マダガスカル(読み)まだがすかる(英語表記)Madagascar

翻訳|Madagascar

共同通信ニュース用語解説 「マダガスカル」の解説

マダガスカル

アフリカ南東部に位置するインド洋の島国。面積約58・7万平方キロで日本の約1・6倍、人口約2357万人(2014年)。農漁業が主要産業で旧宗主国のフランスとの関係が深い。アジアとアフリカの間の主要な海上航路上にあるなど地政学上優位な位置にあるため、安全保障や経済面で重要な役割を果たす可能性がある。人種はマレー系で、文化的にもアジアに近い。日本語学習や武道が盛んとされる。固有種の動植物が多く、珍獣のサルのアイアイが有名。

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精選版 日本国語大辞典 「マダガスカル」の意味・読み・例文・類語

マダガスカル

  1. ( Madagascar ) インド洋南西部、アフリカ大陸の南東方にあるマダガスカル島と、その属島からなる共和国。正式名称はマダガスカル共和国。一八八五年フランス領となり、一九六〇年に独立。米・サトウキビ・コーヒー・バニラなどを産する。モザンビーク海峡でアフリカ大陸と隔てられているため、動植物に固有種が多い。首都アンタナナリボ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マダガスカル」の意味・わかりやすい解説

マダガスカル
まだがすかる
Madagascar

アフリカ大陸の南東部から、モザンビーク海峡を隔てて392キロメートル東のインド洋にある島国。正称マダガスカル共和国République de Madagascar。世界第四の大島マダガスカル島と沿岸の小島からなる。面積58万7041平方キロメートル、人口1597万(2000推計)、2583万3588(2018センサス)。首都はアンタナナリボ(旧称タナナリブ)。

[林 晃史]

自然・地誌

マダガスカル島は南北に脊梁(せきりょう)山脈が走り、その東側は急傾斜でインド洋に落ち込み狭い東部海岸線をなす。一方、西側は緩い傾斜でモザンビーク海峡に延び、広い平野部を形成している。北部のアンチラナナ州には島の最高峰ツァラタナナ山(2886メートル)がある。北西部の平野は穀倉地帯、南西部の平野は米、綿花、タバコ、キャッサバの栽培が盛んである。南端部は鉱産資源が豊富であり、東部海岸線は暑く、コーヒー、バニラ、チョウジ、サトウキビの栽培に適し、最大の港タマタブ(トアマシナ)がある。中央高地は首都アンタナナリボを含む行政、文化の中心地である。気候は、東部、北西部の雨量の多い熱帯性気候、西部、南部の乾燥地域気候、中央高地の温帯気候と変化に富んでいる。

[林 晃史]

動物相

アフリカ大陸からの距離は約400キロメートルと比較的近いが動物相は特異であり、動物地理学上はセイシェル諸島など隣接諸島とあわせて旧熱帯区のマダガスカル亜区として区分される。概して種類数は多くなく、東洋亜区(インド、東南アジア)よりはエチオピア亜区(アフリカ)に近いが、マダガスカル特産の動物群が多い。

 哺乳(ほにゅう)類は翼手(よくしゅ)類と人間が持ち込んだとみなされるものを除くと、食虫類、霊長類、齧歯(げっし)類、食肉類の4目だけが生息する。食虫目のテンレク科はマダガスカル特産で、ハリネズミに似た地上性の種、モグラに似た地中性の種、カワネズミに似た水生の種など約30種に適応放散している。霊長目は原猿類のキツネザル科、インドリ科、アイアイ科だけが生息し、齧歯目(キヌゲネズミ類)と食肉目(ジャコウネコ類)は固有のそれぞれ数属に分類される。

 鳥類ではマダガスカルモズ類やジカッコウ類が適応放散し、飛べない鳥のクイナモドキ科の特産種や絶滅した巨鳥のエピオルニスがよく知られている。その他の動物群にも特産種が多いが、淡水魚は一種も生息しない。

 かつて、マダガスカルの特異な動物相を説明するため、古代にアフリカとインドを結ぶレムリア大陸があったと想定されたが、現在では否定されている。

[新妻昭夫]

植生

全般に乾燥していてマメ科(ジャケツイバラ亜科)やバオバブ類(アダンソニアAdansonia)などの樹木の疎生するサバナの面積が広い。南部は乾燥が厳しく、ユーフォルビアパキポディウムなどの多肉植物と、刺(とげ)植物の低木群落で占められる。島の東部寄りには南北に走る山地があり、ここではやや雨量が多く、密集した雨緑林がみられる。山頂部は硬葉樹の低木林、あるいはツツジ科のヒース状の群落となっている。種類相は、アフリカ中部、およびインド西部からサハラにかける地域と類縁をもつが、総種数の85%が固有種で、ディディエレア科など五つの固有の科がある。マダガスカルの植生は独立性が高く、セイシェル島などとともに旧熱帯植物区系界のなかにマダガスカル区系区としてまとめられる。

