセタJoseph Rasetaの率いるマダガスカル革命民主運動が,フランスの植民地支配に対し大規模な抵抗を起こしたが鎮圧された。フランスは56年フランス植民地に大幅な自治を認める基本法を制定し,58年にはド・ゴール大統領がフランス共同体構想を打ち出した。これに基づきマダガスカルは同年10月,フランス共同体内の自治共和国となった。そして60年6月26日にマダガスカル共和国として独立を達成し,社会民主党のツィラナナPhilibert Tsirananaが初代大統領に就任した。
ツィラナナ大統領は独立後もフランスとの関係を維持した。61年に旧フランス領12ヵ国の元首が首都アンタナナリボに集まり,経済・社会面での相互の協力を目的とするアフリカ・マダガスカル連合(のちのアフリカ・マダガスカル・モーリシャス共同機構)が結成された。また南アフリカ共和国との友好関係も維持した。しかしツィラナナの親仏政策に反対する動きが起こり,72年5月ラマナンツォアGabriel Ramanantsoa少将に率いられた軍隊がクーデタを起こし,政権を握った。
政治 ラマナンツォア新軍事政権は議会の代りに人民国家開発評議会を置き,73年にはマダガスカルに駐留するフランス軍の撤退を要求し,南ア共和国と断交した。代わって中国,ソ連,東欧諸国と外交関係を樹立し,アフリカ・マダガスカル・モーリシャス共同機構から脱退するなど,社会主義路線に転換した。75年2月軍内部で抗争が起こり,ラツィマンドラバ大佐が権力を掌握したが,6日後に暗殺され,アンドリアマハゾ将軍が全権を受け継ぎ,軍評議会を設置した。
軍評議会は75年6月ラツィラカDidier Ratsiraka海軍少佐を国家元首に任命した。ラツィラカは12月に新憲法を制定し,軍評議会を解散し,代わって次の5機構を置いた。(1)ラツィラカを議長とする最高革命評議会,(2)行政の最高機構として首相を長とする内閣,(3)立法府として人民国家議会,(4)司法府として立憲最高裁判所,(5)国防・社会・経済開発計画諮問機構として軍事開発委員会である。また新憲法制定とともに国名をマダガスカル民主共和国に改め,国家建設の方向として,社会主義路線を標榜した。ラツィラカは76年1月,新体制下の大統領に就任した。その後,ラツィラカは82年,89年の大統領選に圧勝し,国会選挙でも与党のマダガスカル革命前衛党が大勝を続けたが,国内経済が振るわないため,時折暴動が発生するなど,政治情勢は不安定であった。
冷戦終結後の政治的民主化の潮流の中で,社会主義路線を堅持しようとするラツィラカと,憲法を改正して政治的民主化を求める反政府勢力の対立が激化した。反政府勢力は90年12月〈行動する勢力〉(略称FV。指導者ザフィAlbert Zafy)を結成,改憲を要求した。91年5月政府の改憲案が提示されたが不十分であったため,FVは野党を含む暫定政府樹立を要求,大規模なストライキを実施した。同年7月にFVは一方的に暫定政府を樹立した。政府はこれを弾圧する一方,新憲法策定のための国民投票を提案し,新首相にラザナマシを任命した。FVはこれを傀儡政権と非難し抗議行動を行った。この結果同年10月,政府とFVは暫定政府樹立に合意,暫定政府は92年内の国民投票,大統領選挙,総選挙の日程を明らかにした。日程より遅れて92年8月新憲法が採択されて国名がマダガスカル共和国となり,11月の大統領選挙でザフィがラツィラカを破り新大統領に就任した。93年8月の総選挙ではFVが勝ち,ラボニが首相に任命された。新政府は市場経済政策を採用し,95年には世界銀行,IMFの構造調整計画の受入れに合意した。しかし,構造調整計画に対するザフィをはじめとする国内諸勢力の反対は強く,政権は不安定化した。こうした状況下で96年12月に実施された大統領選挙で,ラツィラカが再選された。
マダガスカルは独立直後の1960年9月に国連に加盟し,63年にはアフリカ統一機構(OAU)の結成メンバーになった。ラツィラカは東側諸国との関係を重視したが,78年9月のフランス公式訪問後,対仏関係は回復した。さらにヨーロッパ共同体(EC)との第2次ロメ協定 にも調印するなど,外交面では柔軟な姿勢を示している。
経済 マダガスカルは,国内総生産(GDP)に占める農業の寄与率が約40%,労働力人口の約80%が農業に従事していることから明らかなように農業国である。主要農産物は主食の米のほか,サトウキビ,キャッサバ,コーヒー,ラッカセイ,綿花,豆類,チョウジ(丁子),タバコ,コショウ,バニラなどであり,フランス人経営のサトウキビ,コーヒーの大農園は1977年国有化された。牧畜も盛んで,牛,豚,羊,ヤギ,鶏などが飼育されている。工業は未発達で,わずかにある工業のほとんどは精米,缶詰などの農産品加工業である。その他の工業としてセメント,紙・パルプ,石油精製,製靴,マッチ,化学肥料,プラスチック加工,自動車組立て,トランジスター・ラジオ組立てがあるが,それらは首都のアンタナナリボやアンツィラベ,マハジャンガ,アンツェラナナ,トゥアマシナの諸都市に集中している。鉱産資源としては雲母,黒鉛,クロム,ジルコン,緑柱石(ベリル)などを産出するが,それらはほとんど外資系企業によって採掘されている。
主要輸出品は農・鉱産物の一次産品で,輸入品としては機械,輸送機器,工業製品,食糧,石油が大半を占めている。おもな貿易相手国はフランス,アメリカ,ドイツ,日本などである。
独立から現在まで経済開発計画を実施してきたが,1972年の軍事政権成立以降,国家建設の目標として社会主義が打ち出され,開発計画もその線に沿って,農村共同体(フォコノロナfokonolona)と協同組合を基盤とする農村改革を通して農業生産を拡大することに主眼が置かれた。さらに74年6月にはフランス系銀行,保険会社を国有化し,8月には国内・国外貿易を扱っていたフランス系のマルセイユ社を国有化したほか,国家が外資系企業の株式の過半数を所有するなど,一連の国有化,アフリカ人化が進められた。しかし,第1次石油危機以降の石油輸入額の増大,70年代末のサイクロンの災害による農業生産の不振による食糧輸入の増大によって財政的には苦しい状態にあり,IMFなどの国際金融機関からの援助,2国間援助に大きく依存している。 執筆者:林 晃史