トランスバール(読み)とらんすばーる(英語表記)Transvaal

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トランスバール」の意味・わかりやすい解説

トランスバール
とらんすばーる
Transvaal

南アフリカ共和国北東部の旧州名。1993年の暫定憲法成立により、従来の4州は9州に再編され、トランスバール州は、北部州(2003年リンポポ州と改称)、ムプマランガ州、ハウテン州の3州と北西州の東部地域に4分割された。ボツワナジンバブエモザンビークスワジランド(現、エスワティニ)、クワズールー・ナタール州、自由州に囲まれ、バール川とリンポポ川に挟まれる。面積33万6650平方キロメートル、人口1880万4400で、内訳は白人約287万、黒人約1537万、アジア系19万7100、カラード36万2500(1995)。州都ヨハネスバーグであった。ちなみにヨハネスバーグはトランスバール州4分割後、ハウテン州の州都となっている。

 1835年ケープ植民地でのイギリスによる支配を嫌ったブーア人(オランダ系移民)の一行は内陸北上グレート・トレック)し、バール川以北に定着し1852年トランスバール共和国を建国した(サンドリバー協定)。1877年同共和国は一時イギリスに併合されたが、ブーア人はそれに反対し武器をもって立ち上がり独立を回復した(第一次ブーア戦争)。しかし1886年ウィトワーテルスランドに金の大鉱脈が発見されると、ケープ植民地の首相セシル・ローズはその領有のためジェームソン侵入事件(1895)、ついで第二次ブーア戦争(1899~1902)を起こした。ブーア人側はトランスバール共和国大統領クリューガーの下に団結し戦ったが敗れた(フェレーニッヒング条約)。その結果トランスバールはイギリス直轄領となったが、1906年自治政府が認められ、1909年の国民会議で連邦化が決議され、1910年南アフリカ連邦が成立し、その一州に編入された。なお同国民会議で、行政府をトランスバール州、立法府をケープ州(現、西ケープ州など3州および北西州の西部地域)、司法府をオレンジ自由国州(現、自由州)に置くことが決められ、プレトリアが首都となった。南アフリカ連邦成立後も金鉱業は引き続き発展し、とくに第一次世界大戦以降の同国の工業化、第二次世界大戦後のウェストランドでの新鉱脈の発見により、プレトリア・ウィトワーテルスランド・フェレーニッヒング地域(通称PWV)は同国の商工鉱業、金融の中心地となった。とくにヨハネスバーグは鉱業会議所、商工会議所をはじめ高層ビルの建ち並ぶ経済の中心地で、その近郊には同国最大の黒人居住区であったソウェトがある(1993年以降ヨハネスバーグ市の行政区に組み込まれた)。そのほかの主要都市としては、西部の柑橘(かんきつ)類栽培の中心地ゼールスト、リヒテンバーグ、北部の鉱山都市メッシーナ、農牧畜地域のルイス・トリハルト、北部の中心地ポロクワネ(リンポポ州州都。旧名ピーターズバーグ)、東部のネルスプライト(ムプマランガ州州都)、コマティ・ポールトなどがあり、北東部には南アフリカ共和国最大の動物保護区クリューガー国立公園がある。

[林 晃史]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トランスバール」の意味・わかりやすい解説

トランスバール
Transvaal

南アフリカ共和国北東部にかつてあった州。当時の州都はプレトリアドラケンスベルク山脈が東部を南北に走り,その西方サバナ状の高原(標高 1000~1500m)をなし,気候は快適。バンツー語系諸族が半遊牧生活を送っていたが,1835年からイギリス領ケープ植民地からのボーア人の大移住が始まり,独自のトランスバール共和国を建設。1852年サンド川協定によってイギリスが独立を認めた。しかしその後も宗主権を要求するイギリスと独立を要求するボーア人との間で争いが続いた。1886年ウィットウォーターズランドに金鉱が発見されると,大量のイギリス人が流入,緊張が高まり,1899年に勃発した南アフリカ戦争に敗北して,1902年イギリス領植民地となった。1910年南アフリカ連邦の成立に伴い州となった。高原は農牧業に適し,中南部のヨハネスブルクを中心とするウィットウォーターズランドはアフリカ最大の鉱工業地帯だった。1994年北トランスバール州(→リンポポ州),東トランスバール州(→ムプマランガ州),プレトリア・ウィットウォーターズランド・フェレーニヒンク州(→ハウテン州),および北西州の一部へと分割された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報