[大場達之]

歴史

マダガスカルの先住民は東南アジア出身で、アフリカ大陸の東海岸に移住したのち、10世紀ごろマダガスカル島に移住したといわれる。そして17世紀初頭、中央高地にアンドリアナ王国(後のメリナ王国)を建設した。王国はアンドリアナ王家と貴族階級(ホバ)、奴隷(アンデボ)からなる中央集権的王国であり、王都はアンタナナリボに置かれた。ヨーロッパ人の渡来は1500年のポルトガル人が最初で、オランダ、イギリス、フランスがこれに次いだ。

 19世紀初頭にイギリスとフランスの宣教師による布教活動が始まり、1862年に両国の領事館が置かれた。1869年ラナバロナ2世(1829―1883)がキリスト教(プロテスタント)に改宗し国教として以降、キリスト教は全土に広がった。アフリカ分割を決めた1885年のベルリン会議の結果フランス領となったが、カトリック国フランスの支配に対しプロテスタントのマダガスカル人は反抗し、1895年フランスは武力を用いて制圧した。しかし植民地化以後もマダガスカル人の反抗は続いた。1896年のメナラムバの反乱、1904年の反乱が鎮圧されたのち、1913年には民族運動組織「ビ・バト・サケリカ」(「鉄と石」の意)を結成しフランスの支配に抵抗した。

 第二次世界大戦中に植民地政府がフランスのビシー政府を支持したため、1942年イギリス軍は日本軍の侵攻に備えることを口実にマダガスカルを占領した。翌1943年イギリスはマダガスカルをドゴールの自由フランス政府に引き渡した。1947年3月、フランス支配に対しマダガスカル革命民主運動(1946結成。党首ラセタJoseph Raseta、1886―1979)の指導による大規模な抵抗が起こり、多数の犠牲者を出して鎮圧された。1956年フランスは基本法を制定して植民地に対し大幅な自治を認めた。同年P・チラナナは社会民主党(PSD)を結成し、フランス議会のマダガスカル代表議員となった。1958年フランスの第五共和政移行とともにドゴールがフランス共同体構想を打ち出したため、同年10月マダガスカルは同共同体内の自治国となり、1960年6月26日フランスから正式に独立してチラナナが初代大統領となった。

 独立後、チラナナは親西欧(とくにフランス)政策をとった。1961年には旧フランス領12か国の元首がアンタナナリボに集まって経済、社会面での協力を目的とするアフリカ・マダガスカル連合(のちアフリカ・マダガスカル共同機構OCAM)を結成するのに重要な役割を果たした。さらに人種主義の南アフリカ共和国とも友好関係を保った。1972年5月、チラナナの政策に反対する学生のストライキに対する弾圧を契機に、軍隊がクーデターを起こし少将ラマナンツォアGabriel Ramanantsoa(1906―1979)が政権を握った。

[林 晃史]

政治・外交

ラマナンツォアは国家資本主義を標榜(ひょうぼう)し、議会にかわって人民国家開発評議会(CNPD)を置いた。同評議会は1973年フランス軍の撤退を要求し、南アフリカ共和国との関係を断ち、かわりにソ連、東欧と外交関係を樹立した。同時にOCAMおよびフラン圏からも脱退した。1975年2月軍内部の権力抗争によって大佐ラチマンドラバRichard Ratsimandrava(1931―1975)がラマナンツォアにかわって政権を掌握したが、6日後に暗殺され、将軍アンドリアマハゾGilles Andriamahazo(1919―1989)が全権を掌握して軍評議会を設置した。同年6月軍評議会は国家元首として新たに元外相ラチラカDidier Ratsiraka(1936―2021)を任命した。ラチラカは同年12月新憲法を制定するとともに軍評議会を解散し、かわって以下の諸機構を設置した。(1)ラチラカを議長とする最高革命評議会、(2)行政府の最高機関として首相を長とする政府、(3)立法府として人民国民議会、(4)司法府として立憲最高裁判所、(5)国防・社会経済開発計画諮問機関として軍事開発委員会の五つである。さらに国家建設の方向として社会主義路線を主唱し、その基盤は政府の奨励する農村共同体(フォコノローナ)にあるとした。

 外交面ではラチラカは共産圏よりのラマナンツォア路線を継承したが、1978年9月のフランス公式訪問ののち対仏関係は修復された。そのほか国連、アフリカ統一機構(現アフリカ連合)にも加盟し、EC(ヨーロッパ共同体)との第二次ロメ協定にも調印した。

