ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セレウコス1世」の意味・わかりやすい解説
セレウコス1世
セレウコスいっせい
Seleukos I Nikatōr
[没]前281.8/9. トラキア,リュシマケイア
セレウコス朝シリアの始祖 (在位前 312~281) 。アレクサンドロス3世 (大王)の「後継者 (ディアドコイ ) 」の一人。名門の子弟として大王の「仲間」に加わり,アケメネス朝ペルシアの征服やインド侵入に参加。前 324年スーサの集団結婚式の際に,バクトリア王スピタメネスの娘アパメを妻とした。大王の死後,隊長となり,ほかの武将と勢力争いをし,その間の前 321年にはバビロン総督,前 315~311年のアンチゴノス父子の同盟戦争ではプトレマイオス 1世ソテルに協力,前 312年ガザの戦いで勝利を得た。同年バビロンにおいてセレウコス紀元を始めた。前 305/4年ほかの後継者と同時に王を称し,東征,インドでマウリヤ朝のチャンドラブクタと接触,そのとき 500頭の軍象を獲得した。前 302年に小アジアに戻り,翌年イプソスの戦いでアンチゴノス1世を破り,シリアを領土とした。前 301/0年にオロンテス河畔にアンチオキアを設立,チグリス河畔のセレウキアから遷都した。前 283~281年に政敵デメトリオスとリュシマコスが死去し,インドからマケドニアに及ぶ大帝国の支配者となったが,前 281年プトレマイオス・ケラウノスによって暗殺された。彼の墓はシリアのセレウキアに設けられ,勝利者 (ニカトール) という神としての名が贈られた。精力的な支配者で,彼の治世にすでにセレウコス朝の最大版図が形成された。行政の整備に努め,多くの都市を設立,また探検を奨励し,パトロクレスにはカスピ海を,メガステネスにはガンジス川を調査させた。
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