アンティオキア(英語表記)Antiochia

デジタル大辞泉 「アンティオキア」の意味・読み・例文・類語

アンティオキア(〈ラテン〉Antiochia)

トルコ南部の小都市アンタキヤの古称。前300年ごろ古代シリア王国のセレウコス1世が首都として建設。のちエルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地

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精選版 日本国語大辞典 「アンティオキア」の意味・読み・例文・類語

アンティオキア

  1. ( Antiochia ) 紀元前三〇〇年頃セレウコス一世が建設した古代シリア、セレウコス朝時代の首都。パレスチナ以外では最初のキリスト教の中心地の一つ。トルコ中部の南端近くにある都市アンタキアの旧称。

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改訂新版 世界大百科事典 「アンティオキア」の意味・わかりやすい解説

アンティオキア
Antiochia

トルコ南部,ハテー県の県都。人口7万7400(1982)。アンティオキアはラテン語名で,古代ギリシア名はアンティオケイアAntiocheia。トルコ名はアンタキヤAntakya地中海に注ぐオロンテス(アシ)河口から約30km上流の,シリアとの国境近くに位置する。現在は特産の綿やオリーブ油産業を営む地方の小都市にすぎないが,かつては政治・交易・宗教の中心として繁栄した。創建は前300年,セレウコス1世による。アンティオコス1世のとき,セレウコス朝シリア王国の首都となり,外港ピリエのセレウキアSeleucia Pieriaを通じての海外貿易や地中海とユーフラテス川を結ぶ通商の拠点として栄えた。オリエントヘレニズムの両文明の接触地であり,マケドニア人,ギリシア人,ユダヤ人などさまざまな人種が住み,前2世紀には人口50万を擁したと言われる。前64年ポンペイウスがシリア王国を滅ぼし,ローマの属州とした。市はその主都となり,シリア総督が置かれ,自由都市として認められた。後37年,115年の地震により破壊されたが,皇帝たちは市の整備に努めた。使徒バルナバ,パウロらにより最も早くに異邦人へのキリスト教布教の基点となり,その信者はここで初めて〈キリスト教徒(クリスティアノイ)〉と呼ばれた(《使徒行伝》11:26)。

 市はキリスト教活動の中心となり,4世紀には教父クリュソストモスを生み,アンティオキアの司教座はローマ,アレクサンドリアに次ぐ第3の地位を得,市も同様ローマ帝国内第3の大都市に発展した。この地の教校を中心に著名な神学者が輩出,クリュソストモスやテオドロスがその代表で,彼らはキリストの神性と人性の区別を重視した。彼らは後世アンティオキア学派と呼ばれた。また当市では修辞家リバニオスが活動し,その示唆を受けて異教に改宗したユリアヌス帝が362年にここを訪れている。5世紀以降ネストリウス派などの宗教論争に巻き込まれ,司教座の力は弱まった。528年の大地震,540年,611年のペルシア人による略奪で市は荒廃し,もはやかつての繁栄を回復することはなかった。638年以降300年間アラブの支配が続き,969年ビザンティン帝国のものとなるが,1084年にセルジューク・トルコの領有となる。1098年十字軍により占領され,アンティオキア公国が生まれる。1268年エジプトのバフリー・マムルーク朝バイバルス1世が市を奪った。1516年オスマン・トルコのセリム1世がその支配下に納めた。1920年からシリアに属し,フランスの保護下に置かれ,39年にトルコ領となる。町には,ローマ時代の橋,ペテロの洞窟があり,美術館には2~4世紀の多数の床モザイクが収蔵されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンティオキア」の意味・わかりやすい解説