 一方、主要産業を国有化したため経済が停滞し、失業者の増加、インフレの激化を招いた。そのため1980年代には、クーデター未遂事件、労働者のストライキ、学生の抗議行動、インド人商店の焼打ちなどが頻発した。この危機を打開するためラチラカはIMF(国際通貨基金)の支援を得て経済自由化政策をとり始めた。

 1991年12月、反ラチラカ、反社会主義を要求して国家最高機関総裁ザフィAlbert Zafy(1927―2017)と首相ラザナマシGuy Willy Razanamasy(1928―2011)による挙国一致内閣が成立した。同内閣は1992年に改憲国民投票、大統領・国民議会選挙を実施することを約束した。その約束に従い、同年8月改憲国民投票が実施され、社会主義路線の放棄、複数政党制下の大統領、国民議会選挙が約束され、11月の大統領選挙でザフィが新大統領に就任した。

 しかし、その後ザフィ政権の統治能力、経済自由化政策に対する国民の不満が高まり、1996年5月に内閣不信任案が可決され、同年12月に実施された大統領選挙の決選投票でラチラカは50.7%の得票率で大統領に返り咲いた。2001年12月に行われた大統領選はラチラカとアンタナナリボ市長のラバロマナナMarc Ravalomanana(1949― )で争われたが、開票の結果、両者ともに過半数に至らず、決選投票を行うことになった。しかしこの開票結果に対して、不正が行われたとして2002年2月にラバロマナナが大統領当選を宣言し、2人の大統領が存在するという異常事態となった。それぞれの大統領を支持する軍どうしが衝突するなど混乱をきわめたが、7月にラチラカは家族とともにセイシェルに脱出し、ラバロマナナの勝利で対立は終結した。

 軍隊は、陸軍約2万人、海軍600人、空軍500人で、空軍は1978年以降ソ連と北朝鮮の援助を受けていたため、ミグ21型戦闘機8機を有する。

[林 晃史]

経済・産業

マダガスカルは農業立国であり、国内総生産(GDP)に占める農業の割合は約40%、全就業人口の約80%が農業に従事している。主要農産物は米、サトウキビ、コーヒー、バニラ、チョウジ、コショウ、綿花、サイザル麻、豆類、ラッカセイ、タバコである。さらに独立以降、東部海岸でパーム油と茶の栽培が進められている。フランス人によって経営されていたコーヒーやサトウキビのプランテーションは1977年国有化された。

 鉱産資源も豊富で、主要鉱産物として黒鉛、雲母(うんも)、クロム、ボーキサイト、ウランなどのほかアメシ(ジ)スト、ガーネットなどの宝石も産出する。ただしこれらの鉱産物採掘はほとんど外資系企業により行われている。近年石油探査がアメリカ、フランス、イタリアによって行われている。また北西部のソアララで鉄鉱脈が発見された。

 製造工業は未発達で、工業製品は国外からの輸入に依存している。わずかにある工業は農産物加工がほとんどで、その他の工業にセメント、紙、パルプ、石油精製、製靴、マッチ、化学肥料、プラスチック加工、自動車組立て、トランジスタ・ラジオ組立てなどがあり、そのほとんどは首都アンタナナリボのほか、アンチシラバ、マジュンガ、ディエゴ・スアレス(アンチラナナ)、タマタブ(トアマシナ)に集中している。カナダ、イラク、フランスの協力でアンデカレラ水力発電所が建設中である。

 主要輸出品は農・鉱産物の一次産品で、機械、輸送器機、工業品、食糧、石油が輸入の大半を占める。貿易相手国はフランス、アメリカ、ドイツ、日本など、恒常的な入超で赤字が続いている。

 交通は首都を中心とする脊梁(せきりょう)山脈部と北西海岸部を中心に全長約5万キロの道路があるが、東海岸部は未発達である。現在道路延長計画に世界銀行、中国、クウェート、アフリカ開発銀行が援助している。鉄道はタマタブ―アンタナナリボ―アンチシラバ間とフィアナランツォア―マナカラ間のものが主要路線で、西海岸へ通ずるものはない。主要港は東海岸のタマタブである。国際航空便はフランス航空、イタリア航空で、マダガスカル航空はおもに国内各地を結んでいる。

 ラチラカ政権は1975年以来社会主義統制経済を進めたが失敗し、1983年以降、IMF(国際通貨基金)、世界銀行の支援で構造調整計画(SAP)を実施した結果、1989年には経済成長率4%となり、経済は回復した。しかし、1991年以降の政情不安定と1994年の大型サイクロン(台風)の被害により経済はふたたび低迷している。

[林 晃史]

