改訂新版 世界大百科事典 「ソンガイ帝国」の意味・わかりやすい解説
ソンガイ帝国 (ソンガイていこく)
黒人アフリカで最大の版図をもった帝国。支配部族ソンガイSonghai(ソンライSongrai)族の名をとってこのように呼ばれるが,首都ガオの名をとってガオ帝国とも呼ばれる。16世紀の最盛期には,ガオ(現,マリ共和国領)のあるニジェール川大湾曲部東部地方を中心に,その勢力は,西アフリカ西端の現セネガル共和国の地域から,金の主要な産地だったニジェール川上流の山地地方(現,ギニア共和国領),岩塩の産地テガザ(現,マリ共和国領)を含むサハラの一部,東はハウサ諸国(現,ナイジェリア北部)にまで及んだ。その支配は,ガーナ,マリなど西アフリカのサハラ南縁に形成された諸国と同様,長距離交易の軍事的な保護という性格が強かったが,同時に,既存の首長領や国家を征服して貢納を強要することを,ソンガイ帝国は大規模に行った。したがって,版図といっても,明確な国境が定まっていたわけではなく,ハウサ諸国のように,かなりの自立を保ちながら,ソンガイに従属し貢納していた社会が多い。この地方に先行したマリ帝国のような,支配層の被支配社会への経済的・文化的浸透は行われず,広域の支配体制の崩壊後は,文化・社会的統一体としての帝国の痕跡はほとんど認められない。
ソンガイ帝国の起源は,9世紀にさかのぼると思われる。初期首長は呪師的性格をもっていたといわれるが,早くから北アフリカの商人が来住し,社会のイスラム化が進んでいた。14世紀には,ニジェール川大湾曲部一帯に覇を唱えたマリ帝国の一地方領だったが,15世紀後半,勇猛な武将だったソンニ・アリSonni `Alī王(在位1464-92)が,マリ帝国の支配を覆した。ソンニ・アリは軍事征服の手を広げ,被支配社会に対して専横な支配者として臨んだ。彼の死後,アリの麾下の武将だったアスキア・モハメドAskiyā Muḥammadが帝位につき(在位1493-1528),ソンニ王朝に代わってアスキア王朝を築いた。モハメドは熱烈なイスラム教徒としてメッカにも巡礼し,帝国の版図を拡大すると同時に,宗教・交易を保護し,彼の治政下で宗教・交易都市トンブクトゥも空前の繁栄を迎えた。かくて,西アフリカ内陸の広大な地域に,〈ソンガイの平和〉が確立されたが,1580年代になってからは,疫病,干ばつ,洪水などの災厄が相次ぎ,モハメド大帝から7代後のモハメド4世(在位1586-88)の時代には内乱も生じた。そして,次のアスキア・イスハーク2世Askiyā Isḥāq II(在位1588-91)の時,かねてサハラとその南の黒人の国に野心を抱いていたサード朝モロッコのマンスール王が送った遠征軍の攻撃を受け,91年,帝国は崩壊した。火打石銃を装備したモロッコ軍は,それまで火器を知らなかったソンガイの大騎馬軍を潰走させたが,これがサハラ以南のアフリカ社会に鉄砲がもたらされた最初だった。
執筆者:川田 順造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報