アンティオキア(トルコ)
あんてぃおきあ
Antiochia

トルコ南東部の都市アンタキヤの旧名。セレウコス朝(シリア王国)の首都として、紀元前300年セレウコス1世(在位前312~前280)が建設した都市で、その父アンティオコスを記念してアンティオキアと命名された。最初の住民は近くの都市から移住させられた約5000人のギリシア人、マケドニア人で、その後は原住民や新しい移住者も受け入れ、またユダヤ人の集団に対してはセレウコス1世以来特権が与えられていたという。王朝の首都であるとともに、その位置は東方のシルク・ロードからの隊商路の一つの終点でもあり、地中海に対しては外港セレウケイアSeleukeiaを通じて交流があり、「東方の女王」ともよばれる通商、貿易、宗教、文化の中心地であった。

 前64年ローマに滅ぼされるとともに属州シリアの首都となり、シリア総督のもとに自由市として引き続き繁栄した。前47年にはカエサルも訪問しており、歴代皇帝もこの都市の建設や修復に貢献した。キリスト教の異邦人伝道の基地としても有名で、『新約聖書』にもしばしば記録され、信者がここで初めてキリスト者とよばれるようになったと伝えられている。アジアの総大司教座所在地として、宗教会議も開かれることが多かった。しかし、6世紀の大地震とササン朝ペルシア軍の攻撃により破壊され、ユスティニアヌス皇帝の努力にもかかわらず繁栄は回復しなかった。7世紀のアラブの占領後はセルジューク・トルコ、十字軍などに占領されて、16世紀にオスマン・トルコの統治下に入った。

[糸賀昌昭]


アンティオキア(コロンビア)
あんてぃおきあ
Antioquia

南アメリカ、コロンビア中西部の県。コルディエラ・セントラル山脈の北部とカウカ川の中流域を占める。面積6万3612平方キロメートル、人口530万(1999推計)。県庁所在地はメデリン(現地ではメデジン)。コロンビア最大の生産県で、コーヒー、トウモロコシ、綿花、大豆、サトウキビ、バナナ、果樹の栽培が、河谷から3000メートルを超す山地の斜面を利用して発達している。農牧業と鉱産物の集散・加工によって発展した中心都市メデリンは同国最大の商工業都市で、カウカ川の船運と、鉄道、幹線道路でカリブ海の港市に連絡している。

[山本正三]

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百科事典マイペディア 「アンティオキア」の意味・わかりやすい解説

アンティオキア

セレウコス朝初期の諸王が建設した多数の都市。重要なものはトルコ南部,シリアとの国境に近いオロンテス河畔のもので,セレウコス1世が前300年ころ建設,アンティオコス1世のときセレウコス朝シリア王国の首都となった。ヘレニズム時代には政治・経済・文化の中心地の一つで,初期キリスト教の要地でもあったが6世紀以後衰退。現在はトルコに属し,現名アンタキヤAntakya(12万3871人,1990)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アンティオキア」の解説

アンティオキア
Antiochia

セレウコス朝の首都,ローマ時代のシリア総督の駐在地。オロンテス川左岸,河口から約27kmの地点に前300年セレウコス1世によって建設された。政治,商業取引の中心地として富み栄え,人口は最盛時に約40万~50万,当時の最大の都市の一つであったが,5世紀前半以後,衰微した。この地はまた異邦人へのキリスト教伝道の最初の基地となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アンティオキア」の解説

アンティオキア
Antiochia

シリア王国セレウコス朝の首都
トルコの南部オロンテス川に臨み,同名の都市16のうち最も有名。セレウコス1世が父の名アンティオコスを記念して建て,ヘレニズム時代・帝政ローマ期に繁栄した。また当市の教会は初期キリスト教世界における五本山の1つであり,教管区が置かれ,公会議も開かれて,キリスト教史上重要な位置を占めた。現在はアンタキヤ(Antakya)と呼ばれる。

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世界大百科事典(旧版)内のアンティオキアの言及

【シリア】より

…313)後は,各地に教会堂,礼拝堂,修道院が建設された。シリアのキリスト教の中心地はアンティオキアであり,神学研究の学統としてアンティオキア学派が形成された。また,エデッサは最初のキリスト教国家として有名である。…

※「アンティオキア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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