社会・文化

1993年実施のセンサスによる人口約1350万のうち、ヨーロッパ人(主としてフランス人)3万人、インド人1万5000人、中国人9000人を含む。インド人、中国人はおもに商業に従事している。マレー・ポリネシア系のマダガスカル語が公用語となっているが、フランス語、英語も学校で教えられている。1人当りの国民総所得(GNI)は250ドル(2000)と低い。経済活動人口の80%以上は農業に従事しており、サービス産業就業者が10%、工業労働者はわずか4%である。

 教育制度はフランス式で、6~14歳が小学生で義務教育にあたり、小学校は公立・私立含めて1万3672校、生徒数は約153万4142人。中学校は1142校、高等学校は366校、大学は6校ある(1994)。

 メリナ王朝のラナバロナ2世がキリスト教に改宗して以来プロテスタントが全土に広まったが、その後フランスの植民地化を通してカトリックも広がり、現在カトリック教徒は26%、プロテスタント教徒22%である。マダガスカルはアフリカ大陸南部の島でありながら、ほかのブラック・アフリカ諸国と異なり、マレー・ポリネシア系の独特の民族構成と稲作に代表される独自の文化をもっている。

[林 晃史]

住民

マダガスカルには多くの民族が住んでいて、各方言に分かれるが、マダガスカル(マラガシー)語とよびうる一つの共通言語を話す。これはオーストロネシア語族に分類され、文化的にも東南アジアとの関連が顕著である。身体的にも東南アジアとのつながりが認められ、とくに中部および東部の住民はインドネシアの諸民族に似ている。サカラバ、ベゾ、アンタンドロイなどの文化は東南アジア系であるが、ウシを重視し王族祖先崇拝の儀礼をもつなど東アフリカの文化の影響がある。一方、黒人系のタナラやベツィミサラカの文化はアフリカとのつながりが認められない。

 マダガスカルの諸民族は居住地域および生態環境の面から三つの集団に大別することができる。西海岸と南部の諸民族は乾燥した牧草地に住んでいて農耕と牧畜の混合経済を営む。代表はサカラバで、15世紀以降強大な王国を建設した。中部高原にはメリナとベツィレオが住んでおり、灌漑(かんがい)稲作を行う。墓が生活のなかで重要な位置を占め家族の象徴でもある。東海岸の森林地帯に住む諸民族は陸稲やバナナ、トウモロコシを栽培し漁労も行う。この地域ではタナラがよく知られているが、タナラというのは「森の人」という意味で多くの民族集団を含む。マダガスカル全域でイスラム教アラブとスワヒリ文化の影響が強い。アラブ人は8世紀ころから交易場を設立していたと考えられる。

[加藤 泰]

『外務省監修『世界各国便覧叢書47 マダガスカル共和国・モーリシアス』(1973・日本国際問題研究所)』『ユベール・デシャン著、木村正明訳『マダガスカル』(1989・白水社)』『山口洋一著『マダガスカル―アフリカに一番近いアジアの国』(1991・サイマル出版会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「マダガスカル」の意味・わかりやすい解説

マダガスカル
Madagascar

基本情報
正式名称=マダガスカル共和国République de Madagascar 
面積=58万7041km2 
人口(2011)=2130万人 
首都=アンタナナリボAntananarivo(日本との時差=-6時間) 
主要言語=マラガシ語,フランス語 
通貨=アリアリAriary

アフリカ大陸の南東方,モザンビーク海峡を間にインド洋上にある島国。マダガスカル島は世界4位の大きさで,〈大きな島〉と愛称されてきた。

マダガスカル島はゴンドワナ大陸に属し,古生代末期以来の大陸移動に伴って切り離されたものと考えられる(大陸移動説)。アフリカ大陸と同様,基盤は先カンブリア界の花コウ岩や片麻岩で,これをおおって古生代末から中生代にかけての堆積岩,いわゆるカルー系(下部は陸成,上部は海成)が発達している。現在の地形は,東側から直線的な海岸線と狭い海岸平野,階段状の急斜面,波状の中央高地,ケスタ地形を示しながらゆるく低下する斜面,比較的屈曲に富む(とくに北部)海岸低地に大別される。中央高地の北端部にあるツァラタナナ山地のマルムクトル山(2886m)は島の最高峰である。新生代に入って弱線に沿う火山活動が起こり,中央部のアンカラトラ山地(最高はチアファジャブナ山。2643m)をはじめ,いくつかの火山体が形成された。ケスタ状の西斜面はカルー系で構成され,古生物研究の好適地が多い。東斜面の河川は短く,急流であるが,西斜面には北からベツィボカ,ツィリビヒナ,マンゴキ,オニラヒなどの諸水系が発達している。これらの河口部にはマングローブ林がみられ,海岸(とくに北岸と南西岸)にはサンゴ礁が形成されている。

