フランス領西アフリカ(読み)フランスりょうにしアフリカ(英語表記)Afrique occidentale française

改訂新版 世界大百科事典 「フランス領西アフリカ」の意味・わかりやすい解説

フランス領西アフリカ (フランスりょうにしアフリカ)
Afrique occidentale française

西アフリカのフランス語圏8ヵ国(モーリタニアセネガルギニアコートジボアールベニンマリブルキナファソニジェール)が占める地域の旧称略称はAOF。植民地時代には,セネガルの主都ダカールにあったフランス植民地総督府の一元的な統治のもとにおかれていた。19世紀末,いわゆるアフリカ大陸における植民地獲得競争が激化してきた中で,フランスは西アフリカ沿岸部の各拠点から内陸部への侵略を開始し,セネガル,ギニア,スーダン(現,マリ),コートジボアールなどの植民地を建設した。1895年,フランスはこれらの植民地を一つの植民地総督府のもとにおき,一括統治することを決定した。99年には,1889年から94年にかけて展開された内陸部進攻作戦の成功によって建設されたダホメー(現,ベニン)もこれに加え,最終的には1904年の政令をもってフランス領植民地連合としてのフランス領西アフリカが正式に発足した。さらに第1次大戦後,モーリタニア,ニジェールなどサヘル地域のフランス領がこれに加えられ,フランス領西アフリカは,約1800万(1951)のアフリカ人が居住し,約450万km2というフランス本国のおよそ9倍の領土を有する広大な植民地となった。

 第2次大戦後の独立に至る過程で,フランス領西アフリカを一国として独立させるか,あるいは各植民地をそれぞれ一国として独立を与えるべきか,ということがフランス政界で大きな政治問題となったが,結局,56年の基本法によって各植民地を分離独立させる方針が決定した。そして58年にはまずギニアがフランス共同体内自治国というド・ゴール構想に反旗をひるがえし独立を達成し,他の植民地も60年,それぞれ一国として独立した。しかし,独立当初,急進的外交路線をとったギニア,マリ,また70年代からアラブ圏との結びつきを強化しはじめたモーリタニアを除く諸国(第1次大戦後,フランスの委任統治領になった旧ドイツ領植民地トーゴ(1960年独立)も参加)は,西アフリカ通貨同盟を結成し,植民地時代からの共通通貨であるCFAフランを使用するなど,独立後も経済的には緊密な関係を保持している。また73年にはセネガルのサンゴール大統領の発案で,これらの諸国は西アフリカ経済共同体(CEAO)を結成し,経済統合をはかろうとしている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス領西アフリカ」の意味・わかりやすい解説

フランス領西アフリカ
ふらんすりょうにしあふりか
Afrique Occidentale Française

西アフリカにあったかつてのフランスの大植民地。略称AOF。現在のモーリタニア、セネガル、ギニア、コートジボワール、ベナン、マリ、ブルキナ・ファソ、ニジェールのフランス語圏8か国が占める地域をいう。フランス領の植民地の連合体として形成され、セネガルの首都ダカールに置かれた総督府によって一元的に統治されていた。

 1880年代から1890年代にかけてのアフリカ大陸分割の時期、フランスは、西アフリカ沿岸部の各拠点を足場に内陸部に勢力を伸ばし、セネガル、ギニア、スーダン(現マリ)、コートジボワールの各植民地を建設した。1895年、フランスはこれらの植民地を統一的に治めることを決定し、1899年にはダオメー(現ベナン)もこれに加え、1904年の政令により、フランス領西アフリカは正式に発足した。第一次世界大戦後、新たにモーリタニア、ニジェールなどサヘル地域のフランス領が加えられ、全領土は450万平方キロメートルという広大なものとなった。独立に際しては、1958年のギニアを皮切りに、各植民地はそれぞれ一国として、別個に独立を達成した。しかし、ギニア、モーリタニアを除く諸国は、通貨同盟(UMOA)に加盟し、植民地時代からの共通通貨であるCFAフランを使用するなど、経済的には緊密な関係を維持している。

[原口武彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「フランス領西アフリカ」の解説

フランス領西アフリカ(AOF)(フランスりょうにしアフリカ)
Afrique Occidentale Française

西アフリカのモーリタニアセネガルギニアコートジボワールベニンマリブルキナファソニジェールで構成される地域の旧称。フランス植民地時代,セネガルに置かれていた総督府の統治下にあった。フランスは19世紀末から西アフリカ内陸部に進出し,1895年セネガル,マリ,ギニア,コートジボワールをAOFとして一括統治を開始。その後,ベニンやサヘル地域の併合で領域は拡大。第二次世界大戦後,AOF全体の一括独立と分離独立が議論され,ギニアは1958年フランス共同体から離れて独立。それ以外の国は60年に個別に独立を達成したが,西アフリカ通貨同盟などをとおして経済的に緊密な関係を維持。ただし,現在必ずしも足並みは揃っていない。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランス領西アフリカ」の意味・わかりやすい解説

フランス領西アフリカ
フランスりょうにしアフリカ
Afrique Occidentale française; French West Africa

アフリカ大陸中央西部にあったフランスの植民地。セネガル,モーリタニア,フランス領スーダン (現マリ) ,オートボルタ (現ブルキナファソ) ,ニジェール,ギニア,コートジボアール,ダオメー (現ベナン) の各植民地の連合として 1895年に編成された。当時人口 1900万,面積 466万 km2を擁し,総督府はダカール (セネガル) におかれた。第1次世界大戦後フランスの委任統治領となったトーゴも,経済的には統合された。 1946年各植民地は海外領となったが,独立運動が頻発。 58年独立したギニア以外は自治共和国となったが,60年にはすべて独立した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフランス領西アフリカの言及

【セネガル】より

… フランスが本格的な植民地化を行ったのは総督フェデルブ(在任1854‐65)の時代である。フェデルブは現地の小王国の抵抗を打ち破り,イスラムの聖戦を広げていたトゥクロール族のハジ・ウマルを撃退して,のちのフランス領西アフリカの基礎を築いた。しかし,その後もアフリカ人の抵抗は続き,南部のカザマンス地方をも平定したのは1903年にいたってであった。…

【ベニン】より

…その強力な中央集権的政治組織を基盤に栄華を極めたゲゾGhezo(Guézo)王(在位1818‐58)の名は,同国が組織したアマゾンと呼ばれる女性の軍隊とともにヨーロッパにも知れわたった。 19世紀末までにほぼ完全に全土をフランス軍に征服されたこの地域は,1904年セネガルのダカールに総督府をおくフランス領西アフリカに編入された。以来,フランスによって推し進められた植民地開発は,さしたる鉱物資源も存在しないこの地域ではそれほどの成果を生み出さなかった。…

※「フランス領西アフリカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android