 気候は熱帯性で,暖季の南東貿易風と冷季の北西季節風,地形などに大きく支配される。東斜面は年平均気温20~25℃,一年を通して降水に恵まれ,年2500~3500mmにもおよぶ。これに対して,西斜面では夏の雨季と冬の乾季が目だち,その北部の年降水量は1500mmをこえるが,南にいくにつれて少なくなり,南端部では400mmに満たなくなる。気温は東岸より暑さがきびしい。中央高地では,気温は年平均15~20℃と和らげられ,年降水量は北部の1500mmから南部の1000mmへと変化する。島の北半部は夏にサイクロンに襲われる。

 自然植生は人間活動によってほとんど失われ,東斜面の一部に降雨林や季節風林が残されているにすぎず,東岸低地や中央高地の大部分はサボカsavokaと呼ばれる低木性二次林に占められている。西斜面では乾季に強いバオバブやユーフォルビアを伴うサバンナが卓越し,南西部では有棘種や多汁種の目だつ半砂漠の景観となる。またインドリ,アイアイ,キツネザルなどの原猿を代表に,大陸から分離した後に独自の進化をとげた生物群が興味をひく。
執筆者:

マダガスカルの住民は,インドネシアやマレーシアの住民と近縁で,言語もアウストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)の,とくにボルネオ南西部の言語と近いと考えられている(アウストロネシア語系諸族)。またマレー系やインドネシア系に加えて,アラブやアフリカ黒人も移住し混血しており,多様な文化要素が混在している。

 中央高地に住むメリナ族Merinaは最も人口が多く,総人口の約30%を占めている。インドネシア系の形質が最も明確に認められ,毛髪も黒く縮れている。おもに灌漑による米作農業に従事し,牛も飼養する。祖先崇拝を守り,立派な石の墓をつくる。木彫が巧みで,家屋の装飾が見事なことで知られている。19世紀にヨーロッパの植民地勢力の間隙をぬって,メリナ族の王国は勢力を広げ,全島の2/3を支配した。中南部の高地に住むベツィレオ族Betsileoは人口が3番目に多い部族で,米作を行う。

 東海岸の熱帯降雨林に住むアンタイサカ族Antaisaka,ザフィマニリ族Zafimaniryや2番目に人口の多いベツィミサラカ族Betsimisarakaは,森の民を意味するタナラ族と総称されることもある。彼らは焼畑農業に従事し,イネ,バナナ,キャッサバなどを主作物として栽培するほか,コーヒー,バニラなどの商品作物も生産する。タナラ族は統一的な政治組織をもたず,おのおの孤立した村々は長老の権威で支配されるにすぎない。住居は一部屋だけの簡素なものであるが,壁や窓,扉の幾何学模様の彫刻が有名である。

 中央高地と東海岸の間の急斜面には,シハナカ族Sihanaka,ツィミヘティ族Tsimihetyが牧畜を行うかたわら,陸稲や水稲の栽培も行っている。シハナカ族はアラオトラ湖付近に住み,一部は漁労にも従事する。

 西部や南部の平原にはアンタンドロイ族Antandroy,バラ族Bara,マハファリ族Mahafaly,サカラバ族Sakalavaが居住する。彼らは牛を飼養する牧畜民であるが,サカラバ族とマハファリ族は王国を形成したことがある。また西海岸に住むベゾ族Vezoは漁労に従事している。

 島の北端部の山中に居住するアンタカラナ族Antakaranaは,マダガスカルの住民のなかで最も黒人系に近く,牛を飼育するが,海岸地域に住む者はアウトリガー付きカヌーを用いて漁業に従事する。アンタカラナ族はイスラムの影響を受けている。

 このようにマダガスカルの社会,文化は,インドネシア系,アフリカ黒人系,アラブ系などの要素が互いに入りまじっており,それらを識別して取り出すことも可能であるが,全体を通じてみると,混交の結果としての同質性が認められる。住民の言語は部族ごとに少しずつ異なるが,マラガシ語に統一されている。公用語はマラガシ語と,かつての宗主国のフランス語である。最近では英語も学校で教えられている。19世紀初めから,メリナ族などでキリスト教の布教が進んでいる。北部ではイスラム教徒を自称する住民が多い。
執筆者:

原住民は上述のように東南アジア系で,初めアフリカ大陸東海岸に移住し,10世紀ごろマダガスカル島に移住したといわれている。17世紀初め中央高地に中央集権的なアンドリアナ王国(のちのメリナ王国)が建国された。19世紀初めからイギリスとフランスの布教活動が開始され,1869年に女王ラナバロナ2世がキリスト教に改宗して新教が国教となり,キリスト教は全土に広がった。1884-85年のベルリン会議によってマダガスカルはフランス植民地となったが,カトリックのフランス支配に対して住民はしばしば抵抗した。96年のメナランバの反乱,1904年の反乱はいずれも武力で鎮圧されたが,13年最初の民族運動組織である〈ビ・バト・サケリカVy Vato Sakelika(鉄と石)〉が結成された。

 第2次世界大戦中,マダガスカル植民地政府がフランスのビシー政府を支持したため,イギリスは42年にマダガスカルを占領し,43年ド・ゴールの自由フランス政府に返還した。47年ラセタJoseph Rasetaの率いるマダガスカル革命民主運動が,フランスの植民地支配に対し大規模な抵抗を起こしたが鎮圧された。フランスは56年フランス植民地に大幅な自治を認める基本法を制定し,58年にはド・ゴール大統領がフランス共同体構想を打ち出した。これに基づきマダガスカルは同年10月,フランス共同体内の自治共和国となった。そして60年6月26日にマダガスカル共和国として独立を達成し,社会民主党のツィラナナPhilibert Tsirananaが初代大統領に就任した。

 ツィラナナ大統領は独立後もフランスとの関係を維持した。61年に旧フランス領12ヵ国の元首が首都アンタナナリボに集まり,経済・社会面での相互の協力を目的とするアフリカ・マダガスカル連合(のちのアフリカ・マダガスカル・モーリシャス共同機構)が結成された。また南アフリカ共和国との友好関係も維持した。しかしツィラナナの親仏政策に反対する動きが起こり,72年5月ラマナンツォアGabriel Ramanantsoa少将に率いられた軍隊がクーデタを起こし,政権を握った。

ラマナンツォア新軍事政権は議会の代りに人民国家開発評議会を置き,73年にはマダガスカルに駐留するフランス軍の撤退を要求し,南ア共和国と断交した。代わって中国,ソ連,東欧諸国と外交関係を樹立し,アフリカ・マダガスカル・モーリシャス共同機構から脱退するなど,社会主義路線に転換した。75年2月軍内部で抗争が起こり,ラツィマンドラバ大佐が権力を掌握したが,6日後に暗殺され,アンドリアマハゾ将軍が全権を受け継ぎ,軍評議会を設置した。

 軍評議会は75年6月ラツィラカDidier Ratsiraka海軍少佐を国家元首に任命した。ラツィラカは12月に新憲法を制定し,軍評議会を解散し,代わって次の5機構を置いた。(1)ラツィラカを議長とする最高革命評議会,(2)行政の最高機構として首相を長とする内閣,(3)立法府として人民国家議会,(4)司法府として立憲最高裁判所,(5)国防・社会・経済開発計画諮問機構として軍事開発委員会である。また新憲法制定とともに国名をマダガスカル民主共和国に改め,国家建設の方向として,社会主義路線を標榜した。ラツィラカは76年1月,新体制下の大統領に就任した。その後,ラツィラカは82年,89年の大統領選に圧勝し,国会選挙でも与党のマダガスカル革命前衛党が大勝を続けたが,国内経済が振るわないため,時折暴動が発生するなど,政治情勢は不安定であった。

 冷戦終結後の政治的民主化の潮流の中で,社会主義路線を堅持しようとするラツィラカと,憲法を改正して政治的民主化を求める反政府勢力の対立が激化した。反政府勢力は90年12月〈行動する勢力〉(略称FV。指導者ザフィAlbert Zafy)を結成,改憲を要求した。91年5月政府の改憲案が提示されたが不十分であったため,FVは野党を含む暫定政府樹立を要求,大規模なストライキを実施した。同年7月にFVは一方的に暫定政府を樹立した。政府はこれを弾圧する一方,新憲法策定のための国民投票を提案し,新首相にラザナマシを任命した。FVはこれを傀儡政権と非難し抗議行動を行った。この結果同年10月,政府とFVは暫定政府樹立に合意,暫定政府は92年内の国民投票,大統領選挙,総選挙の日程を明らかにした。日程より遅れて92年8月新憲法が採択されて国名がマダガスカル共和国となり,11月の大統領選挙でザフィがラツィラカを破り新大統領に就任した。93年8月の総選挙ではFVが勝ち,ラボニが首相に任命された。新政府は市場経済政策を採用し,95年には世界銀行,IMFの構造調整計画の受入れに合意した。しかし,構造調整計画に対するザフィをはじめとする国内諸勢力の反対は強く,政権は不安定化した。こうした状況下で96年12月に実施された大統領選挙で,ラツィラカが再選された。

 マダガスカルは独立直後の1960年9月に国連に加盟し,63年にはアフリカ統一機構(OAU)の結成メンバーになった。ラツィラカは東側諸国との関係を重視したが,78年9月のフランス公式訪問後,対仏関係は回復した。さらにヨーロッパ共同体(EC)との第2次ロメ協定にも調印するなど,外交面では柔軟な姿勢を示している。

マダガスカルは,国内総生産(GDP)に占める農業の寄与率が約40%,労働力人口の約80%が農業に従事していることから明らかなように農業国である。主要農産物は主食の米のほか,サトウキビ,キャッサバ,コーヒー,ラッカセイ,綿花,豆類,チョウジ(丁子),タバコ,コショウ,バニラなどであり,フランス人経営のサトウキビ,コーヒーの大農園は1977年国有化された。牧畜も盛んで,牛,豚,羊,ヤギ,鶏などが飼育されている。工業は未発達で,わずかにある工業のほとんどは精米,缶詰などの農産品加工業である。その他の工業としてセメント,紙・パルプ,石油精製,製靴,マッチ,化学肥料,プラスチック加工,自動車組立て,トランジスター・ラジオ組立てがあるが,それらは首都のアンタナナリボやアンツィラベ,マハジャンガ,アンツェラナナ,トゥアマシナの諸都市に集中している。鉱産資源としては雲母,黒鉛,クロム,ジルコン,緑柱石(ベリル)などを産出するが,それらはほとんど外資系企業によって採掘されている。

 主要輸出品は農・鉱産物の一次産品で,輸入品としては機械,輸送機器,工業製品,食糧,石油が大半を占めている。おもな貿易相手国はフランス,アメリカ,ドイツ,日本などである。

 独立から現在まで経済開発計画を実施してきたが,1972年の軍事政権成立以降,国家建設の目標として社会主義が打ち出され,開発計画もその線に沿って,農村共同体(フォコノロナfokonolona)と協同組合を基盤とする農村改革を通して農業生産を拡大することに主眼が置かれた。さらに74年6月にはフランス系銀行,保険会社を国有化し,8月には国内・国外貿易を扱っていたフランス系のマルセイユ社を国有化したほか,国家が外資系企業の株式の過半数を所有するなど,一連の国有化,アフリカ人化が進められた。しかし,第1次石油危機以降の石油輸入額の増大,70年代末のサイクロンの災害による農業生産の不振による食糧輸入の増大によって財政的には苦しい状態にあり,IMFなどの国際金融機関からの援助,2国間援助に大きく依存している。
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百科事典マイペディア 「マダガスカル」の意味・わかりやすい解説

マダガスカル

◎正式名称−マダガスカル共和国Repoblikan'i Madagasikara/Republic of Madagascar。◎面積−58万7041km2。◎人口−2070万人(2011)。◎首都−アンタナナリボAntananarivo(102万人,2005)。◎住民−メリナ人26%,ベツィレオ人,ベツィミサラカ人,シハナカ人など。◎宗教−土着宗教52%,キリスト教41%,イスラム7%。◎言語−マラガシ語,フランス語(以上,公用語)。◎通貨−アリアリAriary。◎元首−大統領,ラジャオナリマンピアニナHery Rajaonarimanpianina(2013年12月就任,任期5年)。◎首相−ラベルナリブJean Ravelonarivo(2015年1月発足)。◎憲法−1992年8月国民投票で承認,1998年3月,2007年4月,2010年11月改正。◎国会−二院制。上院(定員164,うち30は大統領が任命,任期6年),下院(定員365,任期5年)。最近の選挙は2013年12月。◎GDP−90億ドル(2008)。◎1人当りGNI−280ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−72.9%(2003)。◎平均寿命−男63.2歳,女66.2歳(2013)。◎乳児死亡率−43‰(2010)。◎識字率−71%(2008)。    *    *アフリカ南東方,モザンビーク海峡でアフリカ大陸と隔てられたマダガスカル島(世界第4の大島)を占める共和国。東部を南北に山脈が走り,最高点は北部のツァラタナナ山地のマルムクトル山(2886m)。西部に海岸平野が開け,ベツィボカ川,マンゴキ川などが流れる。東海岸の平野は狭い。気候は熱帯性で,5〜9月にはインド洋からの南東風が東岸に,10〜4月には北西季節風が北岸に多雨をもたらす。農業を主とし,米,キャッサバ,バナナ,トウモロコシのほか,輸出用作物としてコーヒー,バニラ,サトウキビなどがある。日本向けにエビの輸出も多い。貿易相手国はフランスが第1位である。 10世紀頃インドネシア人やマレー人の移住に始まり,のちにアラブやアフリカ人も渡来してきて混血が行われた。このため〈アフリカのなかのアジア〉と呼ばれて異質な風土を有する。1500年にはポルトガル人ディエゴ・ディアスが到達した。1885年ベルリン会議によってフランス領とされた。1958年フランス共同体内の自治共和国となり,1960年6月に独立した。1976年就任したラチラカ大統領は基幹産業を順次国有化,社会主義路線によって経済再編成を進めたが,経済情勢の悪化と民主化運動に押され,1992年に新憲法を制定,社会主義の看板をおろした。1993年の大統領選でラチラカは野党連合のザフィに敗れたが,1996年の選挙では雪辱した。2002年大統領選では,現職のラチラカと争ったアンタナナリボ市長ラバロマナナが当選,2006年12月の大統領選で再選された。2009年3月,反政府勢力が軍の支援を受けラバロマナナ大統領を辞任させ,暫定政府を発足させたが,国際社会の承認が得られなかった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マダガスカル」の意味・わかりやすい解説

マダガスカル
Madagascar

正式名称 マダガスカル共和国 République de Madagascar。マラガシー語では Repoblika Malagasy。
面積 58万7295km2
人口 2818万4000(2021推計)。
首都 アンタナナリボ

アフリカ大陸の南東約 300km,インド洋南西部にあるマダガスカル島およびいくつかの小島からなる国。モザンビーク海峡を挟んでモザンビークと向かい合う。6州からなる。 1500年ポルトガル人が渡来し,一部を領有。いくつかの部族王国が存立したが,うちメリナ王国が 18世紀に台頭,19世紀にはイギリスとフランスが領有権を争い,1885年フランス保護領,1896年フランス植民地となった。 1958年フランス共同体内の自治共和国として成立,1960年マラガシー共和国として独立。 1972年軍事政権が発足,1975年社会主義憲法を制定し国名をマダガスカル民主共和国に改称。その後経済の悪化に伴い,1991年に暫定政府が成立,1992年の国民投票で社会主義に終止符を打つ新憲法が承認され現国名に改称。古来,アフリカよりもアジアのマレー,インドネシア系,アラブ系との関係が深く,住民の大部分はマレー系のメリナ族,ベツィミサラカ族,アンテモロ族 (→マラガシー人 ) 。このほか中国人,インド人,コモロ人,フランス人が居住する。公用語はインドネシア語群に属するマラガシー語とフランス語。主産業は米作中心の農業で,ほかにバニラ,コーヒー,カカオ,サイザルアサ,クローブ,サトウキビなどを産する。バニラの産出量は世界有数。エビなどの漁業も盛ん。工業は農産物加工のほか,たばこ,マッチ,煉瓦などの日用品製造が主。クロム鉄鉱,黒鉛を産するが,生産量は不安定。また金雲母の唯一の生産国として知られる。貿易はコーヒー,バニラをはじめとする農産物の輸出と,工業製品の輸入が多く,フランスとの取り引きが中心。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マダガスカル」の解説

マダガスカル
Madagascar

アフリカ大陸南東方,モザンビーク海峡を隔ててインド洋上にある島および共和国。首都アンタナナリヴォ
古くからインドネシア人やアフリカ人が移住したが,16世紀初めにポルトガル人が到達。その後,フランス・イギリスなどが領有を争い,1896年フランス領植民地となった。第二次世界大戦後,独立運動が起き,フランス軍が武力で鎮圧したが,1958年自治国となり,60年6月独立した。1975年社会主義路線を宣言するが,89年の大統領選挙で民主化要求と経済悪化から,ラチラカ大統領に対する批判が強まる。1992年の国民投票で社会主義路線からの脱却が正式に決定。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マダガスカル」の解説

マダガスカル
Madagascar

アフリカ大陸東方,インド洋上の世界最大の島。10世紀以降マレー系,インドネシア系民族が,15世紀以降イスラームを信奉するアラブ系民族が移住。18世紀末メリナ王国がアンタナナリブを都に中央集権的体制を確立。1883~85年,94~95年の2次にわたるフランス‐メリナ戦争をへて王国は解体され,フランスが保護領化。これに対するメナランバの乱(1896年)など数多くの蜂起は鎮圧された。1958年10月フランス共同体内の自治共和国に,60年6月共和国として独立。

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デジタル大辞泉プラス 「マダガスカル」の解説

マダガスカル

2005年製作のアメリカ映画。原題《Madagascar》。ドリームワークス製作のアニメーション・コメディ。監督:エリック・ダーネル、トム・マクグラス、声の出演:ベン・スティラー、クリス・ロック、デヴィッド・シュワイマー、ジェイダ・ピンケット・スミス、サシャ・バロン・コーエンほか。

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